崩れゆく男
志乃が沈んでいく。
白塔の地下で吹き荒れる轟音も、暴走する防衛機構の光も、冷花の叫びも、白神教授の制止も、すべてが遠ざかっていった。水の底へ引き込まれるように、現実の輪郭が薄れていく。
だがそれは気絶ではなかった。
意識が途切れるのではない。
むしろ逆だ。誰かの奥底へ、無理やり目を開かされていく。
俵屋の感情が流れ込んでくる。
焦燥。
怒り。
悔恨。
そしてその奥に、長い時間をかけて腐り切ったはずなのに、まだ腐りきれずに残っている痛み。
息が詰まる。
胸が苦しい。
これは自分のものではないと分かっているのに、あまりにも生々しくて、志乃は思わず喉を押さえたくなった。
「……っ」
現実の身体がどうなっているのかは分からない。
だが、どこか遠くで自分の喉からも苦しい息が漏れている気がした。
その一方で、地下の現実では俵屋の崩壊が進んでいた。
腹を貫かれた傷口を中心に、彼の全身を走る白い亀裂はなお広がり続けている。
不死の力を無理やり飲み込み、魔泉道の一撃で回路を断ち切られた代償は大きかった。再生は起きている。だが、それ以上の速度で崩壊が始まっている。
肩が裂ける。
首筋に光の線が走る。
頬の一部が粒子のように崩れ、また次の瞬間には歪に繋がる。
それでも俵屋は倒れない。
「……まだ、だ」
低い声だった。
それが自分に言い聞かせている言葉だと、志乃には分かった。
まだ終われない。
まだ倒れられない。
まだ、手放せない。
その執念だけで、俵屋は辛うじて立っている。
魔泉道はそんな彼を前に、血に濡れた顔で静かに笑っていた。
人工不死によって無理やり繋ぎ止められたその肉体も決して万全ではない。胸の傷は完全には閉じておらず、動くたびに赤黒い血がにじむ。だが、その目の光だけは少しも衰えていなかった。
「崩れたか、俵屋」
その声には憐憫も怒りもない。
あるのは、観察者の冷たさだけだ。
「やはりな。お前の器では、本物の不死には届かん」
俵屋は笑わなかった。
反論もすぐには返さない。
ただ腹を貫く刃を片手で掴み、光のひび割れた指先に力を込める。
「……お前に、言われる筋合いはない」
「あるさ」
魔泉道はあっさりと答えた。
「私は少なくとも、身の丈は計算している」
その言葉に、白神教授が険しい顔を向ける。
「計算している人間が、都市一つを巻き込む実験をするか」
「するとも」
魔泉道は振り返りもせず言った。
「必要だからだ」
冷花が吐き捨てる。
「ほんと、最低ね」
だがその言葉にも魔泉道は揺れなかった。
彼にとって他者の怒りも軽蔑も、もはや雑音にすぎないのだろう。
一方、虚西コウは光の中心で苦しげに俯いていた。
白塔との接続は切れていない。むしろ、俵屋の崩壊によって開いた古い層のせいで、今まで以上に多くの情報が彼の中へ流れ込んでいる。
「……まずい」
絞り出すような声だった。
白神教授が振り向く。
「何が見える、コウ」
虚西はこめかみを押さえながら答える。
「俵屋の中に……白塔の記録が食い込んでる。普通の記憶じゃない。あいつ、自分の中に……ずっと昔の層を抱えたままだったんだ」
「白塔の昔の層……?」
「長く、消えてない。消せなかったんだ」
その“消せなかった”という言葉に、志乃の胸が強く痛む。
そうだ。
俵屋は忘れていない。
忘れたくても、消したくても、消えなかった何かを抱えていた。
だから、いま崩れている。
肉体だけじゃない。
押し込め続けた時間そのものが、耐えきれずにひび割れているのだ。
俵屋が一歩、よろめく。
魔泉道の刃を腹に受けたまま、それでも白い器への接続を手放すまいとする。だが先ほどまでの冷徹な精度はもうない。黒い霊気は乱れ、収束しきれずに空中へほどけていく。
白い器もまたその影響を受け、大きく脈打った。
白塔の奥から、あの女性の声が弱々しく響く。
「……もう、やめて」
その声に、俵屋の目がわずかに揺れた。
志乃ははっとする。
いまの反応は、敵を前にした警戒ではない。
もっと直接的で、もっと深い反応だった。
俵屋はその声を知っている。
当然だ。
白塔の奥の声の主と、俵屋の奥底にある記憶は、同じ痛みを向いている。
「……まだだ」
俵屋がもう一度、そう言う。
けれど今度の声音は、自分に言い聞かせるというより、どこかへ向けて謝っているようにも聞こえた。
魔泉道はその揺らぎを見逃さなかった。
「崩れゆく今さらになって、まだ未練があるか」
「黙れ」
「未練こそ、お前の原動力だろう」
そう言って、魔泉道は俵屋の腹を貫く刃をさらに抉ろうとした。
その瞬間、俵屋が魔泉道の手首を強く掴む。
ひび割れた指。
崩れかけた腕。
それでもその力だけは異様に強かった。
