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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第9節 夢

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犬を演じた男

白塔の中枢層から引き離されたあとも、俵屋の中では、ひばりの最後の表情が消えなかった。


あの瞳。

自分を見ていたはずなのに、途中からもう別の場所へ向かってしまった目。

助けを求める代わりに、「見届けて」と告げた声。

そして、最後に唇だけで残した「忘れないで」という願い。


志乃は、その記憶の温度をそのまま受け取っていた。


熱いわけではない。

燃え盛る怒りのような激情でもない。

もっと冷たい。深く沈んで、二度と浮かび上がらないはずだったものが、底でずっと腐り続けているような痛みだった。


俵屋は、その日から変わった。


いや、本当は変わったのではないのかもしれない。

ひばりを守ろうとしていた研究者の顔も、白塔を正しく使いたいと願っていた理性も、確かにまだ残っている。

ただ、それだけではもう届かないと知ってしまった。


正しさでは奪い返せない。

反対では止められない。

抗議では潰される。

理想を掲げても、上は成果を選び、魔泉道は人を素材として扱い続ける。


ならば、別のやり方を選ぶしかない。


その選択が、俵屋を“犬”に変えていく。


記憶の中で季節が流れる。


白塔の廊下は以前より静かになり、監視の目は増え、研究区画の権限整理は進み、魔泉道直属の実験室だけが異様な速度で拡張されていく。

ひばりの名は表向きの記録から徐々に消され、代わりに中枢接続試験の成果だけが匿名で積み上げられていった。


俵屋は最初、露骨に抵抗した。


ひばりの処遇を問いただした。

接続後の経過記録の開示を求めた。

中枢接続試験の停止と再検証を申請した。

外部監査への通達も試みた。


そのたびに戻ってくるのは、却下、保留、権限外、あるいは記録不在という返答ばかりだった。


そして、ある日。


白塔上層部の会議室で、俵屋ははっきりと思い知らされる。


「戸塚ひばり研究員に関する処遇は、すでに白塔中枢保全規定に基づく特別管理案件へ移行している」


上層部の男が、書類も見ずにそう言った。


「詳細の開示は管理責任者判断となる」


「その管理責任者が魔泉道でしょう」


俵屋の声は低い。


「加害者に管理を任せて、何が保全ですか」


「言葉を選びたまえ」


「選んでいます」


俵屋は相手を睨んだ。


「これでも、まだ」


だが返ってきたのは冷たい視線だけだった。


「俵屋研究員。君の能力は高く評価している。だから忠告しておくが、感情論で管理系統へ干渉するのは研究者として賢明ではない」


感情論。


その一言が、胸の奥を鋭くえぐる。


ひばりは人間だ。

恋人でなくても、仲間でなくても、人として扱われるべきだった。

それを感情論と切り捨てるこの場に、もはや正面から話す意味はない。


その瞬間、俵屋の中で何かが冷えた。


怒りが消えたのではない。

怒りの使い方が変わったのだ。


会議室を出たあと、長い廊下の窓に映る自分の顔を、俵屋はしばらく見ていた。


疲れている。

目の下に影がある。

何日もまともに眠っていない。

だが、それ以上に顔つきが変わり始めている。


このまま正面からぶつかっても、ひばりは戻らない。


ならば、内側へ入るしかない。


敵としてではなく、使える人間として。

従わぬ者ではなく、従うふりをする者として。


その決意が定まったときの静けさを、志乃はありありと感じた。


これは正義の変質ではない。

救うために、自分の輪郭を捨てる決意だ。


けれど、その時点で俵屋はまだ知らない。

その選択がどこまで自分を汚すのかを。


記憶が飛ぶ。


次に見えたのは、魔泉道の研究室だった。


以前は立ち入りが制限されていた最深部の一角。

今では完全に魔泉道直属の管理下にあり、許可のない者は近づくことすらできない区画だ。


その中へ、俵屋は自分の足で入っていく。


魔泉道は机上の記録を見ていた。

俵屋が来たことに気づいても、すぐには顔を上げない。


「珍しいな」


淡々とした声。


「抗議なら、今日は受けつけていない」


俵屋は答えた。


「抗議ではない」


そこで魔泉道が初めて顔を上げる。


俵屋の表情は、以前とは違っていた。

怒りを隠し、感情を沈め、必要なことだけを口にしようとする顔。


「……協力しに来た」


その一言に、空気がわずかに止まる。


魔泉道はすぐには反応しない。

ただ、値踏みするように俵屋を見ていた。


「何のつもりだ」


「ひばりのことは、もう正面から取り返せないと分かった」


言葉にするたび、胸の奥が軋む。

だが俵屋は表に出さない。


「なら、お前の研究がどこまで行くのか、この目で見届ける。必要なら手も貸す」


魔泉道は沈黙したまま、しばらく俵屋を見ていた。

その沈黙の長さが、そのまま試す時間だったのだろう。


「条件は?」


「ひばりの状態に関する記録の閲覧権限」


「それだけか」


「中枢研究の継続参加権もほしい」


魔泉道の口元が、かすかに歪む。


「随分と素直だな」


