第24話 月は沈まない
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20年前のあの日も、潮風を裂いて、妖の群れが押し寄せてきていた。
ただ、月が綺麗で、海の上の神社の回廊を散歩していただけだったのに…。
黒々とした影がうねり、爪や牙が火花のように散る。
幼く、まだ修練もろくに積んでいなかった綾は、ただ震えることしかできなかった。
「綾、後ろ!下がりなさい。こっちへ!」
ふいに、大きな声が飛び込んできて、綾の記憶が鮮明に思い起こされた。
綾の母、結城 美琴の声は、恐怖というものを知らないかのように澄み切っていた。
その姿は、幼い綾がずっと憧れ続けてきた――“月の巫女”であり“結城家の戦士”そのもの。
蒼月の太刀《蒼嶺》が抜かれる。
その刃は夜の闇の中、青白い龍の息吹のように輝いていた。
「はあああっ!」
一閃。
迫り来る妖をまとめて薙ぎ払う蒼い蒼光。爆ぜるような音とともに光が散り、妖の群れが一瞬で沈黙した。
綾はその背を見て息を呑んだ。
――やっぱり、母さんは強い。
――母さんがいる限り、絶対に負けない。
そう信じた、まさにその瞬間だった。
海面が、不気味に盛り上がった。
ズズ……ボゴォン!!
水柱を割って現れたのは、黒々とした巨体。禍々しい海霧をまとい、黄金の単眼をぎょろりと光らせる。
「海坊主?!」
美琴が叫ぶ。
海そのものが怨念を得て形になったような、古の海妖。
その出現だけで潮風が悲鳴を上げる。
―――そう、思い出した!あの時も海坊主だった。
そして――その巨腕が狙ったのは、綾。
ひとりだけ、結界を維持できず、その場に膝をついた少女。
無力で、ただ震えているだけの娘。
海そのものが怨念を得て形になったような、古の海妖。
それが姿をあらわした瞬間――世界が、ひと呼吸分沈黙したようだった。
波が止まり、風が引きつり、潮そのものが海坊主の存在に怯えているかのようだった。
黒い巨体は海霧をまとってゆらぎ、その境界は海なのか影なのかすら判然としない。
「お前は、封印されているはず。なぜここに?残滓?封印が弱まっている?!」
ただ“そこに在る”というだけで、空気が重く濁る。
黄金の単眼が、ぎょろりと動いた。
一点を射抜く――綾だ。
海坊主の振りかぶった巨腕が綾へ振り下ろされる。その瞬間、海霧を裂くように風のような力が横から叩きつけた。
「綾に……触るなァッ!!」
ただ、娘を守る母の魂から出た、純粋な叫びだった。
美琴の悲鳴に近い叫びが響き、彼女の足元から気合が爆発したような旋風が巻き上がる。
だが海坊主は、ほとんど怯まない。
海の闇を凝縮させたような躯体は、美琴の気迫を受けても揺らぐことなく、まるで“潮の重み”で大海に根を張っているかのようだった。
美琴は歯を食いしばる。今までの妖怪とは桁違いの重圧を伴いながら、少しずつ厳島神社に迫る。
「こんなの、止まれぇっ!」
蒼光の斬撃が幾筋も走る。蒼白い海霧を切り裂き、禍海坊の巨体に刻み込まれる。が、その傷は、波が打ち寄せれば消えてしまう砂浜の跡のように、一瞬で閉じていった。
「効いていない!?」
驚く暇すらなく、海坊主の反撃が来る。海坊主の右腕にあたる巨大な水の塊が振りかぶられた。
海坊主の巨体がわずかに沈む。
次の瞬間、海底から隆起する大波のように、その右腕がうねりを帯びながら巻き上がった。
≪潮砕滅掌≫
まるで海そのものが掌となって迫るような、逃げ場のない圧倒的な“重さ”。
衝撃の前兆が、空気を歪ませた。足元の床が低く跳ね、漂っていた海霧が一斉に後方へ引き絞られると、禍海坊の掌が突き出される。
雷鳴にも似た空気を切り裂く轟音と共に、見えない壁を力任せに砕くような衝撃が、掌から美琴へと襲いかかる。
その“破砕”の中心で、美琴の瞳が、鋭く細まった。
「……月は、沈まない!」
砕け散らんとする衝撃波の奥で、ふっと淡い蒼白の光が灯る。
美琴の足元で、円弧を描くように月影が揺らぎ、彼女の身体がふわりと横へ滑った。
厳月流・朧歩。
重さに逆らうのではなく、まるで水面に映る影のように“受け流す”踏み込み。
