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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第9節 夢

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白塔の春

白い廊下に、やわらかな光が落ちていた。


志乃はそこに立っている。

いや、立っているのは俵屋だ。

けれど視界は完全に彼のものだった。足音の響き方も、呼吸の浅さも、白衣の袖がわずかに擦れる感触さえ、自分のものではないのに自分のことのように分かる。


さっきまでいたはずの崩壊する地下空間は、もうどこにもなかった。


そこにあるのは、まだ壊れていない白塔だった。


白い壁。

磨かれた床。

規則正しく並ぶ観測窓。

遠くから聞こえてくる研究員たちの会話。

機器の作動音。

そして何より、この場所を満たしている空気が違う。


今の白塔にあるような、怨嗟や苦痛や、濁った霊気の澱みがない。

緊張感はある。研究施設らしい張り詰めた気配はある。けれどそれは恐怖ではなく、もっと前向きな熱に近かった。


「俵屋、また夜通しだったの?」


廊下の先で振り向いた女性が、少し呆れたように笑う。


長い黒髪を後ろでゆるくまとめ、白衣の下には簡素な研究服を着ている。

華やかな印象ではない。けれど、目を引かずにはいられない人だった。

その佇まいには静かな知性があり、微笑むだけで場の空気を和らげる不思議な温度があった。


戸塚ひばり。


志乃は、その名を誰に教えられるでもなく理解した。

白塔の奥から聞こえていた声の主。

そして、俵屋の奥底に今も焼きついている人。


俵屋の胸に、やわらかな感情が広がる。

安堵だった。

彼女がここにいて、こうして声をかけてくれる、それだけで張りつめていた何かが少し緩むような感覚。


「お前だって、似たようなものだろう」


俵屋――若い頃の彼が、そう答える。


今の俵屋とはまるで違う声だった。

低さは同じでも、冷たさがない。

皮肉めいた口調の奥に、相手を安心して受け入れている柔らかさがある。


ひばりは小さく肩をすくめた。


「私は仮眠したわ。二時間だけだけど」


「それを仮眠と呼ぶかは微妙だな」


「研究者の世界では十分よ」


そう言って笑うひばりにつられるように、俵屋の口元もわずかに緩む。


その自然さに、志乃は胸が締めつけられる思いがした。


この人は、最初から冷酷だったわけじゃない。

最初から奪うことしか考えていなかったわけじゃない。

こんなふうに、誰かと並んで笑える時間があったのだ。


二人は並んで廊下を歩き出す。


窓の外には、白塔内部に設けられた観測層が見えた。

巨大な円筒状の空間に、いくつもの観測機器と浮遊式の霊気測定装置が整然と配置され、その中心には淡い光を放つ古代遺物らしきものが封じられている。


オーパーツ。


志乃はそう理解する。

俵屋とひばりが研究していた対象のひとつだ。


「昨日の測定結果、見た?」


ひばりが手元の資料端末を軽く持ち上げる。


「第三層のオーパーツ、外部刺激なしでも霊気の自励振動が起きてる。やっぱり白塔の基盤回路と共鳴してるみたい」


俵屋が視線を向ける。


「周期は安定していたか」


「完全には。でも、前回より整ってる。あと少しで、白塔側の受信条件を逆算できるかもしれない」


ひばりの声は明るい。

研究そのものが好きなのだと分かる。成果を誇るというより、未知の構造に一歩近づいたことを純粋に喜んでいる声だった。


俵屋もまた、その話をきちんと聞いている。

今の彼の中には、後年のような飢えた執着はまだない。あるのは研究者としての集中と、その隣で同じ景色を見ているひばりへの信頼だけだ。


「白塔は単なる保管施設じゃないわ」


ひばりは歩きながら言う。


「昔の人たちは、ここを“眠らせる場所”じゃなくて、“つなぐ場所”として作ったんだと思う。霊気力と遺物、記録と人、全部を媒介するための塔」


「媒介装置、か」


「うん。だからこそ危ないんだけどね」


ひばりは少しだけ真面目な顔になる。


「強すぎる力や、用途の分からない遺物を閉じ込めておくだけなら、もっと単純な封印施設で足りる。でも白塔は違う。ちゃんと“使う”ことを前提に設計されてる」


俵屋は短く頷く。


「だから管理と倫理がいる」


「そう」


ひばりは即座に答えた。


「使えるから使う、じゃだめなの。理解して、制御して、人に返せる形にしてはじめて意味がある」


その言葉には、ひばりという人間の核があった。


彼女は理想主義者なのだろう。

だが、ただ夢見るだけの人ではない。危険も知っている。利用価値も分かっている。そのうえでなお、“人を救うために使うべきだ”と信じている。


志乃はその感覚に、少しだけ息を呑んだ。


白塔の奥で何度も聞いた声。

解放を求め、終わらせてほしいと願っていた声。

その声の主が、もともとはこんなにもまっすぐに“救うこと”を考えていたのだ。


ひばりが不意に足を止める。


目の前には大きな観測窓があり、その向こうで白く輝く中枢層の一部が見えていた。今のように禍々しいものではない。静かに光る、巨大な霊気制御基盤。その奥で、いくつもの古代文字がゆっくりと明滅している。


