魔泉道の着任
白塔の春は、まだ終わっていなかった。
けれど、その終わりは確かに近づいていた。
志乃は俵屋の視界を通して、数日後の白塔を見ていた。
同じ白い廊下。
同じ観測層。
同じ研究員たちの行き交う姿。
なのに、空気だけが少し変わっている。
以前は、忙しさの中にもどこか統制があった。
緊張感はあっても、それは前へ進むための張りつめ方だった。
だが今は違う。
人々が小声で話す。
視線をすぐ逸らす。
会議室の前で立ち止まった研究員が、誰かの顔色をうかがうように黙り込む。
静かなのに落ち着かない。
そんな、嫌な沈黙が白塔全体へ広がり始めていた。
その原因を、俵屋は知っていた。
今日、新しい管理者が来る。
上層部が白塔の研究権限を再編し、その中心へ据えた人物。
これまで外部区画で結果を出し続けながら、同時に数え切れない反発も生んできた研究者。
魔泉道。
その名が出た瞬間、俵屋の胸に走る感情は、まだ憎悪ではなかった。
不快感と警戒。
それに近い。
この時点では、まだ“敵”と断定しているわけではない。
ただ、危険だと本能が告げている。
会議室の空気は重かった。
白塔上層部の人間たちが並び、現場の主要研究者たちが席についている。
俵屋もその一人として座っていた。
ひばりは別区画の測定担当で不在だが、本来なら彼女もここに呼ばれるべき立場だったはずだ。
扉が開く。
足音がする。
志乃は、その音だけで白塔の空気が変わるのを感じた。
入ってきた男は、派手ではなかった。
長身でもなく、声が大きいわけでもない。
着ている衣服も白塔の管理職らしく簡素だ。
だがその全身から、他人を圧迫する質の違う緊張感が滲んでいた。
魔泉道。
彼は会議室を一瞥し、誰に頭を下げるでもなく、用意された席の前で立ち止まる。
「初めまして、とは言わぬほうがいいか」
低く、落ち着いた声だった。
「ここにいる何人かは、すでに私の成果を論文と実地報告で見ているだろう」
その口調には自信があった。
だが、誇示のための自信ではない。
自分が評価されるのは当然だという、説明不要の確信だ。
会議室の端にいた上層部の一人が咳払いをした。
「本日より、魔泉道博士には白塔全体の研究管理責任者として着任いただく」
その一言で、空気がさらに重くなる。
俵屋の視界の端で、数人の研究員がわずかに顔をしかめた。
不満があるのだろう。
だが誰も言葉にしない。すでに上から決まった人事だと分かっているからだ。
上層部の男は続ける。
「昨今の霊障案件の増加、東都圏におけるオーパーツ由来災害の頻発を受け、白塔の研究成果にはこれまで以上の実用性と即応性が求められている。その意味において、魔泉道博士の管理能力と成果主義は最適であると判断した」
成果主義。
その言葉が出た瞬間、俵屋の胸に冷たいものが落ちた。
白塔の研究に必要なのは、たしかに成果だ。
だがそれだけではない。
管理、検証、抑制、倫理、そのすべてを含めて初めて成立する。
それを“成果主義”の一言でまとめる人事に、嫌な予感しかしなかった。
「異論はあるか」
上層部の問いは、形だけのものだった。
実際には、もう決まっている。
だが、その沈黙の中で俵屋は口を開いた。
「あります」
会議室の空気が凍る。
視線が一斉に集まる。
だが俵屋は怯まない。
「魔泉道博士の技術力と成果について異論はありません。ですが、その研究過程には過去から繰り返し倫理違反と管理逸脱が指摘されている。被験体の適性無視、霊気負荷試験の無許可実施、人格分離を伴う接続実験――」
「俵屋」
上層部の男が遮ろうとする。
だが俵屋は止まらなかった。
「白塔は兵器開発施設ではない。未知の遺物と霊気技術を扱う以上、制御不能の領域へ踏み込まぬための慎重さが必要です。その管理責任者に、手段を問わぬ人物を据えるのは危険だ」
一気に言い切る。
その声に感情の爆発はない。
あくまで冷静だ。
だからこそ、会議室にいる誰もがその正しさを理解してしまう。
一瞬の沈黙。
そして魔泉道が、初めて俵屋を正面から見た。
「俵屋、だったな」
「そうです」
「なるほど。噂通り、現場の信望は厚いらしい」
その声には感心とも皮肉ともつかない響きがあった。
「だが、ひとつ訂正しよう。私は手段を問わぬのではない。目的に対して不要な制約を切り捨てているだけだ」
会議室の空気が冷える。
俵屋は視線を逸らさない。
「それを手段を問わないと言うのです」
「言葉遊びだな」
魔泉道は淡々と返した。
「重要なのは、結果が出るかどうかだ。安全な手順だけを積み重ねて届く領域なら、すでに誰かが届いている。届いていないということは、そこに踏み込む覚悟がなかったということだ」
「覚悟の問題ではない」
俵屋の声も少し低くなる。
「人を壊して得る結果に価値はない」
その瞬間、会議室の奥の空気が微かに揺れた。
俵屋の言葉に同意した者がいたのだろう。
しかし誰も声を上げない。
魔泉道は俵屋を見たまま、静かに言った。
「価値を決めるのは、結果だけだ」
その一言に、志乃は息が苦しくなる。
知っている。
この言葉だ。
今の魔泉道も、まったく同じことを言っていた。
