2-9 海坊主、神化
「これぞ真の我よ。」
白髪、灰白のひげを垂らした老人――いや、“大妖”は静かに言った。波濤の轟きのような声が周囲の水気を震わせ、空気が微かに歪む。
「なぜ、人の姿に?!」
綾が目を見張った。
「海を従え、潮を統べるには……より神に近い形がよい。」
大妖は静かに両腕を広げた。その動作すら、海の満ち引きのようにゆったりと雄大だった。
「神は信仰が作り出し思念が具現化したもの。人の形を得ることで、思念が強くなり、より神に近づく……それこそが神化だ。」
掌に集まる海霊の光が渦を巻き、漆黒の線が一本、また一本と伸びていく。それらが結び合い、編まれ、何かを形作り始める。
「我が名は、『禍海坊』。あの方にいただきし名。名を得ることも、我を神に近づける。思い知るがよい。これが、始まりにすぎぬことを。そして終わりであることを。」
その掌に海霊の光の線が集い、海の闇を凝縮したような漆黒の刃が、老人の手の中に現れた。
「でかいのが来るぞ!」
剛志が剛嶽を構え、前に出る。
「聞け……これは三百年分の哭声ぞ。」
海はざわめき、厳島の海霊たちが哀しげに呻いた。その声と同時に、足元の海面が音もなく沈みこむ。
次の瞬間、海原が天地を反転させたかのように隆起した。
うねる水塊はただの波ではない。泡立つ水の一粒一粒が青白い鬼火を宿し、溺死者の呻きが混じり合っている。数百、数千の魂の慟哭が束ねられ、黒き奔流を形成していた。
海坊主はゆっくりと刃を振りかぶり、名を叫んだ。
「《潮哭大劫禍濤断》!」
海坊主の刃が振り下ろされる。光ではなく、影が走った。巨大な怒濤が刃の軌跡をなぞるように奔る。ただの斬撃ではない。それは海面に打ち付けられた災厄そのもの。
轟音は雷鳴を凌ぎ、社殿の柱を軋ませ、大鳥居を震わせる。
怒濤の表面には数多の顔が浮かんでいた。怨霊、溺死者、祟り神――声にならぬ呻きが重なり、耳を劈く悲鳴と化す。
「…っ! あれは、海に沈んだ魂たちを刃に変えて…。」
悠幻が絶望に似た声を上げる。巨大な怒濤がゆっくりではあるが、巨大な壁となって迫る。
周囲の樹木が先行してきた風圧でなぎ倒され、咲紀の結界の光壁が大きくたわむ。この怒濤は触れた瞬間、ただの物質ではなく「魂の存在」を切り裂かれる…それを肌で悟った綾は、血が凍るのを感じた。
「みんな、構えろ!受けきれなければ……魂ごと呑まれるぞ!」
剛志が構えていた剛嶽を振りかぶり、全身の筋肉を緊張させる。怒濤は勢いを増しながら、まるで海そのものが敵となり、あらゆるものを根絶やしにしようと押し寄せてくる。
月は相変わらず輪郭だけ。まるで海を支配する覇者であり皆を絶望に陥れんとばかりに、渦海坊の背に深紅の後光を描き出す。
怨嗟を宿した斬撃は、神楽台そのものを呑み込まんと、轟音と共に巨大な濤が逆巻き、闇の刃と化して陸を襲う。社殿が震え、朱の大鳥居さえも大きく揺れる。
「くっ……!結界が持たんぞ、退けぇぇぇ!!」
義久が咆哮し、全員が散開する。
妖気が宿った海水はただの海水ではない。神楽台の周辺に張り巡らせていた式神を海水が掠めた刹那、悠幻にも皮膚が焼け爛れるような瘴気が奔る。
「なっ……!これは、ただの衝撃じゃない、魂そのものを断つ斬撃!みんなやられるぞ!」
珍しく、悠幻が顔を歪め、焦った声で叫ぶ。そんな中、剛志だけは一歩も退かなかった。逆に、咲紀の結界の外に飛び出すと、
「来やがれェ!!」
大地を蹴り、金剛槌《剛嶽》を両腕で構える。大狼が吠えた瞬間、空気がビリビリと震え、天から稲妻が落ちたかのように、彼の体を青白い雷光が走った。
「大狼とともに俺が盾になる!皆は結界の中に。咲紀、合わせろォッ!守れるのはお前だけだ!」
咲紀はわずかに驚いたように瞳を見開くが、すぐに察し、月祓扇を広げる。
白鴉が羽を広げ、白い炎に包まれた。咲紀は最後の力を振り絞り、舞うように結界の火を解き放つ。
「白鴉、穢れを祓う炎を。雷鳴に舞い添え――白炎加護・祓火ノ舞。」
同時に、咲紀の白炎が花弁のように舞い散り、青白い雷に溶け込んだ。
雷と炎――二つの力が重なり合い、金剛槌《剛嶽》が黄金と白の光柱となって輝いく。剛志が咆哮と共に剛嶽を怒濤に向けて振り下ろした。
バシュゥ!ドォォォン!
大鳥居の振動がわかるほど、轟音が響く。
「うおおおおおッ!! オレごと持っていく気かァァッ!!」
剛志は血管を浮かべながら歯を食いしばる。金剛槌が軋み、手の皮膚が裂け、血が滴る。それでも一歩も退かず、全身で斬撃を受け止め続けた。その背後で、咲紀と白鴉が舞い続ける。扇の軌跡と白鴉の炎がかさなり、剛志を包む光の衣を編み上げる。
「剛志さん、あと少し!」
彼女の声は必死だったが、舞は一分の隙もなく、白鴉の炎が剛志の雷撃に重なり、剛嶽から発せられる炎が怨念を一つ、また一つと焼き払った。
波濤の呻き声が次第にかき消され、禍々しい水塊が削がれていく。
「効いてる!このまま押し返せェェェッ!!大狼!最後だ!」
剛志が剛嶽を大狼と共に押し込む。白炎と雷光が合わさり、一瞬、夜空をも焦がす光のとなって炸裂した。
ついに《禍濤断》の波頭が砕け散った。
黒き海の怨嗟は弾け飛び、残骸となった海水が大鳥居に激突して白く飛沫を散らした。
荒い息を吐きながら剛志は片膝をつく。
「……っは……まだ……来やがるかよ!」
全身に痺れと痛みを感じながらも、彼は立ち上がろうとする。
咲紀はその肩に手を添え、柔らかく微笑んだ。
「剛志さんが耐えてくれたから……みんな無事です。」
その言葉に、剛志は豪快に笑い、血に濡れた拳を握り直した。
だが――禍海坊は動じていなかった。その老いた顔のひげをなでながら、むしろ愉悦すら浮かべている。
「……ほう。三百年の怨哭を止めるか……だが、まだ始まりに過ぎん。」
その言葉、表情がハッタリでないことは、誰の目にも明らかだった。
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