犬を演じた男
白塔の中枢層から引き離されたあとも、俵屋の中では、ひばりの最後の表情が消えなかった。
あの瞳。
自分を見ていたはずなのに、途中からもう別の場所へ向かってしまった目。
助けを求める代わりに、「見届けて」と告げた声。
そして、最後に唇だけで残した「忘れないで」という願い。
志乃は、その記憶の温度をそのまま受け取っていた。
熱いわけではない。
燃え盛る怒りのような激情でもない。
もっと冷たい。深く沈んで、二度と浮かび上がらないはずだったものが、底でずっと腐り続けているような痛みだった。
俵屋は、その日から変わった。
いや、本当は変わったのではないのかもしれない。
ひばりを守ろうとしていた研究者の顔も、白塔を正しく使いたいと願っていた理性も、確かにまだ残っている。
ただ、それだけではもう届かないと知ってしまった。
正しさでは奪い返せない。
反対では止められない。
抗議では潰される。
理想を掲げても、上は成果を選び、魔泉道は人を素材として扱い続ける。
ならば、別のやり方を選ぶしかない。
その選択が、俵屋を“犬”に変えていく。
記憶の中で季節が流れる。
白塔の廊下は以前より静かになり、監視の目は増え、研究区画の権限整理は進み、魔泉道直属の実験室だけが異様な速度で拡張されていく。
ひばりの名は表向きの記録から徐々に消され、代わりに中枢接続試験の成果だけが匿名で積み上げられていった。
俵屋は最初、露骨に抵抗した。
ひばりの処遇を問いただした。
接続後の経過記録の開示を求めた。
中枢接続試験の停止と再検証を申請した。
外部監査への通達も試みた。
そのたびに戻ってくるのは、却下、保留、権限外、あるいは記録不在という返答ばかりだった。
そして、ある日。
白塔上層部の会議室で、俵屋ははっきりと思い知らされる。
「戸塚ひばり研究員に関する処遇は、すでに白塔中枢保全規定に基づく特別管理案件へ移行している」
上層部の男が、書類も見ずにそう言った。
「詳細の開示は管理責任者判断となる」
「その管理責任者が魔泉道でしょう」
俵屋の声は低い。
「加害者に管理を任せて、何が保全ですか」
「言葉を選びたまえ」
「選んでいます」
俵屋は相手を睨んだ。
「これでも、まだ」
だが返ってきたのは冷たい視線だけだった。
「俵屋研究員。君の能力は高く評価している。だから忠告しておくが、感情論で管理系統へ干渉するのは研究者として賢明ではない」
感情論。
その一言が、胸の奥を鋭くえぐる。
ひばりは人間だ。
恋人でなくても、仲間でなくても、人として扱われるべきだった。
それを感情論と切り捨てるこの場に、もはや正面から話す意味はない。
その瞬間、俵屋の中で何かが冷えた。
怒りが消えたのではない。
怒りの使い方が変わったのだ。
会議室を出たあと、長い廊下の窓に映る自分の顔を、俵屋はしばらく見ていた。
疲れている。
目の下に影がある。
何日もまともに眠っていない。
だが、それ以上に顔つきが変わり始めている。
このまま正面からぶつかっても、ひばりは戻らない。
ならば、内側へ入るしかない。
敵としてではなく、使える人間として。
従わぬ者ではなく、従うふりをする者として。
その決意が定まったときの静けさを、志乃はありありと感じた。
これは正義の変質ではない。
救うために、自分の輪郭を捨てる決意だ。
けれど、その時点で俵屋はまだ知らない。
その選択がどこまで自分を汚すのかを。
記憶が飛ぶ。
次に見えたのは、魔泉道の研究室だった。
以前は立ち入りが制限されていた最深部の一角。
今では完全に魔泉道直属の管理下にあり、許可のない者は近づくことすらできない区画だ。
その中へ、俵屋は自分の足で入っていく。
魔泉道は机上の記録を見ていた。
俵屋が来たことに気づいても、すぐには顔を上げない。
「珍しいな」
淡々とした声。
「抗議なら、今日は受けつけていない」
俵屋は答えた。
「抗議ではない」
そこで魔泉道が初めて顔を上げる。
俵屋の表情は、以前とは違っていた。
怒りを隠し、感情を沈め、必要なことだけを口にしようとする顔。
「……協力しに来た」
その一言に、空気がわずかに止まる。
魔泉道はすぐには反応しない。
ただ、値踏みするように俵屋を見ていた。
「何のつもりだ」
「ひばりのことは、もう正面から取り返せないと分かった」
言葉にするたび、胸の奥が軋む。
だが俵屋は表に出さない。
「なら、お前の研究がどこまで行くのか、この目で見届ける。必要なら手も貸す」
魔泉道は沈黙したまま、しばらく俵屋を見ていた。
その沈黙の長さが、そのまま試す時間だったのだろう。
「条件は?」
「ひばりの状態に関する記録の閲覧権限」
「それだけか」
「中枢研究の継続参加権もほしい」
魔泉道の口元が、かすかに歪む。
「随分と素直だな」
「素直になったわけじゃない」
俵屋は淡々と返した。
「現実的になっただけだ」
その言葉に、魔泉道は初めて小さく笑った。
