第19話 新たなる器
海面を裂いて立ち上がる巨影。
海そのものが凝り固まったような肉体に、人の面影を残す顔。その双眸は底なしの闇を宿し、見る者の魂を吸い込むかのようだった。
海坊主は、低く、響き渡る声で呟いた。
「……永き封印……ついに解かれた。
あの方より与えられし力が……
深海の鎖を断ち切り、我をこの世に呼び覚ましたのだ。」
その言葉に、綾が眉をひそめる。
「“あの方”?誰に力を与えられたのか?」
巨体は、海を震わせるような笑いを放った。
「グフフフフ……月の巫女よ。お前が知る必要はない。ただ、あの方は望んでおられる、海を血に染め、この地を呑み込むことを。」
月光が陰り、紅い月食がさらに深まる。海坊主の背後で、亡霊たちが次々と形を増し、うねる黒潮のように神楽台へ迫ってくる。
「……感じるか、人の子らよ。我はただの妖怪にあらず。あの方の力を得て、この瀬戸を呑む“災厄”となったのだ!」
海坊主はゆっくりと腕を掲げた。その掌に、渦潮のような黒き球が生まれ、周囲の海を吸い込み始める。
「まずは試させてもらおう。月の巫女と、その従う者たちが……グフフ……どこまで抗えるかをな。」
月なき空の下、闇と水が混ざり合う。海を割ってそびえ立つ海坊主の巨躯の下で、波は荒れ狂い、厳島の社殿をも呑み込まんとする勢いで打ち寄せていた。
「妖怪に力を与える存在がいる……ただの亡霊じゃねぇな。」
義久が歯を食いしばる。
「クソッ、上位の妖怪に力を与えている黒幕がいるってことか!」
蓮も滄牙丸を構え直し、低く呟く。
「やはり、今までの出来事はただの偶然じゃなかったか。おかしいと思ってたぜ。」
「厳島の結界の揺らぎも、因島に妖怪が現れ始めたのも、全部“そいつ”が仕組んだってことか。この月食までも。」
海坊主は嘲笑を浮かべるように、海の奥底から響く声を放つ。
「気づくのが遅い。三百年……四百年……この海で積もり続けた怨念が、ただ自然に目覚めたと思ったか?」
綾が一歩前へ進み、蒼嶺を握りしめた。
「おまえの言葉……その“あの方”が、結界を揺らしたということか?」
「フフ……月の巫女よ。お前の母が命を懸けて封じた結界など、所詮は時を稼ぐに過ぎぬ。あの方が望むのは、この瀬戸を血潮で染め、龍すら屈服させる新たな“秩序”だ。」
その言葉に、咲紀が思わず声を荒げた。
「秩序……?ふざけないで!人を苦しめ、妖たちを狂わせることのどこが秩序なの!」
海坊主は眼窩の奥に渦を巻く闇を揺らめかせ、冷笑を返す。
「人と妖が相争うのは常。だが、あの方の力を授かれば、我らはただの怨霊にあらず……神すら超える存在となる。」
剛嶽を担いだ剛志が低く唸る。
「神を超える、だと?てめぇ、ただの妖怪が調子に乗ってんじゃねえぞ!」
悠幻が一歩引きながら、冷静に海坊主を観察する。
「いや、こいつは本当に「与えられて」いるな。妖怪の力にしては不自然に澄んでいる。まるで、外から注がれた神気のように。」
静が小さく息を呑む。
「神気…つまり、“あの方”とやらは妖怪ではなく“神格”を持つ存在と言いたいのか?」
神楽台に立つ綾と蓮の胸を、冷たい戦慄が貫いた。蓮から思わず、声が漏れる。
「じゃあ、瀬戸内の妖怪たちが人を憎むようになったのも、全部、そいつが仕組んだことなのか?」
海坊主はゆっくりと顔を上げ、輪郭だけになった紅月を仰ぐ。
「我らの憎しみは真実。だが、それを掻き立て、形を与えたのは、“あの方”だ。お前たちの先祖が海を血で染めたその記憶を……より深く、より濃く、我らの魂に刻んでくださったのだ。」
綾は刀を震わせながら叫ぶ。
「なら、そいつの狙いは、結界を壊して、この海を再び戦乱に戻すことっていうのか?!」
海坊主は愉悦に満ちた声で答えた。
「その通りよ。三百年の平和など、ただの仮初。“あの方”はすでに、八海神の結界を順に揺らしている。お前たちが守ってきたものは、すべて無に帰す運命だ!」
その瞬間、汐音が思わず声を張り上げた。
「嘘だ! そんなの、絶対にさせない!お姉ちゃんだって、蓮兄ちゃんだって、みんな守るために戦ってるんだ!」
蓮は一瞬驚き、汐音を見た。その真っ直ぐな瞳に触れ、蓮もまた覚悟を新たにする。
「……そうだな。誰が裏で糸を引いてようと、俺たちがここで止める。」
「話はここまでだ。あのお方にいただいた力、今こそ真の姿を示してやろう。貴様らをねじ伏せるために授かった、この“器”を、とくと味わうがよい。」
巨躯の海坊主が、ゆっくりと身を屈める。
背中を覆う黒光りする海水がざわざわと逆立ち、巨大な体が内側へと沈み込むように震え始めた。膨れ上がっていた海の怨念が、一点へ、一点へと、異様な密度で凝縮されていく。
次の瞬間――。
海坊主の表面が、大きく波打った。全身を覆っていた海水が、皮膚を剥がすように崩れ落ち、足元の海へどっと流れ込む。そこから立ち上ったどろりとした海霧が、巨体を包み隠した。
霧の奥で、何かが軋む。
水の塊だったはずの肉体が、内側から作り替えられていくように、低く、不気味な音を立てていた。
「どういうこと?」
咲紀が息を呑む。
海坊主の巨体は、徐々に“形”を失っていった。腕は黒い水の帯となって垂れ、脚は海面へ溶け落ち、山のようだった巨体は、霧の中でどろどろと崩れながら一つの塊へと縮んでいく。
だが、消えているのではない。
霧の奥で、黒い水が骨をなぞるように集まった。筋が走り、皮膚が張り直され、灰白の鬚らしきものがゆっくりと垂れ下がる。
霧の向こうに透けるように見える。それはまるで、海そのものが人の姿を作り直しているかのようだった。
月龍が警告するように低く唸る。霧の中心でうごめく影が、ゆっくりと頭をもたげた。
それは、先ほどまでの怪物の顔とは似ても似つかない。しかし、確かに“同じ存在”であることだけは、誰もが直感で理解していた。
霧が晴れる。
そこには、灰白のひげを長く垂らし、黒き水干に身を包んだ老人が立っていた。
背に負った海の闇がゆらゆらと揺れ、まるで巨大な影の海坊主を引き連れているかのように見えた。
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