死に損ないの逆襲
白塔の地下で、均衡はすでに完全に崩れていた。
俵屋が奪い取った不死の力は、彼の肉体に収まりきらぬまま暴れ狂い、白塔の中枢を巻き込み、東都全域から集積された霊気の流れすら歪めている。壁面を走る紋様は赤黒く脈打ち、床下の儀式装置は断続的に悲鳴のような駆動音を上げていた。空間そのものが軋み、白く輝く裂け目と、底の見えぬ黒い亀裂が同時に生まれては消えていく。
その中心で俵屋は立っていた。
全身に走る光のひび割れ。
裂けては塞がり、塞がってはまた裂ける皮膚。
人の姿を保ちながら、その内側ではすでに別の何かへと置き換わり始めている。
それでも俵屋の目は死んでいなかった。
「いい……」
低く漏れた声には、痛みよりも執着が滲んでいた。
「これほどの力か……」
その足元で黒い霊気が渦を巻き、白塔の奥にある白い器へ食い込んでいく。白と黒。生と死。再生と崩壊。あらゆる矛盾を抱えたまま、不死の力は彼の中で荒れ狂っていた。
志乃は拘束されたまま、その光景を見上げていた。
胸が苦しい。
白塔の暴走のせいだけではない。
俵屋が不死の力を奪ったはずなのに、何ひとつ終わっていないどころか、状況はさらに悪化している。その事実が、じわじわと恐怖になって腹の底に沈んでいく。
「白神先生……」
声は震えていた。
「もう……どうなるんですか」
白神教授は険しい顔のまま、俵屋と白塔中枢の流れを睨んでいた。
「最悪の形で固定される前に、俵屋を止めるしかない」
「止めるって、どうやって……」
「それを探しているところだ」
短い返答だったが、その声には焦りがあった。
教授にも、完全な答えはまだ見えていない。
吾妻と冷花は前線で俵屋を牽制していた。
刀が振るわれ、霊気の刃が飛び、白塔の暴走した防衛機構をかいくぐりながら、少しでも俵屋の行動を制限しようとしている。だが決定打にはならない。俵屋の肉体は壊れながら再生し、再生しながらさらに力を引き込んでいく。
虚西コウはなお光の中心で膝をついていた。
白塔との接続が深まりすぎているせいで、立ち上がることすらままならない。けれど意識は失っていない。その瞳には、地下だけではなく、東都全体の霊気の流れまでもが映っていた。
「……まだ、変だ」
虚西が掠れた声で言った。
志乃が振り向く。
「何が?」
虚西は苦しげに息を吸った。
「俵屋に集まってるだけじゃない……この流れ、まだどこかが残ってる」
「残ってる……?」
白神教授が反応する。
「どういう意味だ」
「切れてないんだ。主導権は俵屋に寄ってる。でも、最初の術式の根っこが……まだ、別のところにある」
その言葉に、白神教授の目が細くなる。
「魔泉道か」
名前が出た瞬間、志乃の背筋が冷えた。
床に倒れていたはずの魔泉道へ、全員の視線が一瞬だけ向く。
白い霊気と血に濡れたその身体は、たしかに先ほどまで動きを失っていた。胸を刺し貫かれた致命傷。呼吸も浅く、誰が見ても致死に近い状態だったはずだ。
なのに。
「……おかしい」
白神教授が低く呟く。
倒れている魔泉道の胸元、その傷口が、じわじわと閉じ始めていた。
完全ではない。
ぎこちない。
傷口の周囲だけ肉が歪に盛り上がり、血の滲んだまま不格好に繋がっていく。治癒というより、無理やり形を保とうとしているだけのような再生だった。
それでも、閉じている。
志乃の顔から血の気が引いた。
「そんな……」
冷花も気づいたらしく、息を呑む。
「嘘でしょ……」
俵屋が初めて、その異変に視線を向けた。
彼の表情は大きくは変わらない。
だが、その目の奥にかすかな警戒が走る。
「……ほう」
低く呟く。
「まだ生きていたか」
床に転がる魔泉道の指先が、ぴくりと動いた。
次に肩が震え、首が持ち上がる。
喉の奥から、血の絡んだ湿った呼吸音が漏れる。
地下にいる誰も、すぐには声を出せなかった。
あり得ないはずのものを見ていたからだ。
魔泉道は、自力で起き上がろうとしていた。
「ぐ、……ッ」
胸元を押さえ、血に濡れた手で床を掴みながら、彼はゆっくりと身を起こす。動きは鈍い。明らかに致命傷の後だ。普通の人間なら起き上がれるはずがない。
それでも魔泉道は立つ。
膝をつき、ぐらつき、なおも倒れず、ついには背筋を伸ばした。
その口元には、ひどく歪んだ笑みが浮かんでいた。
「……見事だったぞ、俵屋」
その声は掠れていたが、確かに魔泉道のものだった。
「一瞬、本当に死んだかと思った」
志乃は息を詰めた。
虚西が目を見開く。
「まさか……」
白神教授が険しい声で言う。
「人工不死……先行実装していたのか」
魔泉道は血に濡れた手を見下ろし、満足げに笑った。
「完全ではない。粗悪だ。不安定だ。長く保たん。だが――」
彼は俵屋を見る。
「一度殺される局面を越えるだけなら、十分だった」
その言葉に、俵屋の目がわずかに細くなった。
「最初から……想定していたか」
「当然だ」
魔泉道は静かに答える。
「お前が裏切ることもな」
地下の空気が凍りつく。
俵屋は無言のまま魔泉道を見つめていた。
