白塔の春
白い廊下に、やわらかな光が落ちていた。
志乃はそこに立っている。
いや、立っているのは俵屋だ。
けれど視界は完全に彼のものだった。足音の響き方も、呼吸の浅さも、白衣の袖がわずかに擦れる感触さえ、自分のものではないのに自分のことのように分かる。
さっきまでいたはずの崩壊する地下空間は、もうどこにもなかった。
そこにあるのは、まだ壊れていない白塔だった。
白い壁。
磨かれた床。
規則正しく並ぶ観測窓。
遠くから聞こえてくる研究員たちの会話。
機器の作動音。
そして何より、この場所を満たしている空気が違う。
今の白塔にあるような、怨嗟や苦痛や、濁った霊気の澱みがない。
緊張感はある。研究施設らしい張り詰めた気配はある。けれどそれは恐怖ではなく、もっと前向きな熱に近かった。
「俵屋、また夜通しだったの?」
廊下の先で振り向いた女性が、少し呆れたように笑う。
長い黒髪を後ろでゆるくまとめ、白衣の下には簡素な研究服を着ている。
華やかな印象ではない。けれど、目を引かずにはいられない人だった。
その佇まいには静かな知性があり、微笑むだけで場の空気を和らげる不思議な温度があった。
戸塚ひばり。
志乃は、その名を誰に教えられるでもなく理解した。
白塔の奥から聞こえていた声の主。
そして、俵屋の奥底に今も焼きついている人。
俵屋の胸に、やわらかな感情が広がる。
安堵だった。
彼女がここにいて、こうして声をかけてくれる、それだけで張りつめていた何かが少し緩むような感覚。
「お前だって、似たようなものだろう」
俵屋――若い頃の彼が、そう答える。
今の俵屋とはまるで違う声だった。
低さは同じでも、冷たさがない。
皮肉めいた口調の奥に、相手を安心して受け入れている柔らかさがある。
ひばりは小さく肩をすくめた。
「私は仮眠したわ。二時間だけだけど」
「それを仮眠と呼ぶかは微妙だな」
「研究者の世界では十分よ」
そう言って笑うひばりにつられるように、俵屋の口元もわずかに緩む。
その自然さに、志乃は胸が締めつけられる思いがした。
この人は、最初から冷酷だったわけじゃない。
最初から奪うことしか考えていなかったわけじゃない。
こんなふうに、誰かと並んで笑える時間があったのだ。
二人は並んで廊下を歩き出す。
窓の外には、白塔内部に設けられた観測層が見えた。
巨大な円筒状の空間に、いくつもの観測機器と浮遊式の霊気測定装置が整然と配置され、その中心には淡い光を放つ古代遺物らしきものが封じられている。
オーパーツ。
志乃はそう理解する。
俵屋とひばりが研究していた対象のひとつだ。
「昨日の測定結果、見た?」
ひばりが手元の資料端末を軽く持ち上げる。
「第三層のオーパーツ、外部刺激なしでも霊気の自励振動が起きてる。やっぱり白塔の基盤回路と共鳴してるみたい」
俵屋が視線を向ける。
「周期は安定していたか」
「完全には。でも、前回より整ってる。あと少しで、白塔側の受信条件を逆算できるかもしれない」
ひばりの声は明るい。
研究そのものが好きなのだと分かる。成果を誇るというより、未知の構造に一歩近づいたことを純粋に喜んでいる声だった。
俵屋もまた、その話をきちんと聞いている。
今の彼の中には、後年のような飢えた執着はまだない。あるのは研究者としての集中と、その隣で同じ景色を見ているひばりへの信頼だけだ。
「白塔は単なる保管施設じゃないわ」
ひばりは歩きながら言う。
「昔の人たちは、ここを“眠らせる場所”じゃなくて、“つなぐ場所”として作ったんだと思う。霊気力と遺物、記録と人、全部を媒介するための塔」
「媒介装置、か」
「うん。だからこそ危ないんだけどね」
ひばりは少しだけ真面目な顔になる。
「強すぎる力や、用途の分からない遺物を閉じ込めておくだけなら、もっと単純な封印施設で足りる。でも白塔は違う。ちゃんと“使う”ことを前提に設計されてる」
俵屋は短く頷く。
「だから管理と倫理がいる」
「そう」
ひばりは即座に答えた。
「使えるから使う、じゃだめなの。理解して、制御して、人に返せる形にしてはじめて意味がある」
その言葉には、ひばりという人間の核があった。
彼女は理想主義者なのだろう。
だが、ただ夢見るだけの人ではない。危険も知っている。利用価値も分かっている。そのうえでなお、“人を救うために使うべきだ”と信じている。
志乃はその感覚に、少しだけ息を呑んだ。
白塔の奥で何度も聞いた声。
解放を求め、終わらせてほしいと願っていた声。
その声の主が、もともとはこんなにもまっすぐに“救うこと”を考えていたのだ。
ひばりが不意に足を止める。
目の前には大きな観測窓があり、その向こうで白く輝く中枢層の一部が見えていた。今のように禍々しいものではない。静かに光る、巨大な霊気制御基盤。その奥で、いくつもの古代文字がゆっくりと明滅している。
「きれい」
ひばりがぽつりと言う。
「何度見ても思うわ。怖いくらいに、きれい」
俵屋もその光景を見る。
「だが、近づきすぎれば呑まれる」
「ええ」
ひばりは笑った。
「だから、あなたが止めてくれるでしょ」
その言葉に、俵屋の胸が静かに揺れる。
それは恋愛感情という一言では足りないほど深い、信頼に触れたときのあたたかさだった。
「……止める前に、お前が勝手に踏み込むな」
「注意の仕方が保護者なのよ」
「否定はしない」
「しないんだ」
ひばりがくすりと笑う。
