計算の外側
白塔の地下を満たしていた暴走の光が、志乃の視界の端で滲んだ。
俵屋の腹を貫いた魔泉道の刃は、ただ肉体を傷つけただけではなかった。
俵屋が奪い、無理やり自分の内へ押し込めていた不死の力の回路、その最も乱れた一点を正確に断ち切っている。
「……が、っ」
俵屋の喉から漏れた苦鳴は短かった。
だが、その一声だけで十分だった。
彼の全身を走っていた白い亀裂が、一気に広がる。
肩口。首筋。頬。胸。
ひび割れた器のように光が裂け、その裂け目から黒い霊気と白い霊気が同時に吹き上がった。
崩壊と再生の均衡が、完全に狂ったのだ。
魔泉道は刃を差し込んだまま、血に濡れた顔で笑っていた。
「どうした、俵屋」
その声はひどく静かだった。
死にかけの人間が出す声ではない。
一度殺され、それでもなお立ち上がった者だけが持つ、不気味な余裕がそこにあった。
「奪ったのではなかったのか?」
俵屋は答えない。
答える代わりに、白い器との接続を強引に維持しようとする。
腹部を貫かれたまま、なお右手を持ち上げ、黒い霊気を収束させる。
「まだ……終わらん」
掠れた声だった。
だが、その中にはまだ執念が残っている。
魔泉道はその言葉を聞いて、ほんのわずかに目を細めた。
「その執着だけは認めよう」
次の瞬間、彼は刃をさらに深く押し込んだ。
俵屋の身体が大きく震える。
白い亀裂が腹部から胸へ、胸から顔面へと這い上がり、右目の下にまで走った。
その裂け目から漏れる光は、再生の輝きというより、器が限界を超えて割れ始めた証に見えた。
「お前は最初から分かりやすかった」
魔泉道が言う。
「白塔を見つめる目も、ひば――」
言いかけて、彼はそこでわずかに言葉を切った。
志乃はその一瞬を見逃さなかった。
魔泉道は何かを知っている。
俵屋の奥にあるものを。
怒りでも野心でもない、もっと深くて古い執着を。
俵屋が低く唸る。
「……黙れ」
「黙るものか」
魔泉道の声には、いまやはっきりと愉悦が混じっていた。
「お前が私を出し抜こうとすることは知っていた。白塔の中枢に触れ、不死の力を横取りしようとすることもな。だから私は、お前が手を伸ばさずにいられない位置まで、わざわざ成果を差し出してやったのだ」
白神教授が険しい声で吐き捨てる。
「ここまで人間を道具扱いできるか……」
「違う」
魔泉道は振り返りもせず言った。
「道具は壊れたら終わりだ。だが人間は、欲と執着があれば自ら動く。だから使いやすい」
その言葉に、志乃はぞっとする。
俵屋の裏切り。
魔泉道への反抗。
不死の力の簒奪。
そのすべてが、最初から計算に入っていた。
俵屋は自分が狩る側だと思っていた。
だが魔泉道は、その狩りそのものを利用していたのだ。
「人工不死……」
白神教授が低く呟く。
「自分の理論の副産物を、保険として肉体へ先行実装していたのか」
魔泉道はようやく教授に目を向けた。
「さすがだ、白神教授。理解が早い」
彼は自分の胸元へ手を当てる。
そこには、俵屋に刺し貫かれた傷がまだ残っていた。完全には塞がっていない。皮膚は歪に繋がり、赤黒く変色し、傷口の周囲だけ霊気が濁っている。
完治ではない。
無理やり死を遠ざけているだけだ。
「完全な不死など、まだほど遠い。今のこれは粗悪品にすぎん。肉体崩壊の速度を遅らせ、生命反応を擬似的に保持し、魂の離脱を一時的に曖昧にするだけの代物だ」
そう語る声には、不満すらあった。
だが同時に、その不完全な技術でさえ十分役に立つという確信もある。
「弱い。醜い。長くは使えん。だが、“死ぬはずの一撃”を一度だけ無効化するには足りた」
「最初から、そこまで用意してたっていうの……?」
志乃の声は震えていた。
魔泉道は彼女を見た。
その目には侮蔑でも怒りでもなく、ただ“当然だろう”という冷たさがあった。
「当然だ。私は自分の研究成果を、他者より先に自分へ試す。そうでなければ、誰が信じる」
「信じるとか、そういう話じゃ……」
「そういう話だ」
魔泉道はぴしゃりと言った。
「研究とは常に裏切られる。被験体に、同僚に、上層部に、結果に。ならば、裏切られたときに立っていられるだけの保険を持つのは当然だ」
その理屈は、恐ろしく筋が通っていた。
筋が通っているからこそ、狂気だった。
白神教授が苦く顔を歪める。
「お前は人の裏切りすら、研究工程の一部として数えていたのか」
「数えねば研究にならん」
魔泉道は淡々と答える。
「俵屋の憎しみも、執着も、横取りも、すべて予測可能だった。そして予測可能である以上、実験条件のひとつにすぎん」
俵屋の全身の黒い霊気が、一瞬だけ激しく逆巻いた。
怒りか。
それとも、言い返せないことへの苛立ちか。
だがその揺らぎはすぐ、肉体の崩壊に飲まれる。
「……ふざけるな」
俵屋の声は低い。
けれどその一言には、これまでの無感情な彼にはなかった温度があった。
「お前に……俺の何が分かる」
「分かるとも」