「素直になったわけじゃない」


俵屋は淡々と返した。


「現実的になっただけだ」


その言葉に、魔泉道は初めて小さく笑った。


「いいだろう」


承諾は、あまりにもあっさりしていた。


むしろ魔泉道にとっては、こうなることすら想定内だったのかもしれない。

反発する者は、折るか、排除するか、利用するか。

俵屋にはまだ利用価値がある。だから残す。それだけの話だ。


「ただし」


魔泉道は立ち上がる。


「感情は研究の邪魔だ。戸塚ひばりを取り戻したいという私情が残っているなら、いずれ足を引っ張る」


俵屋は静かに言った。


「邪魔はしない」


その言葉の裏で、本当の意味では何ひとつ諦めていないことを、志乃は感じ取る。


邪魔はしない。

だが従うとも言っていない。

奪い返せる機会があれば、その瞬間まで待つつもりだ。


つまりこの瞬間、俵屋は初めて“犬を演じる”ことを選んだのだ。


その日から、彼は変わった。


魔泉道の計画に同行する。

中枢接続理論の穴を埋める。

霊気循環の解析に協力する。

不老不死の理論化に必要な記録整理へ手を貸す。

人を使う実験に、直接手を下すことは避けても、結果としてそれを支える側へ回る。


白塔の中で、俵屋の立場は急速に変化した。


「魔泉道の犬になった」


陰でそう囁かれていることも、彼は知っていた。

昔なら怒ったかもしれない。

だが今は違う。


言わせておけばいい。

軽蔑されようと、誤解されようと、ひばりへ届く可能性が一ミリでも増えるなら、そのほうがいい。


その思考の冷たさに、志乃は息が苦しくなる。


これは献身なのか。

執着なのか。

愛なのか。

それとも、すでに壊れ始めているのか。


おそらく、その全部なのだろう。


ある夜、俵屋は中枢記録室の一角で、ようやくひばりに関する記録へ触れる。


閲覧権限は制限付き。

肉体情報は不明瞭にぼかされ、生命反応は“継続”とだけ記されている。

だが、中枢接続ログの深層に、ひばりの意識層の波形が残っていた。


完全に消えていない。

だが、完全に人として維持されてもいない。


中枢に固定され、白塔と溶け合いながら、辛うじて“声”の形だけが残っている。


俵屋はその波形を見て、初めて誰もいない記録室で膝をついた。


志乃はそのときの感情を、まともに受け止めきれなかった。


安堵。

絶望。

歓喜。

後悔。

まだいる。

でも、もう戻れないかもしれない。

それでも、いる。


「……ひばり」


初めて、その名を声にする。


記録室には誰もいない。

返事もない。

ただ、波形だけが微かに揺れた気がした。


その揺れにすがるように、俵屋は手を伸ばす。


触れられない。

届かない。

けれど、存在だけはたしかにそこにある。


その瞬間、彼の中で新しい目的が形を持つ。


ひばりを“終わらせる”のではない。

ひばりを“戻す”。


そのために必要なのが、完全な不死の理論だと、この時点で俵屋は考え始める。

死んでいない。だが生きてもいない。

崩れた境界を再び人の側へ引き戻すには、ただの治療では足りない。

朽ちず、壊れず、保持できる新たな器が要る。


それが、後に俵屋が不老不死の研究へ加担し続ける理由になる。


救うため。

取り戻すため。

そう信じて。


けれど、長い時間をかけてその研究に関わるうちに、俵屋の手も確実に汚れていく。


記録を偽装しなかったわけではない。

危険を黙認しなかったわけでもない。

止められたかもしれない局面で、より大きな成果のために目をつぶったこともある。


最初はすべて、ひばりのためだった。


だが、“ひばりのためなら何をしてもいい”という考えは、いつしかひばりが最も嫌ったはずの領域へ、俵屋自身を連れていってしまう。


その事実に気づいていても、もう引き返せない。


ある記憶の断片で、俵屋は鏡の前に立っていた。


研究着の袖に、知らない誰かの血がついている。

ひばりを救うための理論を前に進めた日だ。

本来なら喜ぶべき成果が出た日かもしれない。


なのに、鏡の中の自分は、ひどく薄汚れて見えた。


「……俺は」


その言葉の続きは出てこない。


分かっているからだ。

もう昔の自分には戻れないと。


ひばりと並んで白塔を見上げていた頃の俵屋は、もういない。

残っているのは、救いたいという願いを言い訳にして、怪物のそばへ自分から降りていった男だけだ。


それでもやめなかった。


やめれば、ひばりへ届く可能性が完全に消えるからだ。


志乃は、その矛盾に胸を締めつけられる。


俵屋は被害者だった。

でも同時に、確かに加害者にもなっていった。


それを彼自身が一番よく知っている。


だからこそ、後年の俵屋の冷たさは、ただ性格が歪んだのではない。

自分の中に残っている“まだ人間でいたい部分”を殺し続けた結果なのだと、志乃には分かってしまう。


記憶の最後で、俵屋は中枢記録の前に立ち、誰もいない空間へ低く呟いた。


「待っていろ」


その声は静かだった。


「必ず、戻す」


そして、その直後に胸の奥へ落ちた本音は、もっと暗かった。


――戻せなかったら、俺は何のためにここまで汚れた。


その問いに答える者は、もうどこにもいなかった。

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