魔泉道の表情がわずかに険しくなる。
「……まだ動くか」
「終わってない」
「終わっているさ」
魔泉道は冷たく言った。
「お前はもう、力を持つに足る器ではない」
俵屋の目が細くなる。
その目に宿った感情を、志乃はうまく言葉にできなかった。
怒りだけではない。
悔しさだけでもない。
何かを失った者が、その失ったものに縛られ続けた果てに、ようやく自分がどこまで来てしまったかを見てしまったときの、暗い色だ。
そしてその色は、そのまま志乃の中へ流れ込んでくる。
――救いたかった。
――取り戻したかった。
――なのに、間に合わなかった。
知らないはずの感情なのに、志乃は胸の奥でそれを“知ってしまう”。
「や……」
思わず声が漏れる。
冷花が志乃の異変に気づき、肩を支えようとする。
けれど志乃の意識は、すでに半ば俵屋の過去へ引き込まれていた。
白神教授が術式を重ねる。
「志乃を離せ……!」
空中に幾何学的な陣が展開し、志乃と俵屋の間に割って入る。
だが、効かない。
これは外からつながれた術ではない。
白塔を媒介にして開いた“記録”そのものだ。
いま俵屋が崩壊している以上、その内側に封じられていたものもまた、止めようがない。
「無駄だ、白神」
魔泉道が言う。
「これは術ではなく、剥離だ。壊れた器から中身が漏れているだけだ」
その声音には、わずかな苛立ちがあった。
観察はしている。
だが同時に、好ましくないとも思っている。
つまりこの記憶の流出だけは、少なくとも完全には制御できていない。
「余計なものが表に出る前に、終わらせる」
魔泉道はそう言って、俵屋に向けてさらに霊気を込めようとする。
その瞬間、俵屋が笑った。
ひび割れた口元が、ほんのわずかに歪む。
「……そうか」
掠れた声だった。
「お前でも、恐れることがあるんだな」
魔泉道の目が冷える。
「恐れてはいない」
「なら、なぜ急ぐ」
その一言は、確かに魔泉道の核心を突いていた。
地下の空気がさらに張りつめる。
白塔の最奥で白い器が脈打ち、東都から流れ込む霊気が不規則に明滅する。
俵屋はもはや立っているだけで限界のはずだった。
腹を貫かれ、内外から崩れ、記憶まで流出している。
なのにその声には、最後の最後で魔泉道の顔を見返した者の静けさがあった。
「お前は成果を欲しがる。完成を欲しがる。だから、完成を汚すものを嫌う」
「……黙れ」
「俺の記憶が、その完成に泥を塗るからだ」
魔泉道の手元の霊気がわずかに揺れた。
その一瞬を、志乃は見逃さなかった。
やはりそうだ。
俵屋の過去には、魔泉道にとって見せたくないものがある。
単なる失敗の記録ではない。
もっと根本から、この白塔の意味を変えてしまう何かが。
そのとき、俵屋の身体から大きく光が噴き出した。
白と黒の霊気がぶつかり合い、俵屋の輪郭が一瞬だけ曖昧になる。
崩れている。
本当に、限界が近い。
虚西が低く呻く。
「……来る」
「何が!」
吾妻が叫ぶ。
虚西は顔を上げた。
その目には恐怖と確信が同時にあった。
「俵屋の中の一番深い記憶が開く」
志乃の呼吸が止まる。
一番深い記憶。
そこに、すべてがある。
俵屋がなぜここまで執着したのか。
なぜ魔泉道のそばにいたのか。
なぜ不死の力を奪おうとしたのか。
その答えが、もうすぐ流れ込んでくる。
俵屋は最後の力を振り絞るように、魔泉道の手首をさらに強く掴んだ。
「見ろ」
それは、魔泉道に向けた言葉だったのか。
それとも、志乃に向けたものだったのか。
「俺が何を失ったのかを」
次の瞬間、志乃の視界が完全に反転した。
地下の崩壊する光景。
魔泉道の冷たい顔。
俵屋のひび割れた身体。
すべてが砕け、白い光へ溶けていく。
その先に現れたのは、まだ新しく、静かで、研究施設として息づいていた頃の白塔だった。
白い廊下。
規則正しい照明。
遠くで響く誰かの足音。
ガラス越しに並ぶ観測装置。
そして、柔らかい笑い声。
志乃は、誰かの視点でその光景を見ていた。
俵屋の目だ。
まだ冷たくもなく、壊れてもいない頃の。
廊下の先で、一人の女性が振り向く。
長い髪。
白衣。
穏やかな微笑。
その眼差しには、知性と、強さと、ひどく優しい光が宿っていた。
彼女を見た瞬間、俵屋の胸に生まれた感情がそのまま志乃へ流れ込む。
愛しさ。
安堵。
この人といる時間を守りたいという、まっすぐな願い。
そして志乃は理解する。
これが始まりなのだと。
白塔の悲劇の、すべての始まりが、いまここから開かれるのだと。
遠くで、その女性が笑う。
「俵屋、また夜通しだったの?」
その声は、白塔の奥で何度も聞いた声と、たしかに同じだった。




