白塔暴走
崩壊は、音より先に始まっていた。
地下空間の輪郭が、わずかにぶれる。
壁と床の境目が曖昧になり、光に満ちたはずの空気の中へ、黒い裂け目のようなものが滲み出していく。まるで白塔そのものが、自分の内側に抱えきれなくなった力によって、現実との継ぎ目を軋ませ始めているようだった。
そして次の瞬間、轟音が来た。
「っ――!」
地下全体が跳ねるように揺れ、床に走っていた紋様の一部が破裂する。白、赤、青、黄、緑の光が制御を失って四方へ噴き上がり、儀式装置の光輪が歪んだ軌道を描きながら軋み出した。
白塔は、明らかに暴走していた。
「全員、伏せろ!」
吾妻の怒声が飛ぶ。
その声と同時に、壁面から無数の光槍が射出された。
さっきまで侵入を阻むだけだった防衛機構が、いまや敵味方の区別なく攻撃へ移っている。
吾妻が一閃する。
飛来した光槍のいくつかが空中で断たれ、砕けた粒子となって散る。だが数が多すぎる。
「ちっ……!」
冷花が志乃の前へ身を滑らせ、霊気の膜を張って数本を逸らす。
白神教授も床へ陣を展開し、斜めから飛来した光刃を弾いた。
それでも地下は安全地帯ではなくなっていた。
通路の壁がねじれ、床下から光の柱が突き上がり、半透明の結界片がガラスの破片のように飛び散る。白塔そのものが、制御を失った巨大な兵器へ変わりつつある。
「これ、完全におかしい!」
冷花が叫ぶ。
「防衛機構が暴走してるだけじゃない……空間そのものが変形してる!」
白神教授が歯を食いしばる。
「俵屋が無理やり主導権を奪ったせいで、白塔の判断系まで巻き込まれたんだ。起動成功の状態を保ったまま中枢だけが歪んでいる。最悪のかたちだ……!」
その“最悪”の中心に、俵屋はなお立っていた。
全身を走る光の亀裂はさらに増え、肩から腕、胸元、頬にまで達している。裂けては塞がり、塞がっては裂ける。人間の器に収まりきらない不死の力が、彼の肉体を壊しながら同時に修復しているのだ。
それでも俵屋は一歩も引かない。
むしろ、その苦痛さえ愉悦に変えているようにすら見えた。
「これが暴走か」
彼は低く呟いた。
「ならば、なお良い。制御された力より、剥き出しの力のほうが本質を見やすい」
「狂ってる……」
志乃は拘束されたまま、震える声で吐き出した。
だが俵屋は聞いていない。
彼の視線は、白い器と、なお流れ込み続ける東都の霊気と、そして自分の中で渦を巻く不死の循環だけを見つめていた。
その足元では、白塔の紋様が明滅を繰り返し、もはや“俵屋を主とする”のか“異物として排除する”のかすら定まらずに揺れている。
その矛盾が、塔全体を壊していた。
「コウ!」
志乃が叫ぶ。
「コウ、聞こえる!? 何が起きてるの!?」
虚西は膝をついたまま、荒い息の中でどうにか顔を上げた。
瞳の奥には、地下の光景だけではない、東都全体の流れが映り込んでいる。白塔と深く接続している今の彼には、暴走の全体像が見えてしまっていた。
「逆流してる……」
掠れた声だった。
「東都から来た流れが、白塔で止まってない……俵屋のところで詰まって、押し返されてる……」
「押し返されてる……?」
「集めるだけじゃない。出る先がなくなったせいで、白塔の中で循環が暴れてるんだ」
白神教授が息を呑む。
「集積と逆流が同時に起きているのか……!」
それは都市規模の災害だった。
本来なら白塔で変換され、一定の回路に沿って固定されるはずの霊気が、俵屋の横取りによって出口を失い、都市から吸い上げられながら都市へ押し返されてもいる。
整流されていたはずの流れが、いまや濁流となって暴れているのだ。
地下の壁面に投影されていた霊脈図が激しく乱れる。
