拒絶
光に満ちた地下空間は、もはや人が立ち入っていい場所には見えなかった。
白塔の壁面を走る紋様は脈打つ血管のように明滅し、床下の儀式装置は幾重もの光輪を展開したまま、不気味な低音を鳴らし続けている。白、赤、青、黄、緑――混ざり合った光は、ただ美しいのではない。そこにある者の感覚を狂わせ、距離感すら奪っていくような異様さを帯びていた。
その中心で、虚西コウの身体に接続された光の線が、ゆっくりと数を増やしていく。
「やめろ……!」
志乃の喉から、ほとんど反射的に声が迸った。
考えるより先に、身体が動く。
見えない壁に弾かれると分かっていても、止まれなかった。
彼女は床を蹴り、虚西へ向かって一気に駆け出す。
「志乃、待て!」
吾妻の制止が背後から飛ぶ。
だが、その声はもう届かない。
数歩。
たったそれだけの距離のはずだった。
しかし次の瞬間、空間そのものがひしゃげたような圧力が志乃を襲う。視界が歪み、空気が壁のように固まる。胸を正面から殴られたような衝撃に、志乃の身体は大きく弾かれた。
「っ、あ……!」
床に叩きつけられる寸前、横から冷花が腕を掴んで引き寄せる。
「無茶しないで!」
「離して、冷花! コウが――」
「分かってる!」
冷花の声にも焦りが滲んでいた。
彼女自身も飛び込みたいはずだった。それでも踏みとどまっているのは、今の空間がただの結界ではないと本能で悟っているからだ。
志乃は歯を食いしばり、なおも前を見た。
虚西は光の中で膝をつき、苦しげに肩を震わせている。腕や首筋に浮かんだ紋様はさらに広がり、白塔の壁面と同じ模様を彼の身体に刻み込むように侵食していた。
「コウ!」
虚西がわずかに顔を上げる。
その瞳はまだこちらを見ていた。だが焦点は揺れ、意識の半分以上が別の場所へ引きずられているように見える。
「志乃……来るな」
「そんなこと言わないで!」
「今、近づいたら……たぶん、お前まで……」
言い切る前に、彼の言葉は苦悶に途切れた。
床から伸びた光の糸が、さらに強く虚西の身体へ食い込んでいく。
白神教授が険しい声を上げる。
「白塔が防衛機構を起動している。侵入や干渉を、術式そのものが拒絶しているんだ」
「防衛機構だと」
吾妻は刀を握り直した。
目の前の現象を見据えながら、一歩前へ出る。
「なら斬る」
短く言い捨て、そのまま踏み込む。
無駄のない動きだった。刀身に霊気を通し、見えない壁の位置を見極めると、吾妻は横薙ぎに一閃した。
鋭い金属音にも似た衝撃が走る。
だが斬れたのは空気ではなく、空間に張られた半透明の膜だった。膜は一瞬だけひび割れるように波打ったものの、次の瞬間には周囲の光を吸い寄せて再生する。
「再生するのか……!」
吾妻が舌打ちする。
魔泉道はその様子を見て、静かに笑った。
「白塔は賢い。起動の妨げになるものを自律的に排除しているだけだ」
「黙れ!」
冷花が叫ぶ。
同時に彼女の周囲に集まった霊気が鋭い槍のように凝縮し、見えない壁へ撃ち込まれる。
衝撃。
火花に似た光の飛沫。
しかし結果は同じだった。壁はわずかに揺らいだだけで、破れない。
それどころか、反射するように光が逆流し、冷花の腕を弾く。
「くっ……!」
「冷花!」
志乃が支える。
冷花は悔しげに顔を歪めた。
「ただの結界じゃない……あれ、自分で形を変えてる」
「術式が生きているようなものだ」
白神教授が低く答える。
「相手の干渉の質を見て、最も効率的に弾いている。白塔全体が、一種の自律演算装置として働いているんだろう」
志乃は息を呑んだ。
まるで塔そのものが、自分の意思を持っているかのようだ。
いや、実際にそうなのかもしれない。
あの女性の声。白塔の奥にいる“何か”。そして、虚西を求め続けてきた意志。
そのすべてが、今この場でひとつにつながっている。
――来て。
――でも、急がないで。
