第23話 深黒の黒煌(こっこう)
大断潮斬が結界を大きく揺らし、蒼光の揺らぎが収まらぬうちに、禍海坊はすでに、次の斬撃の“溜め”へと移行していた。
「先ほどの一太刀を凌いだ程度で、我が海を測ったつもりか。浅い。あまりにも、浅い。」
刹那、禍海坊が片手に持つ漆黒の大太刀に異変が起こる。
その刃は、先ほどまで海を断ち、結界を砕いてきた禍海坊の剣だった。
ギチギチギチ
まるで深海の底で、巨大な骨が鳴ったかのような音だった。漆黒の大太刀が、形を変えていく。幅広の刃が細く絞られ、刀身が長く伸び、切っ先だけが異様なほど鋭く研ぎ澄まされていく。
キィィィィン
鋭く高い金属音が鳴ると、鍔は黒い潮に呑まれ、柄は槍の柄のように延び、刀だったものは、やがて一本の大槍へと変貌した。深海の闇をそのまま固めたような槍だった。
義久が息を呑む。
「太刀を槍に?!何をする気だ?」
ごぼり、と海面が鳴った。
次の瞬間、禍海坊の周囲の海が、不自然に凹んだ。まるで見えない巨大な力に押し潰されたかのように、海面が沈み込み、その中心に、どこまで続いているかわからない穴のようなものが現れる。さらに、その穴から黒い海が逆巻き、禍海坊の足元から、夜の海が螺旋を描いて持ち上がりはじめた。ただの海水ではない。深海の底に沈む水圧そのものを掬い上げたような、重く、暗い潮だった。
潮が槍の穂先へ吸い寄せられていく。重き潮が渦を巻きながら腕と槍に絡みつき、穂先の一点へと凝縮されていく。
義久と颯月が息を呑む。
蒼槍《鯨心》を握る手に、無意識の力が入る。背後に浮かぶ白鯨《深鳴》も、低い鳴動を漏らした。それは恐れではない。同じ海に連なる神獣だからこそ分かる、圧倒的な“海の重さ”への警戒だった。
禍海坊は、ゆっくりと腕を引いた。
斬る構えではない。
颯月が、弓を構え直すが、指先が震えていた。射抜くべき的は見えている。しかし、集まる圧が、あまりにも重すぎる。
綾の蒼嶺も、蓮の滄牙丸も同じように、刃鳴りを起こす。
神器たちもあたかも本能があるかのように何かを訴えている。
禍海坊の口元が、静かに歪んだ。
「お前らは、深海がどういうものか知っているか?海は、お前らの想像を絶する。そして我が黒淵槍も。」
その声と同時に、周囲の黒潮が一瞬で漆黒の刀切っ先に収束する。
空白。
無音。
そして。
禍海坊の咆哮が、厳島の夜を裂いた。
「滅海黒煌閃!!」
禍海坊の腕が、するどく突き出される。
その瞬間、黒い光が一直線に放たれた。黒い稲妻を周囲にまとった光でありながら、周囲を照らさない。闇よりもなお濃く、しかし光としか表現できないもの。
まさに深黒の黒煌。
一点に凝縮された深海の重圧が、黒い光の突きとなって、まるで黒いビームのように一直線に放たれた。
「突き…だと?!」
剛志が目を剥いた。
黒煌は、空を裂いて伸びる。
ただの水でも、ただの斬撃でもない。海の底にあるはずの圧力を、突きの速さと黒淵槍の鋭さで研ぎ澄ませた、禍海坊だけの力技だった。
黒煌が海霧を押しのけ、海面スレスレを突き進んでくる。
朱の大鳥居の影が歪み、神楽台へ伸びるその一条の黒い光が、世界から色を奪っていく。
黒いのに、眩しい。眩しいのに、何ひとつ照らさない。
その矛盾した光が、神楽台へ向けて一直線に伸びていた。
逃げ場など存在しない。
軌道を逸らす余地もない。
その一撃は、初めから蒼海環護陣の一点を撃ち抜き、神楽台ごと貫くためだけに放たれていた。
「颯月、備えろ!!」
義久の叫びが響く。颯月が、咄嗟に葵翔を引き絞った。
「玉藻!!」
颯月が葵翔から結界の補強場所を指示するように光の矢を放つと、白鷺《玉藻》が翼を広げ、蒼海環護陣の表面へ無数の白い光糸を走らせる。縫光が何重にも張り巡らされた。
義久もまた、蒼槍《鯨心》を神楽台へ叩きつける。
「深鳴、俺等もしのぐぞ!!」
空中に浮かぶ白鯨《深鳴》が、低く、深く鳴いた。その鳴動が海面を震わせ、蒼い潮の膜が結界の内側から膨れ上がる。
蒼海環護陣の一部が、一瞬だけ厚みを増した。
だが。
次の瞬間、深黒の黒煌が結界に到達し、突き刺さった。
深海の重圧そのものが、黒い光となって蒼海環護陣の一点へめり込み、押し潰し、貫こうとしていた。