白塔へ収束していた光の線が、中心部で渦を巻き、一部は折り返すように外へ散る。
それはまるで、巨大な心臓が拍動を乱し、血を全身へ送り出すどころか血管の中で破裂しかけているような光景だった。
「地上も危ない……!」
志乃の声が震える。
吾妻が短くうなずく。
「もうとっくに危ない。だが今はここを止めるしかない」
彼は刀を構え直し、俵屋を睨む。
「俵屋を斬れば止まるか」
「単純には止まらん!」
白神教授が即座に否定する。
「今の俵屋は不死の力の結節点だ。斬っても再生する可能性が高い。それどころか、急に流れを断てば白塔の中枢ごと弾ける!」
「じゃあ、どうしろって言うんだ!」
「時間を稼げ!」
白神教授は叫ぶ。
「コウがまだ白塔とつながっている。中枢へ干渉できる唯一の経路だ!」
その言葉に、志乃ははっとして虚西を見た。
虚西は苦しげに息をしながらも、意識を保っている。
白塔に取り込まれそうになりながら、それでもまだ“自分”を失っていない。
「コウ……」
「俺にも、分かってきた……」
虚西は自分の胸元を押さえた。
白い紋様はさらに濃くなり、肌の上だけではなく、その奥の骨格にまで染み込んでいるように見える。
「白塔は、俺を通して開いてる……でもそれだけじゃない」
「それだけじゃない?」
彼は苦しげに目を細めた。
「俺はたぶん……閉じることもできる」
その一言に、その場の空気が止まった。
白神教授の目が見開かれる。
冷花も、吾妻も、志乃も、俵屋でさえ一瞬だけ虚西を見た。
「どういう意味だ」
白神教授が問う。
虚西は呼吸を整えるように間を置いてから、ゆっくりと言った。
「白塔が俺を鍵として使ってるなら……開くためだけじゃなく、閉じるためにも使えるはずだ。扉って、そういうもんだろ」
その言葉は、理屈としてあまりにも単純だった。
だが同時に、核心でもあった。
白塔は虚西を“鍵”として認識している。
ならば、開く方向へ回せるものは、閉じる方向へも回せるはずだ。
志乃の胸に一瞬だけ希望が灯る。
だが次の瞬間、それと同じくらい強い恐怖が込み上げた。
「それって……コウが、もっと深く白塔に触るってこと……?」
虚西は答えなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
白塔の中枢へ干渉するには、今以上に深く同調するしかない。
それはつまり、戻れなくなる危険があるということだ。
志乃は拘束を引きちぎらんばかりに身体を捩る。
「だめ!」
その叫びは、ほとんど反射だった。
「そんなの、だめだよ! やっと今もまだコウがコウでいてくれてるのに、これ以上やったら……!」
虚西が志乃を見る。
光に包まれた顔は青ざめていたが、その目だけは不思議と静かだった。
「分かってる」
「分かってるなら!」
「でも、他にない」
短い一言だった。
それが、志乃の胸を鋭く刺した。
他にない。
それは諦めではない。
見えているものを全部見たうえで、それでも自分がやるしかないと理解してしまった人間の声だ。
「俺が繋いでるなら、俺が止めるしかない」
その言葉の背後で、白塔の奥から女の声が弱々しく響いた。
「……そうです」
志乃がはっとする。
「あなた……!」
「コウは……鍵であり、蓋でもある……」
その声はひどく消耗していた。
だが確かな真実を含んでいた。
「開いたものを、閉じられるのは……彼だけ……」
白神教授が低く呟く。
「やはりそうか……」
魔泉道が床に崩れ落ちたまま、血を吐きながら笑う。
「皮肉だな……私の理論を完成させた鍵が、私の実験を終わらせる鍵でもあるとは……」