不意に、また声が聞こえた。
志乃ははっとして顔を上げる。
耳ではなく、胸の内側へ直接落ちてくるような声音だった。
「……あなた?」
誰にも聞こえないほど小さく問い返す。
――無理に触れれば、彼も、あなたも壊れる。
「じゃあ、どうすればいいの……!」
思わず漏れた言葉に、冷花が怪訝そうに振り向く。
だが志乃は説明する余裕もなく、白塔の奥を見つめた。
答えはない。
あるのは、痛いほどの沈黙だけだった。
そのとき、虚西の身体が大きく震えた。
「がっ……!」
喉の奥から押し殺したような声が漏れる。
白い紋様が胸元まで達し、彼の足元の光輪が一段階大きく広がった。地下全体がそれに呼応するように鳴動する。
「コウ!」
志乃は再び駆け出しかけた。
今度は冷花が腕を掴んで止める。
「だめ!」
「でも――!」
「今行っても、助けられない!」
その言葉は、残酷なほど正しかった。
志乃自身、分かっている。
今飛び込んだところで、自分は弾かれるだけだ。あるいは虚西と同じように術式に取り込まれるだけかもしれない。
なのに、見ているしかない現実が、胸を掻きむしるほど苦しかった。
白神教授が前へ出る。
彼は懐から札のようなものを数枚取り出し、素早く術式を組み始めた。
「物理干渉では無理だ。構造に割り込む」
札が光り、幾何学的な陣が空中へ展開する。
教授は白塔の結界に対し、正面からではなく“術式の位相”を合わせるようにして接続を試みていた。
魔泉道の目が細くなる。
「ほう……そこまでできるか」
「古い術式だ。理屈さえ掴めば、綻びはある」
白神教授の額に汗が浮かぶ。
光の陣が見えない壁へ接触し、複数の文字列がぶつかり合うように明滅する。
一瞬だけ、壁の一部に裂け目が生まれた。
「今だ、吾妻!」
「分かっている!」
吾妻がその隙間へ踏み込み、刀を振り下ろす。
鋭い斬撃が結界の裂け目をさらに広げ――かけた、その瞬間だった。
地下全体に、鐘を打ち鳴らしたような重い音が響いた。
裂け目が閉じる。
それどころか結界の層がさらに厚くなり、白神教授の術式ごと押し返した。
「っ……!」
教授の身体がよろめく。
札は燃え尽きるように灰となって散った。
魔泉道が、わずかに嘲るように言う。
「惜しかったな。だが、もう遅い。白塔は起動の優先順位を最上位へ移した。外部干渉を許す段階ではない」
「外部干渉……だと」
白神教授は息を整えながら、苦々しく呟く。
「つまりコウだけは“内部”として認識されているのか」
「当然だ。彼は鍵なのだから」
その言葉に、志乃の中で何かが切れた。
「鍵、鍵って……!」
彼女は魔泉道へ振り向く。
怒りで、身体の震えが止まらない。
「コウは人だって言ってるでしょう! 何度も何度も、勝手に意味を押しつけて、使い方を決めて……そんなの、絶対に間違ってる!」
魔泉道は表情を変えない。
「間違いかどうかを決めるのは結果だ」
「違う!」
「では何だ。無価値のまま、何も成さず、誰にも使われずに終わることが正しいのか?」
その問いに、志乃は一瞬言葉を失った。
だが次の瞬間、胸の奥から別の感情が湧き上がる。
「使われるために生きてるんじゃない」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「誰かに意味を決められるためじゃない。コウが何者かは、コウが決めることです」
虚西が、その言葉に反応したように顔を上げた。
苦痛の中で揺れる瞳が、かすかに志乃を映す。
「……志乃」
それだけだった。
だがその呼び声は、まだ彼が完全には奪われていない証だった。
志乃は唇を噛みしめる。
届いている。まだ、完全に手遅れじゃない。
しかしその希望を嘲笑うように、白塔が再び脈打つ。
今度の鳴動は、これまでよりもはるかに大きかった。
天井の石片がぱらぱらと落ち、空気が震え、壁面の紋様が一斉に明滅する。