魔泉道は冷たく笑う。
「お前が何を取り戻したいのかも。なぜ私のそばを離れなかったのかも。なぜここで私を刺したのかもな」
志乃の胸が、どくりと鳴った。
取り戻したいもの。
俵屋が魔泉道のそばにいた理由。
そこに何か、ただの野心ではないものがある。
だがその答えへ届くより早く、白塔の中枢が大きく脈打った。
白い器の輪郭がぶれ、空中に浮かぶ人影のような核が大きく揺れる。
俵屋の中で不安定になった回路と、魔泉道が刺し込んだ刃の干渉によって、中枢の情報が激しく撹拌され始めたのだ。
虚西が苦しげに顔を上げる。
「……記憶が、溢れる」
「コウ!」
志乃が叫ぶ。
虚西はこめかみを押さえた。
彼の瞳の奥で、地下の景色とは別の映像が明滅している。
白塔との接続が深すぎるせいで、俵屋の深層に沈んでいたものが流れ込んできているのだ。
「俵屋の中に……白塔の古い層と、繋がってる部分がある……」
白神教授が鋭く聞き返す。
「古い層?」
「ずっと前の記録だ。押し込めてた記憶が、傷で破れて……漏れてる」
その言葉を聞いた瞬間、魔泉道の目がわずかに動いた。
ほんの一瞬。
だが、それは明らかに“都合の悪いもの”が表に出る気配を察した反応だった。
俵屋はその変化を見逃さなかったらしい。
腹を貫かれながら、唇の端をほんの少しだけ歪める。
「……そうか」
「何がおかしい」
「お前も……そこまでは計算していなかったようだな」
魔泉道の表情がわずかに冷える。
「記憶の流出か。くだらん副作用だ」
「副作用……?」
俵屋の声は血に濡れ、かすれていた。
それでも、はっきりとした嘲りが滲んでいる。
「お前にとっては、そうだろうな」
その瞬間、俵屋の身体から噴き出す黒い霊気が、白塔の奥へ向かって逆流した。
白い器が悲鳴のように震え、女の声がかすかに揺れる。
「……やめて……」
それは恐怖ではなく、むしろ“来てしまう”ことへの苦しみを含んだ声だった。
志乃の胸が締めつけられる。
来る。
何かが、もうすぐ見えてしまう。
白神教授は志乃の様子に気づいたらしい。
彼女へ向き直り、鋭く言った。
「志乃、気を強く持て。今の白塔は記憶の深層まで開きかけている。お前の感応が引きずられれば、そのまま飲まれるぞ」
「でも、もう……」
志乃は言葉を切った。
もう、俵屋の感情が流れ込んできている。
怒り。
憎しみ。
焦燥。
そして、それよりも深く沈んだ喪失感。
それは単なる悪意ではなかった。
長い時間をかけて腐り、色を失ってもなお消えなかった、ひどく個人的な痛みだった。
「白神先生……俵屋って……」
問いかけようとした、そのときだった。
魔泉道が再び俵屋へ体重をかけ、刃をさらにひねる。
「語らせるものか」
その声には、今度は明確な苛立ちがあった。
「お前の感傷など、ここで表に出す価値はない」
その一言が、俵屋の何かを逆撫でしたのかもしれない。
彼は腹を貫かれたまま、魔泉道の手首を掴んだ。
ひび割れた指が、驚くほど強い力で。
「価値……?」
俵屋の目が、初めて感情を剥き出しにした。
それは怒りではなかった。
もっと濁った、もっと深く煮詰まったもの。
何年も押し殺し、腐らせ、なお消えなかった痛みそのものだった。
「お前が……価値を語るな」
次の瞬間、地下全体に重い衝撃が走った。
俵屋の身体から、記憶の奔流が一気に噴き出したのだ。
白塔の壁面の紋様が乱れ、過去の映像の断片めいたものが一瞬だけ空間へ投影される。
白い廊下。
まだ新しい設備。
今よりも明るい灯り。
誰かの笑い声。
志乃の呼吸が止まる。
「え……」
いま見えたものは、現在の白塔ではない。
もっと昔の、まだ壊れていない頃の白塔だ。
虚西が苦しげに呻く。
「来る……志乃、気をつけろ……!」
だが遅かった。
志乃の能力は、すでにその流れを掴んでいた。
拒めば拒むほど、俵屋の奥底へ引きずられる。
そこにはただの情報ではなく、“そのとき俵屋が見ていた世界”がそのまま残っている。
白神教授が術式を展開する。
冷花が志乃の肩を掴む。
吾妻が周囲の防衛機構を牽制する。
それでも、記憶の流入は止まらない。
魔泉道は忌々しげに舌打ちした。
「余計なものを……」
その声を最後に、志乃の意識は大きく沈んだ。
目の前の暴走する地下空間が遠ざかる。
俵屋の苦鳴も、白塔の振動も、仲間たちの叫びも、すべて水の底へ沈むように薄れていく。
代わりに現れたのは、柔らかな光に満ちた白い廊下だった。
まだ何も壊れていない、遠い昔の白塔。
そしてその廊下の先で、誰かが振り返る。
長い髪。
白衣。
穏やかな微笑。
志乃は、その姿を見た瞬間に理解した。
あれが――声の主だ。
白塔の奥で、ずっと呼びかけていた女性。
そして、俵屋の過去の中心にいる人間。
意識が完全に切り替わる直前、最後に聞こえたのは俵屋の感情だった。
愛しさと、喪失と、どうしようもない後悔。
そのすべてが、ひとつの名へ向かっていた。
――ひばり。