その視線には動揺はない。だが読み違えを認めたときの、わずかな静けさがあった。
魔泉道は一歩、また一歩と前へ出る。
その傷はまだ完全には塞がっていない。歩くたびに血が落ちる。だがその歩みに迷いはなかった。
「お前は優秀だ、俵屋。執念もある。観察眼もある。だからこそ、いつか必ず私を出し抜こうとすると分かっていた」
「なら、なぜ近くに置いた」
「使えるからだ」
魔泉道は即答した。
「裏切りを計算に入れてなお、使う価値があった。実際、お前は私の研究を前進させた。そして今も、不安定な不死の力を無理やり引き出してくれている」
冷たい声だった。
人を人として見ていない。
俵屋の長年も、執念も、裏切りさえも、すべて“工程”に過ぎなかったと告げる声だ。
志乃はその残酷さに、ぞっとした。
俵屋は低く言う。
「……最初から、奪わせるつもりだったか」
「そうだ」
魔泉道は笑う。
「お前ほど分かりやすい欲も珍しい。完成の瞬間を待ち、最も甘い果実だけを摘もうとする。だから私は、お前が手を伸ばしたくなる位置へ、わざわざ実験を運んでやったのだ」
俵屋の周囲の黒い霊気が、わずかに揺れた。
怒りか、あるいは別の感情か。
だが俵屋は感情を露わにしない。ただ、白くひび割れた顔のまま、静かに魔泉道を見つめ返していた。
「……舐めるな」
「舐めてはいない。だから保険を用意した」
魔泉道は胸元へ手を当てた。
閉じかけた傷口の周囲で、白く濁った霊気が不気味に脈動している。
「あくまで人工的な代物だ。完全な不死には遠い。肉体の崩壊を一時的に遅らせ、死と生の境界を曖昧にするだけの応急措置に過ぎん。だが、その“わずかな時間”があれば十分だ」
そう言いながら、魔泉道は右手を持ち上げた。
その手の中に、いつの間にか細身の刃が握られていた。
術式で形成されたものではない。
古い金属を思わせる、実体を持った刃だ。
白神教授が息を呑む。
「まずい……!」
俵屋も同時に動いた。
黒い霊気を収束させ、白い器を介してさらに力を引き出そうとする。
だが、ほんのわずか遅い。
不死の力を取り込んだ代償として、俵屋の身体には崩壊と再生のずれが生まれていた。
一瞬の判断はできる。
だが、その一瞬の“動き出し”が、以前の彼より遅れていた。
魔泉道はそこを逃さない。
「――俵屋」
呼ぶように、その名を口にする。
次の瞬間、魔泉道の姿がぶれた。
人工不死によって無理やり繋がれた肉体とは思えない速さだった。
死に損なった人間の動きではない。死を一度踏み越えた者の、執念だけで作られた一歩だった。
刃が閃く。
「っ――」
鈍い音。
俵屋の身体が、わずかに震えた。
刃は、正確に彼の腹部を貫いていた。
志乃が息を呑む。
冷花が声を失い、吾妻が目を見開く。
虚西は苦しげなまま、その流れを“見て”いた。
魔泉道の刃はただ肉を刺したのではない。
俵屋が無理やり取り込んだ不死の力の回路、その乱れていた一点を正確に断ち切っていた。
「が……っ」
俵屋の喉から、初めて明確な苦鳴が漏れる。
その瞬間、彼の身体を走っていた白い亀裂が一斉に広がった。
再生が乱れる。
黒い霊気が吹き上がる。
白い器との接続が激しく明滅する。
魔泉道は刃をねじ込みながら、耳元で囁くように言った。
「お前の裏切りも、憎しみも、執着も――全部、計画の内だ」
俵屋の目が見開かれる。
志乃には、その顔が一瞬だけ、ひどく人間らしく見えた。
冷たく、計算高く、奪う側に立っていた男が、初めて“奪われた側”の表情を浮かべていた。
白塔の中枢が激しく脈打つ。
東都から流れ込む霊気の流れが揺らぎ、白い器の輪郭が大きく崩れる。
その震えは、ただの暴走ではなかった。
俵屋の中に無理やり押し込まれていた不死の力と、彼の奥底に沈められていた何かが、同時に揺さぶられたのだ。
虚西が顔を上げる。
「……来る」
「何が!?」
志乃が叫ぶ。
虚西は苦しげに、けれど確信を持って言った。
「記憶だ……俵屋の中に沈んでたものが、白塔に流れ込む……!」
俵屋の身体が大きくのけぞる。
魔泉道の刃が深く食い込み、白と黒の霊気が爆ぜる。
その瞬間だった。
地下を満たす光が、ふっと色を変えた。
白塔の奥から、遠い昔の空気が流れ込んでくる。
血の匂いではない。
暴走の熱でもない。
もっと古く、もっと静かな、失われた時間の気配。
志乃の視界が、大きく揺れた。
「え……」
立っている場所が分からなくなる。
白塔の地下にいるはずなのに、景色が遠ざかる。
俵屋の目に映っていた何かが、そのままこちらへ流れ込んでくる。
悲しみ。
怒り。
喪失。
どうしようもなく取り返しのつかない後悔。
その感情が、洪水のように志乃の胸へ押し寄せた。
「いや……っ」
白神教授が何かを叫んでいる。
冷花が志乃の名を呼ぶ。
だがもう遅い。
俵屋の封じていた過去が、白塔を通じて志乃へ接続されたのだ。
最後に見えたのは、魔泉道の冷たい笑みと、崩れ落ちかける俵屋の顔だった。
そして次の瞬間――
志乃の視界は、まったく別の時代の白塔へと引きずり込まれた。