ピキキ…
青白い結界の表面が、内側へ大きく凹む。
「ぐっ……!」
義久の膝が沈み、蒼槍《鯨心》を握る両腕に血管が浮かぶ。背後の深鳴も巨体を空中で大きくうねらせ、義久と共に結界を維持に力を送り込む。
「兄さん!」
「こらえろ、颯月!!今こらえねば、厳島ごと吹き飛ぶ!」
颯月の光糸が、次々と弾け飛ぶ。
一本、また一本。
玉藻の縫光が、黒煌に触れた瞬間、音もなく千切れていく。
神谷兄妹の必死の抵抗でも、深黒の黒煌は、止まらない。
青白い光の膜の奥で、禍海坊の放った黒き突きが、じりじりと結界の内側へ食い込んでいく。
蓮は、滄牙丸を握り締めたが、それ以上何もできなかった。いや、正しくは、あまりの光景に本能が動くことを拒絶していた。
目の前に迫るそれは、もはや妖術ではない。
海を支配する者が、海そのものの重さを一点に集め、黒い光として撃ち放った、純粋な力の暴力だった。
そして、禍海坊の声が、黒煌の向こうから響いた。
「すべて貫け。厳島ごと、海の底へ沈め。」
ピシッ。
ガラスに爪を当てたような、鋭い破裂音。だが、全員がその意味を理解した。
ピシピシピシ……ッ!!
中心部から蜘蛛の巣状に亀裂が走る。
斜めに、縦に、横に――
蒼光が裂け、黒い深海の圧がそこから“漏れ出した”。
「……くそ……!だめだ。まだ、持て……!」
義久が必死に支えるも、禍海坊はさらに腕を押し込み、突きの残圧すら結界へ叩き込む。
結界はもはや、破壊の一歩手前。
蒼海環護陣の表面に走る亀裂は、次の一撃を受け止める力を――もう、ほとんど残していなかった。
まるで大地震の前触れのように亀裂が音を立てて広がり続けていた。
綾はその場に立ちすくんだまま、震える唇を結ぶことすらできずにいた。
「……嘘……こんな……。」
空から月が消えてから、“月の巫女”である綾の力をほとんど奪っていた。
輪郭だけが残る赤い月光は弱く、細く、頼りなく――まるで綾自身の心そのものを映すようだった。
「ダメ、義久さんと颯月さんの結界が…。私、何も……できない……。」
いつもなら月龍の力が背中を支えてくれる。満月の夜は彼女にとって舞台そのもののはずだった。
だが、今日は違う。
月が欠けるたび、綾の身体から“力”だけでなく“存在意義”までもが剥がれ落ちていくようだった。
蒼海環護陣が悲鳴を上げるたび、胸の奥がズキリと痛む。
「私……何のためにここに……いるの……?」
呆然としたまま、綾は結界に走る亀裂へと手を伸ばした。
しかし届くはずもない。
「みんな戦ってるのに……私だけ……何もできない…動けない…ただ見てるだけなんて……。」
綾の瞳に、初めて“涙の色に似た光”が浮かんだ。
その時――
禍海坊の影が月食の紅を浴びながら、ゆっくりと綾の方へと視線を向けた。
「どうした?月龍の器よ。光を失えば…ただの少女か?」
その嘲りの声は、綾の胸の奥で残っていた“誇り”を深く、静かに刺し貫いた。
「母さん…。」
綾はポツリとつぶやいた。
蒼海環護陣に走った亀裂が、まるで世界の終わりの裂け目のように綾の瞳に映っていた。
――守れない。
――また、何もできない。
胸の奥がひゅっと縮み、呼吸が浅くなる。
月食に奪われた力は、ただの力ではない。
“自信”そのものを食い破る、底なしの闇だった。
禍海坊の嗤い声が耳に刺さる。禍海坊が追い打ちをかける。
「フハハハハ、厳島の要。月光を失ったおまえなど……あの日と、何も変わらぬだろう?」
――あの日?あの日って・・・?
禍海坊の声は、もう綾の耳に直接届いていなかった。代わりに胸の奥底、決して触れたくなかった古傷が開きはじめる。綾の足がふらりと揺れ、視界が滲む。
蒼い神楽灯の光が揺らめき、景色が遠ざかってゆく。
そして――波音が変わった。
潮風の匂いが、別の季節のものに変わる。
あの日の、忘れられない夜へ――。
――あの日。ぼやけていたイメージが、徐々にはっきりしてくる。
――あの日!!
心の奥底にしまわれていた20年前のことが鮮明に思い出された…。
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