その笑い声を聞いた瞬間、俵屋の中にある感情が、志乃へそのまま流れ込んでくる。
守りたい。
それは強い決意というより、もっと日常の延長にある自然な願いだった。
この人が笑っている時間を、なるべく長く続けたい。
無茶をしてほしくない。
できれば危ないところには行ってほしくない。
でも、彼女が止まらない人だと知っているから、その隣で支え続けたい。
そんな思いが、言葉になる前の形で胸の奥にある。
志乃はその温度に触れ、苦しくなる。
後の俵屋を知っているからこそ、あまりにも眩しかった。
こんな始まりがあったのに。
こんなふうに誰かを大事に思っていたのに。
それがどうして、あんなふうに壊れてしまったのか。
ひばりは観測窓から視線を外し、俵屋を見た。
「今日、上層会議あるんでしょう?」
「ああ」
「また予算の話?」
「予算と、管理権限の再編だ」
ひばりの表情が少し曇る。
「最近、変よね。成果を急ぎすぎてる」
「上は焦っている」
俵屋の声も少し硬くなる。
「東都の霊障案件が増えている。外の状況が悪い以上、白塔の成果を早く実用化したいんだろう」
「実用化、ね……」
ひばりは小さくため息をつく。
「その言葉、便利すぎるのよ。安全確認も倫理審査も、全部飛ばしていい理由みたいに使われる」
俵屋は答えない。
だが、その沈黙は同意だった。
ひばりは少し間を置いてから、窓の外の中枢層を見つめたまま静かに言う。
「私は、この塔を人を救うために使いたい」
その声は、先ほどの研究談義の延長ではなかった。
もっと個人的で、もっと深い願いのように聞こえた。
「霊気力の異常で苦しむ人も、遺物に触れて壊れた人も、今の技術じゃ救えない人がたくさんいる。でも白塔なら、もしかしたら届くかもしれない。記録して、つないで、戻して、失われたものを支えられるかもしれない」
そこでひばりは俵屋を見る。
「だからこそ、間違った使い方をされたくないの」
その目には、強い意志があった。
穏やかな人だ。
優しい人だ。
けれど譲れない一線を持っている。
俵屋はその視線を受け止め、ゆっくりと答える。
「なら、守るしかない」
「うん」
「白塔も、お前の理想も」
ひばりは一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「そういうところ、ずるい」
「何がだ」
「平気な顔で、すごく大事なこと言うところ」
俵屋はわずかに視線を逸らす。
その反応に、志乃の胸にまた別の感情が流れ込んだ。
照れだ。
あまりにも自然すぎて、志乃は一瞬戸惑う。
後の俵屋からは想像もつかない、未熟で人間くさい感情だった。
ひばりが一歩、彼へ近づく。
「ねえ、俵屋」
「何だ」
「もし、白塔が本当に人をつなぐ装置なら」
彼女は観測窓の向こうの光を見つめる。
「いつか、失ったものにも手を伸ばせるのかな」
その問いに、俵屋は少し考える。
研究者として答えるなら、軽々しく肯定はできない。
白塔の可能性は大きい。だが未知の部分が多すぎる。安易な夢を見れば、かえって足を踏み外す。
それでも彼は、ひばりの横顔を見て言う。
「手を伸ばす価値はある」
ひばりは小さく笑う。
「そうね。あなたなら、そう言うと思った」
そのとき、遠くで館内放送が鳴った。
上層会議の招集を告げる無機質な声。
俵屋が顔を上げる。
ひばりもそれを聞いて、ほんの少し嫌そうに眉を寄せた。
「行かないと」
「面倒そうね」
「実際、面倒だ」
「じゃあ、終わったら報告して」
ひばりはそう言って、手元の端末を軽く掲げる。
「私、その間に第三層の再測定やっておくから」
「一人でやるな」
「補助員つけるわよ」
「必ずだ」
「はいはい」
また笑う。
その何気ないやり取りが、どうしようもなく穏やかだった。
志乃は、その穏やかさが永遠ではないことを知っている。
知っているからこそ、苦しくなる。
いま見えているのは、崩れる前の春だ。
すべてが壊れる前の、いちばん幸福な時間だ。
俵屋が去ろうとしたとき、ひばりがふと呼び止めた。
「ねえ」
振り返る。
ひばりは少しだけ照れたように笑って言う。
「ちゃんと戻ってきてね」
たったそれだけの言葉に、俵屋の胸が大きく揺れた。
「……分かっている」
短く答える。
けれどその一言の裏に、どれほど多くの約束が込められていたか、志乃には痛いほど伝わった。
戻る。
守る。
隣にいる。
まだ何も失わない。
そう信じられた時間が、たしかにここにはあった。
俵屋が歩き出す。
廊下を曲がる直前、振り返らずにひばりへ言う。
「無茶はするな」
「努力する」
「努力で済ませるな」
「善処します」
そのやり取りに、ひばりが笑う。
そしてその笑い声が、やけに長く耳に残った。
志乃は直感する。
この幸福な時間は、もうすぐ終わる。
白塔の空気は穏やかだった。
だがその奥底では、すでに何かが軋み始めている。
上層部の焦り。
成果主義。
管理権限の再編。
倫理より実用を求める流れ。
そのすべてが、この春の終わりを準備しているように思えた。
そして、俵屋の胸の奥にごく小さく差した違和感が、志乃にも伝わる。
まだ名前のない不安。
けれど決して無視してはいけない予兆。
遠くの窓の向こうで、白塔の中枢層が静かに光っていた。
美しく、静かで、底知れないまま。
まるで最初から、誰かの幸福も、誰かの破滅も、すべて見届けるつもりでそこにあるように。




