第18話 深淵より来たるもの
「……グ、グハハ……。
月が…欠け…、結界は乱れ……
我を縛る鎖は…、ついに解かれた……。」
その声は、ゴボゴボという音と共に、まるで海そのものが呻くように低く響いた。
海哭の群れが潮流に飲まれ、一斉にひれ伏す。闇の海に君臨する絶対者の前で、雑兵たちはただ従うのみだった。
「なんだ……あいつ、デカすぎだろ……!」
蓮は思わず息を呑んだ。
沖合に立ち上がった黒い巨影は、もはや妖怪というより、海そのものが人の形を取ったかのようだった。波がその肩を伝って滝のように落ち、巨大な腕がわずかに動くだけで、厳島の海面が大きくうねる。
その圧だけで、神楽台の板がみしりと鳴った。
「うぅぅぅ……蓮兄ちゃん、どうしよう……。」
汐音が月穿を握りしめたまま、蓮の袖を掴んだ。いつもの勝ち気な表情は消え、十四歳の少女らしい怯えが、その声に滲んでいる。
蓮も、本当は同じだった。
足は震えている。喉は乾き、滄牙丸を握る手には嫌な汗が滲んでいた。目の前の存在が、自分たちの手に負えるものなのかどうか、それすらわからない。
けれど、汐音の前でそれを見せるわけにはいかなかった。
「俺たちで何とかするしかないだろ。」
蓮は、できるだけ強く聞こえるように言った。
「俺だって逃げ出したい。でも、ビビって逃げても、背中からやられるか、島ごと呑まれるだけだ。だったら……前を向いて戦うしかない。」
そう言いながら、自分自身に言い聞かせているのが分かった。それでも、汐音の手からわずかに力が抜ける。
「……蓮兄ちゃん。」
「大丈夫だ。お前は一人じゃない。綾もいる。義久さんも、颯月さんもいる。厳島の守護たちだっている。」
蓮は視線を海坊主から逸らさず、滄牙丸を構え直した。
「だから、泣くのは後にしろ。今は、構えろ。」
「……うん!」
汐音は震える唇を噛み、月槍《月穿》を握り直した。
その横で、義久が蒼槍《鯨心》を強く握る。普段なら自信満々に豪快に笑って場を押し切る男が、今だけは明らかに表情を硬くしていた。
「あれが海坊主……封印級じゃねぇのか。なんでこんなところに、完全に近い形で出てきやがる?」
義久は思わず半歩、後ろへ下がった。それほどの圧だった。颯月も蒼弓《葵翔》を構えながら、白鷺を肩に呼び寄せる。彼女の表情から、軽口は完全に消えていた。
「兄さん……さすがにあれは、やばいんじゃない?」
「ああ。やばいなんてもんじゃねぇ。」
義久は低く答えた。
「だが、ここで引いたら終わりだ。蓮、颯月。俺たちの出番が来るかもしれん。いつでも動けるようにしておけ。」
「わかってる。」
蓮が短く返す。
「ええ。結界の補助でも、足止めでも、できることは全部やる。」
颯月もいつでも打てるよう弓と矢を片手にもち、海坊主の巨体を見据えた。
因島の守護たちも、もはやただの援軍ではいられなかった。
義久の背後では、白鯨《深鳴》の巨影が、見えない海を泳ぐように宙へ浮かび、深海から届くような低い鳴動を、夜気の奥へと震わせている。颯月の肩にとまった《玉藻》は、赤い瞳で海坊主の弱点を探るがごとく射抜いていた。
蓮の滄牙丸もまた、主の恐怖を知ってか知らずか、刃の奥で水の光を脈打たせている。その気配に呼応するように、神楽台を包む咲紀の白炎結界が、ふっと強く燃え上がった。
「蓮くん、汐音ちゃん、下がりすぎないで!」
咲紀が綾に支えられながらも声を張る。
「この結界の内側なら、まだ持ちこたえられます。でも、外に出れば一瞬で呑まれるわ。今、雑魚に構っている暇はない。」
「咲紀、無理をしないで。」
綾が彼女を支えながら言う。
咲紀は苦しげに息を吐き、それでも微笑んだ。
「無理はします。だって、ここで無理をしなかったら、何のために厳島の守護を名乗っているのか分からないもの。」
その言葉に、剛志が豪快に笑った。
「いい根性してんじゃねぇか、咲紀。なら俺も、ここで引くわけにはいかねぇな。」
剛志は剛嶽を肩に担ぎ、大狼と共に一歩前へ出る。青白い雷が槌の表面を走り、血の月を裂くように火花を散らした。
「海坊主だろうが、封印級だろうが、ぶっ叩ける形してんなら問題ねぇ。俺が殴る。」
「単純すぎる。でも、今はその単純さが頼もしいわね。」
静が氷蛇珠を掲げた。白蛇が彼女の腕から肩へと這い上がり、紅い月光の中で白い鱗を冷たく光らせる。
「ただし、正面から受け止めるのは無謀。動きを凍らせる。隙は作る。」
「なら、俺は目を欺こう。」
悠幻が幻書ノ札を指先で弾いた。札は宙を舞い、赤い月光を受けて紫黒の光を帯びる。
「相手が海そのものみたいな化け物でも、見ているものがあるなら惑わせられる。まあ、効くかどうかは試してみないと分からないけどな。」
「みんな・・・。」
ニヤリとしながら悠幻は肩をすくめた。皆が自分を奮い立たせるのに必死だった。
綾は蒼嶺を握り直し、月龍は一旦、彼女の足元に小さく鎮座した。
赤く欠けた月の下では、その姿もどこか不安定のようだった。蒼白の龍体は揺らぎ、まるで月の光を失って苦しんでいるようにも見える。
「月龍……。」
綾が小さく呟く。月龍は言葉を返さず、ただ、綾を守るように、その足元で静かに身をくねらせた。
その時、沖合の海坊主がゆっくりと顔を上げた。 黄色く濁った双眸が、神楽台を、白炎結界を、そして綾を見据える。
「グハハハハハ……。」
海の底から泡が浮かぶような笑い声が、厳島の夜に響いた。
海坊主はゆっくりと腕を広げた。
水面が裂け、海そのものが従うかのように盛り上がる。その動作一つで、海全体が脈打ち、厳島の社殿の板間から水が噴き上がった。
「安芸の宮……月の巫女の血脈……幾百年、我を封じた鎖よ。」
その眼差しが、綾へと突き刺さる。
「今宵こそ、海の底へ沈めてやろう。」
蒼嶺を握る綾の指に、力がこもった。蓮は、その横顔を見た。怖くないはずがない。綾もまた、恐れている。けれど、彼女は退かない。厳島の要として、月の巫女として、赤い月の下に立っている。
ならば、自分も退けない。
「綾。」
蓮は短く呼んだ。
「俺もいる。因島の要として、ここにいる。」
綾は一瞬だけ蓮を見る。そして、小さく頷いた。
「ええ。頼りにしているわ、蓮。」
その言葉が、蓮の胸に深く刺さった。恐怖は消えない。けれど、逃げる理由にはならない。滄牙丸の刃が、赤い月の下で淡く水色に輝いた。
海坊主は、さらに低く笑う。
「よかろう。ならば見せてみよ。八海神の末裔どもよ。お前たちが守ると叫ぶこの海を、どこまで守れるのかを。」
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