「きれい」


ひばりがぽつりと言う。


「何度見ても思うわ。怖いくらいに、きれい」


俵屋もその光景を見る。


「だが、近づきすぎれば呑まれる」


「ええ」


ひばりは笑った。


「だから、あなたが止めてくれるでしょ」


その言葉に、俵屋の胸が静かに揺れる。

それは恋愛感情という一言では足りないほど深い、信頼に触れたときのあたたかさだった。


「……止める前に、お前が勝手に踏み込むな」


「注意の仕方が保護者なのよ」


「否定はしない」


「しないんだ」


ひばりがくすりと笑う。


その笑い声を聞いた瞬間、俵屋の中にある感情が、志乃へそのまま流れ込んでくる。


守りたい。


それは強い決意というより、もっと日常の延長にある自然な願いだった。

この人が笑っている時間を、なるべく長く続けたい。

無茶をしてほしくない。

できれば危ないところには行ってほしくない。

でも、彼女が止まらない人だと知っているから、その隣で支え続けたい。


そんな思いが、言葉になる前の形で胸の奥にある。


志乃はその温度に触れ、苦しくなる。


後の俵屋を知っているからこそ、あまりにも眩しかった。


こんな始まりがあったのに。

こんなふうに誰かを大事に思っていたのに。

それがどうして、あんなふうに壊れてしまったのか。


ひばりは観測窓から視線を外し、俵屋を見た。


「今日、上層会議あるんでしょう?」


「ああ」


「また予算の話?」


「予算と、管理権限の再編だ」


ひばりの表情が少し曇る。


「最近、変よね。成果を急ぎすぎてる」


「上は焦っている」


俵屋の声も少し硬くなる。


「東都の霊障案件が増えている。外の状況が悪い以上、白塔の成果を早く実用化したいんだろう」


「実用化、ね……」


ひばりは小さくため息をつく。


「その言葉、便利すぎるのよ。安全確認も倫理審査も、全部飛ばしていい理由みたいに使われる」


俵屋は答えない。

だが、その沈黙は同意だった。


ひばりは少し間を置いてから、窓の外の中枢層を見つめたまま静かに言う。


「私は、この塔を人を救うために使いたい」


その声は、先ほどの研究談義の延長ではなかった。

もっと個人的で、もっと深い願いのように聞こえた。


「霊気力の異常で苦しむ人も、遺物に触れて壊れた人も、今の技術じゃ救えない人がたくさんいる。でも白塔なら、もしかしたら届くかもしれない。記録して、つないで、戻して、失われたものを支えられるかもしれない」


そこでひばりは俵屋を見る。


「だからこそ、間違った使い方をされたくないの」


その目には、強い意志があった。

穏やかな人だ。

優しい人だ。

けれど譲れない一線を持っている。


俵屋はその視線を受け止め、ゆっくりと答える。


「なら、守るしかない」


「うん」


「白塔も、お前の理想も」


ひばりは一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「そういうところ、ずるい」


「何がだ」


「平気な顔で、すごく大事なこと言うところ」


俵屋はわずかに視線を逸らす。

その反応に、志乃の胸にまた別の感情が流れ込んだ。


照れだ。


あまりにも自然すぎて、志乃は一瞬戸惑う。

後の俵屋からは想像もつかない、未熟で人間くさい感情だった。


ひばりが一歩、彼へ近づく。


「ねえ、俵屋」


「何だ」


「もし、白塔が本当に人をつなぐ装置なら」


彼女は観測窓の向こうの光を見つめる。


「いつか、失ったものにも手を伸ばせるのかな」


その問いに、俵屋は少し考える。


研究者として答えるなら、軽々しく肯定はできない。

白塔の可能性は大きい。だが未知の部分が多すぎる。安易な夢を見れば、かえって足を踏み外す。


それでも彼は、ひばりの横顔を見て言う。


「手を伸ばす価値はある」


ひばりは小さく笑う。


「そうね。あなたなら、そう言うと思った」


そのとき、遠くで館内放送が鳴った。

上層会議の招集を告げる無機質な声。


俵屋が顔を上げる。

ひばりもそれを聞いて、ほんの少し嫌そうに眉を寄せた。


「行かないと」


「面倒そうね」


「実際、面倒だ」


「じゃあ、終わったら報告して」


ひばりはそう言って、手元の端末を軽く掲げる。


「私、その間に第三層の再測定やっておくから」


「一人でやるな」


「補助員つけるわよ」


「必ずだ」


「はいはい」


また笑う。

その何気ないやり取りが、どうしようもなく穏やかだった。


志乃は、その穏やかさが永遠ではないことを知っている。

知っているからこそ、苦しくなる。


いま見えているのは、崩れる前の春だ。

すべてが壊れる前の、いちばん幸福な時間だ。


俵屋が去ろうとしたとき、ひばりがふと呼び止めた。


「ねえ」


振り返る。


ひばりは少しだけ照れたように笑って言う。


「ちゃんと戻ってきてね」


たったそれだけの言葉に、俵屋の胸が大きく揺れた。


「……分かっている」


短く答える。

けれどその一言の裏に、どれほど多くの約束が込められていたか、志乃には痛いほど伝わった。


戻る。

守る。

隣にいる。

まだ何も失わない。


そう信じられた時間が、たしかにここにはあった。


俵屋が歩き出す。

廊下を曲がる直前、振り返らずにひばりへ言う。


「無茶はするな」


「努力する」


「努力で済ませるな」


「善処します」


そのやり取りに、ひばりが笑う。


そしてその笑い声が、やけに長く耳に残った。


志乃は直感する。


この幸福な時間は、もうすぐ終わる。


白塔の空気は穏やかだった。

だがその奥底では、すでに何かが軋み始めている。


上層部の焦り。

成果主義。

管理権限の再編。

倫理より実用を求める流れ。


そのすべてが、この春の終わりを準備しているように思えた。


そして、俵屋の胸の奥にごく小さく差した違和感が、志乃にも伝わる。


まだ名前のない不安。

けれど決して無視してはいけない予兆。


遠くの窓の向こうで、白塔の中枢層が静かに光っていた。


美しく、静かで、底知れないまま。


まるで最初から、誰かの幸福も、誰かの破滅も、すべて見届けるつもりでそこにあるように。

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