「いいだろう」
承諾は、あまりにもあっさりしていた。
むしろ魔泉道にとっては、こうなることすら想定内だったのかもしれない。
反発する者は、折るか、排除するか、利用するか。
俵屋にはまだ利用価値がある。だから残す。それだけの話だ。
「ただし」
魔泉道は立ち上がる。
「感情は研究の邪魔だ。戸塚ひばりを取り戻したいという私情が残っているなら、いずれ足を引っ張る」
俵屋は静かに言った。
「邪魔はしない」
その言葉の裏で、本当の意味では何ひとつ諦めていないことを、志乃は感じ取る。
邪魔はしない。
だが従うとも言っていない。
奪い返せる機会があれば、その瞬間まで待つつもりだ。
つまりこの瞬間、俵屋は初めて“犬を演じる”ことを選んだのだ。
その日から、彼は変わった。
魔泉道の計画に同行する。
中枢接続理論の穴を埋める。
霊気循環の解析に協力する。
不老不死の理論化に必要な記録整理へ手を貸す。
人を使う実験に、直接手を下すことは避けても、結果としてそれを支える側へ回る。
白塔の中で、俵屋の立場は急速に変化した。
「魔泉道の犬になった」
陰でそう囁かれていることも、彼は知っていた。
昔なら怒ったかもしれない。
だが今は違う。
言わせておけばいい。
軽蔑されようと、誤解されようと、ひばりへ届く可能性が一ミリでも増えるなら、そのほうがいい。
その思考の冷たさに、志乃は息が苦しくなる。
これは献身なのか。
執着なのか。
愛なのか。
それとも、すでに壊れ始めているのか。
おそらく、その全部なのだろう。
ある夜、俵屋は中枢記録室の一角で、ようやくひばりに関する記録へ触れる。
閲覧権限は制限付き。
肉体情報は不明瞭にぼかされ、生命反応は“継続”とだけ記されている。
だが、中枢接続ログの深層に、ひばりの意識層の波形が残っていた。
完全に消えていない。
だが、完全に人として維持されてもいない。
中枢に固定され、白塔と溶け合いながら、辛うじて“声”の形だけが残っている。
俵屋はその波形を見て、初めて誰もいない記録室で膝をついた。
志乃はそのときの感情を、まともに受け止めきれなかった。
安堵。
絶望。
歓喜。
後悔。
まだいる。
でも、もう戻れないかもしれない。
それでも、いる。
「……ひばり」
初めて、その名を声にする。
記録室には誰もいない。
返事もない。
ただ、波形だけが微かに揺れた気がした。
その揺れにすがるように、俵屋は手を伸ばす。
触れられない。
届かない。
けれど、存在だけはたしかにそこにある。
その瞬間、彼の中で新しい目的が形を持つ。
ひばりを“終わらせる”のではない。
ひばりを“戻す”。
そのために必要なのが、完全な不死の理論だと、この時点で俵屋は考え始める。
死んでいない。だが生きてもいない。
崩れた境界を再び人の側へ引き戻すには、ただの治療では足りない。
朽ちず、壊れず、保持できる新たな器が要る。
それが、後に俵屋が不老不死の研究へ加担し続ける理由になる。
救うため。
取り戻すため。
そう信じて。
けれど、長い時間をかけてその研究に関わるうちに、俵屋の手も確実に汚れていく。
記録を偽装しなかったわけではない。
危険を黙認しなかったわけでもない。
止められたかもしれない局面で、より大きな成果のために目をつぶったこともある。
最初はすべて、ひばりのためだった。
だが、“ひばりのためなら何をしてもいい”という考えは、いつしかひばりが最も嫌ったはずの領域へ、俵屋自身を連れていってしまう。
その事実に気づいていても、もう引き返せない。
ある記憶の断片で、俵屋は鏡の前に立っていた。
研究着の袖に、知らない誰かの血がついている。
ひばりを救うための理論を前に進めた日だ。
本来なら喜ぶべき成果が出た日かもしれない。
なのに、鏡の中の自分は、ひどく薄汚れて見えた。
「……俺は」
その言葉の続きは出てこない。
分かっているからだ。
もう昔の自分には戻れないと。
ひばりと並んで白塔を見上げていた頃の俵屋は、もういない。
残っているのは、救いたいという願いを言い訳にして、怪物のそばへ自分から降りていった男だけだ。
それでもやめなかった。
やめれば、ひばりへ届く可能性が完全に消えるからだ。
志乃は、その矛盾に胸を締めつけられる。
俵屋は被害者だった。
でも同時に、確かに加害者にもなっていった。
それを彼自身が一番よく知っている。
だからこそ、後年の俵屋の冷たさは、ただ性格が歪んだのではない。
自分の中に残っている“まだ人間でいたい部分”を殺し続けた結果なのだと、志乃には分かってしまう。
記憶の最後で、俵屋は中枢記録の前に立ち、誰もいない空間へ低く呟いた。
「待っていろ」
その声は静かだった。
「必ず、戻す」
そして、その直後に胸の奥へ落ちた本音は、もっと暗かった。
――戻せなかったら、俺は何のためにここまで汚れた。
その問いに答える者は、もうどこにもいなかった。




