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第22話 禍海坊、真なる本領

「だが――“あの方”は言われた。『厳島の結界は、今宵必ず断ち切れ』とな。ならば、我が刃で果たさねばなるまい。」


 颯月が息を呑み、義久が一歩前に出て盾の構えを深める。綾も蒼嶺を握り直す。


 禍海坊は、漆黒の大太刀をゆっくりと肩へ担いだ。

 その動作は驚くほど静かだった。だが、ただ刀を持ち上げただけで、周囲の潮が低く唸り、神楽台を包む《蒼海環護陣》の光がわずかに瞬く。


 黒き水干をまとった老躯は細く見える。しかし、その背後には、底の見えない海をそのまま背負ったかのような巨大な闇が揺れていた。背後に映る影が、老将の呼吸に合わせてゆっくりと波打つ。


「さて……。」


 禍海坊の口元が、わずかに歪む。


「ここからは、小細工ではない。我が力そのもので、押し潰してくれよう。」


 言い終えるより早く、禍海坊は一歩、踏み込んだ。

 ただの一歩だった。

 それだけで、海面が大きく沈む。まるで厳島の海そのものが、老いた大妖の足取りに従っているかのようだった。

 禍海坊が、大太刀を振りかぶる。

 その動きは遅い。

 積み重ねられた数百年の怨念が、刃の重みとなっている。

 振り上げられた黒潮の大太刀は、夜空に沈んだ赤黒い月をも斬り落とすかのように、静かに高くかかげられた。


「海は割れ、月は堕ちろ!!」


 海底から響くような禍海坊の声と共に、漆黒の大太刀が振り下ろされた。


 《大断潮斬だいだんちょうざん


 刃が描いた軌跡は、斬撃などという生易しいものではなかった。空気が裂け、海が唸り、神楽台を包む《蒼海環護陣》の光が、一瞬にして大きく歪む。それは、世界そのものを断ち割ろうとする黒潮の一閃だった。


 轟音は――音というより、大気そのものが悲鳴をあげて裂ける衝撃。

 空が、海が、大地すらも震える。禍海坊の大太刀が振り下ろされた瞬間、神楽台の上空には、まるで夜空が破れたように一直線の“黒い断層が走った。

 その裂け目から吹き出したのは、海底より重く、深海より冷たい、押し潰すような圧力の奔流。

 斬撃は、光が逃げるより速かった。

 大太刀が振り抜かれた軌跡――

 そこには「斬ったはずの空間」が数秒遅れて形になり、遅延して響く轟音が波のように押し寄せた。それほどの重みが、斬撃の形となって迫っていた。


「来るぞ!!」


 義久の叫びは、ほとんど咆哮に近い。しかし、振りかぶるのをみて叫んだ瞬間には、すでに斬撃は結界まで到達していた。


 蒼白の結界と、禍海坊の黒い斬撃が激突する。蒼海環護陣の表面が、斬撃が触れる瞬間を「察し」たように震え、薄氷がたわむような高音を発する。


 次の瞬間――


 パキィィイン!!!!!


 光と闇が弾け、結界の外側に巨大な斜めの衝撃波が走り、空気が真っ白に染まるほどの超圧縮が生じる。結界が悲鳴を上げ、蒼光が激しく波打ち、境界面が大きく凹む。

 海そのものの重さを持った“斬撃”が、結界を押し潰そうとしていた。耳が破れんばかりの悲鳴とともに、結界が激しく揺れた。

 蒼白の膜が波打ち、裂け目が広がり、崩壊の兆しが一気に表面化する。

 颯月が顔を歪めた。


「……っ、縫光ほうこうが、ほどける!」


 蒼弓《葵翔》を握る手が震える。

 玉藻の翼から伸びる光糸が、結界の綻びを縫い留めるため走る。だが、禍海坊の黒い斬撃はその糸すら巻き込み、境界ごと押し潰していく。

 義久は蒼槍《鯨心》を両手で握りしめ、神楽台へ深く突き立てた。


「深鳴、押し返せ!」


 その声に呼応し、背後に浮かぶ深鳴が、深海から響くような低い鳴動を放つとともに、蒼白の潮が結界の内側から噴き上がり、潮の盾が厚みを増していく。蒼白の潮が結界へ流れ込み、凹んだ膜を内側から押し戻そうとする。


「踏ん張れ、颯月!こいつは、さっきの黒い雨とは格が違う!」


「わかってる!でも、重すぎるっ!」


 颯月の声が震えた。結界の外縁を縫い留める光糸が、一本、また一本と弾け飛ぶ。

 綾は蒼嶺を握る指に血が滲むほど力を込め、


「結界が割られる……!こんな……強い……!」


 恐れと共に、かなわない…そんな思いが顔に滲み始めた。


 大断潮斬はなおも圧を増し、蒼海環護陣の表面がついに、悲鳴をあげて軋んだ。

 膝をつきかけた颯月の肩を、義久が支える。白鯨の巨影が兄の背後に立ちあがり、海から吹き込む瘴気を押し返す。


 そのとき、義久は綾へと視線を向け、静かに言葉を落とした。


「誤解するなよ、綾。俺たち神谷の守り場は因島だ。」


 月食の赤黒いひかりの中、彼は白鯨の霊力を槍へ乗せる。


「だが――瀬戸内の海が悲鳴を上げているなら、場所がどこであれ関係ない。厳島に危機が及ぶのは、因島、ひいては瀬戸内の危機に直結する。因島の要、蓮の守護である俺も槍を振るう。それが神谷の務めだ。」


 蓮は息を呑み、綾はわずかに目を見開いた。その言葉は叱咤でも虚勢でもなく、ただ静かな覚悟だった。

 しかし――

 禍海坊の圧力は、義久の覚悟さえも試すかのように、すぐに倍増した。

 禍海坊が体を少し傾け、口元を吊り上げる。


「人よ……まだ抗うか……

 あの方より賜りし“深淵の息吹”――その一端を前にしてなお、立つつもりとは……愚かよな。」


 その声が響いた瞬間、空気が“沈む”ように重くなった。


 ぐ、あ……ッ!


 と、颯月が歯を食いしばる。

 白鷺《玉藻》の体が大きく揺らぎ、結界を覆う光膜が一気に鈍色へとくすんだ。

 蓮も滄牙丸を構え直す。だが、押し寄せてくる気配は、刃で受け止められるようなものではなかった。

 押し寄せてくるのは妖気ではない。もっと重く、もっと深い。海そのものが怒りを持ち、神楽台ごと沈めようとしているかのような圧だった。

 足元が沈むような錯覚に、蓮は奥歯を噛み締めた。

 隣では綾の蒼嶺も、主の恐怖に呼応するように細かく震えている。


 義久が短く叫ぶ。


「もう一撃来るぞ!結界ごと押し潰す気だ!!」


 次の瞬間。

 海坊主の両腕が、ゆっくりと、だが確実に掲げられた。異様な振りかぶり方。ただの斬撃には見えない構えを見せる。

 その周囲の空間が波打ち、闇の海のように歪む。

 まさに、結界を破ろうとする海坊主の“圧”そのものが、神楽台を押しつぶさんばかりに迫っていた。


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