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第17話 「白峰 咲紀」の覚悟

 海哭の群れは膨れ上がり、瘴気の波は止まらなかった。


「この数で第一波なのか?多すぎる。もしや、結界が不完全だから?だとしたら……。」


 静が低くつぶやくと、悠幻が血月を指差した。


「完全に月が隠れた時、もっと“でかいの”が出てくるぜ。」


 彼の言葉を裏付けるかのように、海の向こうから不気味な咆哮が轟いた。大地が震え、海哭たちの群れが一瞬ひれ伏すように動きを止める。


「海の底から?今までのとは格が違う?!」


 綾は蒼嶺を強く握りしめ、血の色に染まる月を睨みつけた。


 いよいよ、月は闇に沈もうとしていた。赤黒い縁だけを残し、白銀の光は完全に遮られようとしている。海哭の群れが押し寄せ、戦場は混沌の極み。

 その時、神楽台の後ろから、白衣に緋袴をまとった影が進み出た。白峰 咲紀。戦闘向きではない彼女は、皆が海哭を押しとどめている間、背後で戦況を確認していたのだ。月祓扇を手に掲げ、意を決したように深く息を吸う。


「綾。時間がありません。初めて張る結界ですので、できるかどうかわかりませんが…やってみます。これで少しは時間稼ぎができるはず。その間に、皆で備えを。」


 彼女の声は、血に染まった空の下でなお澄んで響いた。


「咲紀、任せるわ。あなたならやれる。」


「厳島の地を護りし神々よ――今こそ、その御名を借りて結界を顕現させます。」


 舞うように一歩、また一歩。扇を振る度、白い炎が花弁のように散り、神楽台を取り囲む。

 白鴉の炎の尾が揺れ、鳴き声が夜を裂いた。

 咲紀の唇から、祝詞が紡がれる。


「天津祝詞の太祝詞を、

 天津神、国津神、八百万の神々の御前に奏上す。

 安芸の宮居、厳島に坐す宗像三女神、

 市杵島姫、湍津姫、田心姫――

 今こそ御力を借り、潮騒に揺るるこの島を護り給え。

 清き炎を柱となし、

 禍ツ霊を退け、

 海と月の境をここに定めむ!」


白炎結界びゃくえんけっかい・天祓ノあまはらいのみや


 扇を天へ突き上げると、白炎の柱が神楽台を包んだ。炎は白く透き通る壁となり、神社を覆う半透明の結界が立ち上がる。まるで海と空の狭間に、神域そのものが降りてきたかのようだった。結界が完成すると同時に、咲紀が膝から崩れ落ちる。


「……っ、咲紀!」


 綾が慌てて駆け寄り、咲紀を抱きかかえ、驚きと安堵の入り混じった声を漏らした。


「大丈夫です。――欠けゆく月に代わり、ここに炎の守りを。」


 咲紀の額には汗が滲む。だが、その瞳は真っ直ぐ前を見据えたまま。次の瞬間――空の月が、完全に闇へ呑まれた。

 境内から光が消える。潮騒は遠のき、海風すら息を潜めたように止まった。世界そのものが、紅黒い闇へ沈み込んでいく。だが、その中で。咲紀の結界だけは、なおも白炎を燃やし続けていた。

 白炎は立方を成し、幾重もの光紋を浮かび上がらせながら舞台を包み込んでいる。炎であるにも関わらず熱はなく、むしろ澄み切った神気だけが空間を満たしていく。その光景は、まるで厳島そのものを切り取った神域だった。

 結界の外縁へ海哭うみなきたちが殺到する。

 瞬間。

 ジュッ!!

 白炎へ触れた亡霊の腕が、水蒸気を撒き散らしながら一瞬で崩壊した。だが海哭は止まらない。濁った呻きを漏らしながら次々と結界へ群がる。そのたびに、結界表面へ白い波紋が広がった。

 咲紀は力を振り絞って月祓扇つきはらいのおうぎを強く振るう。

 ――ボォッ!!

 四方の松明が呼応するように炎を噴き上げ、結界を走る光紋がさらに輝きを増した。押し寄せた海哭たちは、一斉に白炎へ焼かれ、悲鳴を上げながら崩れていく。


「すごい。結界ってこんな力があるの?」


 汐音が息を呑む。ただ防いでいるだけではない。咲紀の結界は、侵入する穢れそのものを浄化し、神域へ変えているのだ。


「少し時間が稼げたな。綾、静、悠幻まだまだやれるよなぁ?」

「剛志、お前は誰にものを言っている?」

「咲紀にこんな力があるとはね。さすがは、厳島の守護ナンバー2。」

「咲紀が作ってくれた時間を無駄にできないわ。皆、今のうちに体制を…。」


 だが、その時だった。


 ――ゴォォォォォォォ……。


 低く、海の底から響くような唸り声が境内を震わせた。

 瞬間、海哭たちの動きが止まる。まるで、何か“上位の存在”へ道を譲るかのように。

 重く低い響きが海底から続けて突き上げてくる。ゴゥ……ゴゥ……と、大地を揺るがすような鼓動。神楽台に立つ者たちの足元を震わせる。


「……やべぇのが来るぞ。気をつけろ、蓮、颯月。そして、汐音。」


 義久が鯨心を握り締める。

 やがて、沖合の海面が、ゆっくりと盛り上がった。ざぶり、と大量の海水が零れ落ちる。海そのものが立ち上がるように、巨大な黒い影が霧の中から姿を現した。

 それは波間に揺れる影ではなく、確かな「人の姿」を形づくっていく。

 巨体は山のごとく、しかし顔には人の面影が宿り、黄色い双眸がぎょろりとこちらを見ているようだった。

 綾が蒼嶺を握り締め、低く呟いた。


「……海坊主。」


 ――海坊主。

 かつて瀬戸の海を往来する船乗りたちが最も恐れた存在。

 沈められた無数の魂と、溺れた者たちの怨嗟を喰らい、いま一つの「王」として顕現した。


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