この男は昔からずっと変わっていない。
結果のためなら、過程は切り捨てていいと本気で信じている。
俵屋が何か言い返そうとした、そのとき。
会議室の後方の扉が開いた。
「その“結果”に、誰の命を入れるつもりなんですか」
ひばりだった。
測定区画からそのまま来たのだろう。白衣姿のまま、息を少し乱しながら扉の前に立っている。
無断入室を咎める空気が一瞬流れたが、ひばりは気にしない。
真っ直ぐ魔泉道を見ていた。
「戸塚ひばり研究員」
上層部の男が眉をひそめる。
「会議中だ」
「だから来ました」
ひばりの声は穏やかだ。
だが、その奥には揺るがない強さがあった。
「白塔は“届くため”の施設じゃありません。“戻ってこられる形で届く”ための施設です。境界を越えるだけなら誰にでもできる。越えて戻れないなら、それは研究じゃなくて事故です」
その言葉に、魔泉道の目がわずかに細くなった。
初めて、興味を持ったような目だった。
「君が戸塚ひばりか」
「そうです」
「噂は聞いている。理想主義者で、制御理論に強く、白塔中枢との親和性も高い」
ひばりは答えない。
俵屋が立ち上がり、自然にひばりの近くへ位置をずらした。
守るように、あるいは並び立つように。
その動きに、志乃の胸が少し締めつけられる。
魔泉道はそんな二人を見て、わずかに口元を歪めた。
「なるほど。白塔にはまだ、夢想家が残っていたらしい」
「夢想じゃありません」
ひばりは静かに言う。
「使えるから使う、では必ず壊れます。白塔も、研究も、人も」
「壊れるかどうかを決めるのも結果だ」
「違います」
ひばりの声が、ほんの少しだけ強くなる。
「壊れてから“結果が出た”って言うのは、研究者の言葉じゃない」
会議室がしんと静まり返った。
誰も口を挟めない。
上層部でさえ、すぐには遮れなかった。
正しいからだ。
少なくとも、この場にいる研究者たちの多くはそう感じてしまった。
だが、正しさが通る場ではない。
上層部の男が不快そうに言う。
「戸塚研究員、意見は理解した。だが任命はすでに決定事項だ。以後の運用については管理責任者の指示に従ってもらう」
その言葉に、ひばりの表情がほんの少しだけ曇った。
理解しているのだ。
ここで何を言っても、もう覆らないと。
俵屋も同じことを理解していた。
だからこそ、その胸の奥に重いものが沈んでいく。
魔泉道は静かに立ち上がる。
「議論はそれで終わりか」
誰も答えない。
「なら、こちらから一つだけ告げておこう」
彼の声は落ち着いていた。
その落ち着きが、かえって場を支配する。
「私は結果を見る。成果を出す者は使う。出せぬ者は外す。それだけだ。感情も、立場も、過去の慣習も、一切考慮しない」
その言葉は宣言だった。
同時に、脅しでもあった。
従え。
結果を出せ。
そうでなければ切り捨てる。
白塔はこの日から、研究施設である前に“選別の場”へ変わり始めたのだと、志乃にも分かった。
ひばりは魔泉道をまっすぐ見返した。
「私は従いません」
その一言に、会議室の空気がまた揺れる。
「人を壊す研究に、私は絶対に加担しない」
俵屋も隣で言った。
「俺も同じです」
魔泉道は二人を見て、少しだけ目を細めた。
怒っているようには見えない。
むしろ、値踏みしているようだった。
「そうか」
たったそれだけ言って、彼は席を立つ。
会議の終わりを告げるように、上層部が慌てて散会を指示する。
研究員たちは誰一人本音を言えぬまま、ぎこちなく席を立ち始めた。
俵屋とひばりは、会議室を出る直前まで魔泉道を見ていた。
その背中に、すでに嫌な予感はあった。
この男は、論破されたから止まる人間ではない。
反対されたなら、もっと別の形で押し通すだけだ。
会議室を出たあと、廊下でひばりが息を吐く。
「……最悪」
珍しく率直な言葉だった。
俵屋が横を見る。
「無茶をしたな」
「あなたもでしょ」
「俺は想定内だ」
「私は想定外?」
「お前は、もっと後で動くと思っていた」
ひばりは少しだけ笑う。
けれど、その笑顔には疲れが滲んでいた。
「後でも今でも同じよ。見過ごせないものは見過ごせない」
その言葉に、俵屋は何も返さなかった。
ただ、彼女の横顔を見る。
守らなければならない。
その思いが、前より少し強く胸に沈む。
ひばりは足を止め、静かに言う。
「俵屋、嫌な予感がする」
俵屋も同じだった。
だが、彼女の口からはっきり言われると、胸の奥にあった曖昧な不安が形を持ってしまう。
「白塔が変わる」
ひばりは中枢層のほうを見た。
「あの人が来たことで、何かが決定的に変わる気がする」
俵屋は短く答える。
「なら止める」
「うん」
「止められなければ、抗う」
ひばりはその言葉に小さく頷いた。
けれど志乃には分かっていた。
この時点ではまだ、二人は知らない。
魔泉道がどこまでやるのか。
上層部がどこまで彼を許すのか。
そして、白塔そのものが誰を選び、誰を呑み込むのかを。
廊下の向こうで、中枢層の光が静かに明滅している。
美しく、穏やかで、何も変わっていないように見える。
だがその日を境に、白塔の春は確かに終わり始めていた。