禍海坊の潮砕滅掌は空を裂き、美琴の残像を霧散させながら厳島の回廊を穿つ。
轟音と共に砕け散る床板。だが、その中心に美琴の姿はもうない。
「ここです、海妖!」
月光をまとった蒼嶺が、まるで水鏡の裏側から滑り出るように出現した。美琴は己の霊力を刃に注ぎ込む。
月光が蒼白の焔となって迸り、刀身が淡く震える。
「厳月流奥義、蒼月朧輪閃」
一歩
美琴は桟橋の上へ踏み込んだ。濡れた木板がきしむ音すら、その瞬間だけは遠くへ追いやられる。
足裏に伝わる冷えた感触、だが重心は揺れない。
月影が、彼女の足元に淡く円を描いた。
二歩
身体が、風と水の境界を滑る。
踏み込みと同時に海霧が巻き上がり、白い靄が視界を遮る。
だがその奥、禍海坊の巨腕の影に、一筋の月光が、静かに差し込んだ。
それは偶然ではない。
美琴が選び、導いた“月の通り道”。
呼吸が、ぴたりと止まる。
世界が、音を失う。
三歩
美琴の身体が、影と光の境を越えた。
蒼嶺が、夜気を切り裂くように弧を描く。
刃が振るわれた瞬間、蒼白の月輪が空中に浮かび上がり、幾重にも重なった残像が円を成す。
それは斬撃ではない。月の軌道そのものを、刃でなぞる奥義。
蒼嶺の刃文が淡く輝き、月光が刀身を伝って走る。
斬るのではなく、“月の理を通す”。
遅れて、音が戻る。
シュン――ッ
空気が裂け、白い輪が収束し、その中心にあった海坊主の腕が切り落とされた。
月光が弾け、海霧が一瞬、夜空へ押し上げられる。
美琴は踏み込みを止めず、斬撃の余韻すら背に置き去りにし、次の構えへ静かに移る。
蒼嶺の刃先から、一滴の水が落ちた。
海坊主の巨腕に月光の軌跡が刻まれ、表層の怨念が蒸発するように霧散する。
「ぐ……ぉおおお……!」
海の咆哮が揺れる。与えたダメージがどの程度だったのかわからない。だが――確かに“痛み”を与えた。
美琴は呼吸を整え、刀を構え直した。その背には、たったひとり守るべき娘がいる。
「綾には……指一本触れさせません。」
月光が蒼く揺れ、海辺の戦場を照らし返す。
蒼嶺の軌跡が消え、月輪の残像が夜に溶けていく。
海坊主は、すぐには動かなかった。いや動けなかった。巨体の表面を流れる黒潮が、確かに乱れている。
切り落とされた右腕。海水でできていた右腕が切り落とされ、落とされた跡はまるで鏡のように夜の厳島を反射しながら波打っていた。蒼白の月光が通った場所に、確かにダメージを与えていた。
しかし、致命には程遠い…美琴は直感した。
海坊主は、自身の腕があった場所を一度だけ見下ろした。そこから滴るのは血ではない。濃く、重く、粘ついた怨念を含んだ潮。それが回廊に落ちると、ジュッ、と低い音を立てて染み込んだ。その光景を前にして、禍海坊の単眼が、わずかに細くなる。
「なかなか、やるではないか。我に傷をつけるとは。」
声は低く、静かだった。怒りも驚愕もない。
その声に、美琴は答えなかった。ただ、刃を下げることもなく、呼吸を整えながら立ち続けている。
その足元、わずかに震えが走ったことを――海坊主は、見逃さなかった。
「守りたいもの…か。ならば、そろそろ終焉とするか。」
重い声が、海面を震わせる。この巫女は、今は“倒す相手”ではない。削り続ければ、いずれ折れる。
だが――それ以上に価値あるものが、そこにある。
海坊主の視線が、ゆっくりと横へ滑った。
月影の外、桟橋の端に立つ、小さな影。
綾。
その瞬間、海の流れが、はっきりと変わった。攻める潮が引き、絡め取るための静かな波が広がる。
「今、この一族は滅ぼしておかねば、将来の枷になろう。」
その声は、勝利宣言ではない。
次に行う“作業”の確認だった。
「お主の底は見えた。あやつをやれば、おのずとお主も崩れよう。」
それは、宣言ですらなく、ただ“死”として近づいてくる感覚だった。
夜の海が、静かに、深く息を吸い込む。
狙いは、もはや――美琴ではない。
綾の背に、冷たい気配が這い寄っていた。
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