地下通路の奥から、半透明の光の壁が何枚もせり上がってきた。
出口だけではない。人の立てる位置、人の動ける範囲そのものを狭めるように、白塔は内部構造を変えていく。
「地形まで変えてるの……?」
冷花が息を呑む。
「拒絶してるんだ」
白神教授が答えた。
「起動の邪魔になる存在すべてを、“外側”へ押し出そうとしている」
「だったら、なおさら急がないと!」
志乃は再び身を乗り出した。
その刹那、床の紋様が足元で閃く。
見えない何かが足首へ巻きついた。
まるで床から伸びた手に掴まれたような感触だった。
「え――」
次の瞬間、志乃の身体はその場に縫い止められていた。
「っ、動け……ない……!」
足元だけではない。
薄い光の帯が膝、腰、腕へと這い上がり、拘束具のように身体を絡め取っていく。
「志乃!」
冷花が手を伸ばす。
だが冷花の腕もまた、別方向から伸びた光に弾かれた。
白神教授の声が鋭く飛ぶ。
「まずい、直接拘束だ! 白塔が志乃を認識した!」
「なんで……私を……!」
叫んだ瞬間、あの女の声がすぐ近くで囁いた。
――あなたは、彼のそばへ行こうとしたから。
志乃の目が見開かれる。
――でも、今はまだ駄目。
――今ここで壊れては、終わらせられない。
「何を……言って……」
意味が分からない。
助けたいのに。止めたいのに。どうして拒むのか。
その答えが得られる前に、虚西が苦しげに叫んだ。
「志乃に触るな!」
光が跳ねる。
彼の足元の光輪が激しく明滅し、地下全体の術式が一瞬だけ乱れた。
魔泉道が目を見開く。
「ほう……拘束下で干渉したか」
白神教授も驚きを隠せない。
「コウが白塔の術式へ逆方向に触れた……?」
志乃は拘束されたまま、必死に虚西を見た。
虚西は荒い息を吐きながら、こちらへ手を伸ばそうとしている。
その指先はわずかに震え、光に焼かれるように揺れていた。
「……ごめん」
彼はかすれた声で言った。
「俺……止められない」
その一言が、志乃の胸を深く刺した。
止められない。
コウ自身も、今の自分ではどうにもできないと分かっている。
それでも、志乃を守ろうとしてくれた。
「謝らないで……」
志乃は苦しげに首を振る。
「まだ終わってない。絶対、終わらせないから」
その言葉に応えるように、虚西の瞳がかすかに揺れた。
だが次の瞬間、白塔の奥で巨大な何かが回転を始める音が響く。
地下を満たす光が、ひときわ強く膨れ上がった。
白神教授が低く呟く。
「次の段階に入る……」
魔泉道は歓喜を押し隠そうともせず、両手を広げた。
「そうだ。拒絶しろ、白塔。起動のために不要なものをすべて排しろ」
俵屋は黙ったまま、その様子を見ている。
まるで今起きているすべてが、彼にとって想定の範囲内であるかのように。
志乃は拘束された身体のまま、ただ虚西を見つめた。
白塔は明らかに自分たちを拒絶している。
救おうとする手を、止めようとする意思を、何ひとつ受け入れない。
それでも。
その拒絶の奥に、かすかな矛盾があることを、志乃は感じ始めていた。
自分を拘束した白塔が、同時に「今はまだ駄目」と告げたこと。
虚西に触れようとするたびに弾かれるのに、彼の声だけは届くこと。
そして何より、あの女性の声は助けを求めているのに、白塔そのものは干渉を拒んでいること。
白塔の中には、複数の意志がある。
その確信が、志乃の胸に静かに落ちる。
地下空間はなおも脈打ち、光の束は虚西の身体へ流れ込み続けていた。
拒絶は終わっていない。
むしろ、これからが本番なのだと告げるように、塔の気配はますます強くなっていく。
そして志乃は、動けぬまま悟る。
今ここで無理に抗っても届かない。
けれど、この拒絶の構造を越えなければ、コウには辿り着けないのだと。
白塔は、まだ誰にもその中枢を許していなかった。