その笑いには、まだ執着があった。
死にかけてなお、彼はこの状況すら理論の一部として見ている。
「終わらせる、だと?」
俵屋が初めて明確な不快を滲ませた。
彼の周囲で黒い霊気が膨らみ、白い器から奪い取った力がいっそう濃くなる。
その瞬間、彼の右腕が肘のあたりから大きく裂け、次の瞬間には再生する。
再生と崩壊の速度が、さらに上がっていた。
「閉じさせはしない」
低い声で、俵屋は言った。
「ここまで来て、手放す理由がない」
「理由なんか――」
志乃が言い返すより早く、俵屋が一歩踏み出す。
その動きと同時に、周囲の空間がねじれた。
床に刺さっていた石片や砕けた装置の破片が、見えない力に引かれて浮かび上がり、刃の群れとなって周囲へ向けられる。
白塔の防衛機構と、俵屋自身が引き込んだ不死の力。その両方が混ざり合い、無差別な破壊へ変わっているのだ。
「全員、散れ!」
吾妻が叫ぶ。
次の瞬間、破片の群れが一斉に射出された。
吾妻が前へ出て刀を振るい、軌道を逸らし、冷花が志乃の前に結界を重ねる。
白神教授は術式で床の一部を持ち上げ、防壁の代わりにする。
激しい衝突音。
火花。
砕ける石。
地下空間は完全に戦場と化した。
その混乱の中で、虚西はただ俵屋を見つめていた。
「……もう止めるしかない」
志乃が必死に首を振る。
「だめ。だめだよ、コウ。そんな顔しないで」
虚西は少しだけ笑った。
笑ったように見えた。
「もしもの時は」
その言葉に、志乃の血の気が引く。
「やめて」
「俺を――」
「言わないで!」
叫んでも、虚西は静かに続けた。
「止めてくれ」
その言葉は、優しさではなかった。
覚悟だった。
自分がどこまで行ってしまうか分からないから、最後の一線を他人に託すしかないという、苦しい決意だった。
志乃の目に涙が滲む。
「そんなの、嫌だ……」
「分かってる」
「分かってない……! そんなの、分かってるなら言えないよ……!」
拘束されたまま、彼女は泣きそうな声で叫ぶ。
白塔はなお暴走を続け、俵屋はなお力を奪い続け、地上では東都の霊気が混乱し続けている。
なのにこの瞬間だけ、世界はひどく狭く感じられた。
志乃にとっては、白塔より東都より、目の前の虚西コウのほうがずっと大きかった。
そのとき、白神教授が鋭く言う。
「志乃、聞け!」
彼女が振り向く。
「コウを中枢へ届かせる。だがその前に、まずお前の拘束を解く必要がある。コウ一人で深く潜らせるわけにはいかん。お前が支えろ」
「私が……?」
「奥の声はお前に話しかけている。ならば白塔の中にある“もう一つの意志”と接続できる可能性がある。魔泉道や俵屋が利用している機構とは別に、お前だけが通れる経路があるかもしれん」
その仮説に、志乃の胸が強く鳴る。
女の声。
終わらせてほしいと願っていた存在。
白塔の中で、起動を望む機構とは別の意思。
そこへ届けるなら、まだできることがある。
「……やる」
志乃は涙を拭う暇もなく答えた。
白神教授が短く頷く。
「よし。吾妻、冷花、俵屋を足止めしろ! 数分でいい!」
「了解!」
「言われなくても!」
二人が前へ出る。
その視線の先では、俵屋がもはや人間離れした速度で再生と破壊を繰り返しながら、不死の力をさらに掌握しようとしていた。
白塔の暴走は増すばかりだ。
白神教授は志乃の拘束へ術式を伸ばしながら、低く言った。
「ここから先は賭けだ。だが、まだ終わっていない」
白塔は暴走している。
俵屋は不死の力に取り憑かれている。
魔泉道は倒れ、東都は霊気の嵐に呑まれつつある。
それでも、終わっていない。
虚西コウという鍵が、まだここにいるからだ。




