白塔の願い
俵屋と魔泉道の詠唱が重なるたび、白塔の地下はわずかに脈打つように震えていた。
それは単なる振動ではない。
まるで建物そのものが呼吸を始めたような、生きた気配だった。
天井や壁面を走る古い紋様は淡く発光し、床下に埋め込まれた儀式装置は、幾重もの光輪を展開しながら不気味な駆動音を響かせている。
白、赤、青、黄、緑――混ざり合う光が地下空間を染め、そこに立つ者たちの影を歪めていた。
その中心で、虚西コウはじっと立ち尽くしていた。
身体の自由はある。拘束も解かれている。
それなのに、一歩も動けない。
いや、動けないのではない。
この場所そのものに、捕まっているのだ。
白塔の奥から流れ込んでくる何かが、彼の内側の深いところへ触れ、掴み、静かに引き寄せている。
懐かしいような、恐ろしいような感覚だった。
「……コウ」
すぐ傍で、冷花が小さく名を呼んだ。
その声に、虚西はわずかに目を向ける。
冷花の表情は普段よりも強張っていたが、その視線には迷いがなかった。
彼女は何が起ころうとしているのか完全には理解していない。だが、少なくとも虚西を一人にしないという意思だけは、はっきりと伝わってくる。
虚西は何か言おうとして、けれど言葉にできず、ただかすかに頷いた。
その少し離れた場所で、志乃は白塔の奥を見つめていた。
聞こえる。
あの声が、また。
最初は囁きのようだった。
風の音に紛れるほどかすかな、女の声。
だが今は違う。儀式装置が動き、塔全体が覚醒し始めたことで、その声は以前よりもずっと明瞭に志乃の耳へ届いていた。
――来て。
――ここまで来て。
――終わらせて。
志乃は息を呑んだ。
呼んでいる。
間違いなく、自分に向けて。
けれど、その意味が分からない。
救いを求めているのか。
それとも、何か別の“役目”を果たさせようとしているのか。
「どうした、志乃」
白神教授が気づいたように声をかける。
志乃ははっとして振り返った。
「……また聞こえるんです。あの女の人の声が」
「何と言っている」
少し迷ってから、志乃は答えた。
「来て、って。ここまで来てって……それに、終わらせてって」
その言葉に、白神教授の眉がわずかに動いた。
教授は儀式装置の光を見つめ、次に白塔の奥の闇へ目を向ける。
「やはりな……」
「白神先生、何か分かるんですか」
「確証はない。だが、あの声の主は、我々を排除しようとしているわけではないらしい」
白神教授は低く言った。
「むしろ逆だ。この場にいる誰か――いや、おそらくコウを、ここまで導こうとしている」
その言葉に、志乃は思わず虚西を見る。
虚西は装置の光の中で、ひどく静かだった。
抗っているようにも、受け入れているようにも見える。
その姿が、志乃には妙に遠く感じられた。
まるで、もうこちら側の人間ではなくなり始めているみたいで。
「そんなの、だめ……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
冷花がちらりと志乃を見る。
吾妻は刀を下げぬまま、周囲への警戒を続けている。
学連の戦闘員たちも息を詰め、誰も軽々しく動けずにいた。
この場には敵も味方もいる。
俵屋、魔泉道、白神教授、吾妻、虚西、志乃、冷花。
さらに虺竜文も、クリス・レイシアも、相模も、それぞれの距離で成り行きを見極めていた。
なのに奇妙だった。
争いの只中にあるはずなのに、今だけは全員が、何か“始まるもの”を待っている。
俵屋が古い言語の詠唱を続ける。
魔泉道もまた、白く濁った霊気を揺らしながら術式を維持していた。
その顔には、抑えきれない歓喜が浮かんでいる。
「美しい……やはり白塔は応える。虚西コウという鍵を得て、ついに本来の機能を取り戻しつつある」
「鍵……?」
志乃が反応すると、魔泉道は愉快そうに目を細めた。
「まだ分からぬか。虚西コウは単なる供物ではない。白塔にとって必要な“接続点”だ。白塔の奥に眠るものを目覚めさせるための、唯一の資格者なのだよ」
「ふざけないで」
志乃の声が鋭くなる。
「コウを物みたいに言わないで!」
一歩、前に出る。
だがその瞬間、床に刻まれた紋様が光り、見えない圧力が志乃の足を止めた。
空気そのものが重くのしかかってくるようだった。
吾妻が低く叫ぶ。
「下がれ、志乃! まだ踏み込むな!」
しかし志乃は止まらなかった。
止まれなかった。
あの声が、まだ聞こえる。
――お願い。
――もう、繰り返したくない。
その響きは、懇願だった。
命令ではなく、支配でもなく、ただ苦しみ切った者の祈りだった。
志乃の胸が強く締めつけられる。
何をどうすればいいのかは分からない。
けれど、このまま見ているだけではいけないことだけは分かった。
「コウ!」
志乃が呼ぶと、虚西の肩がわずかに揺れた。
ゆっくりと、彼がこちらを見る。
その瞳の奥に、白塔の光が映っていた。
いや、映っているだけではない。
同じ光が、内側から灯っているように見えた。
「志乃……」
かすれた声。
だが、その呼び方はまだ虚西コウのものだった。
志乃は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
まだ届く。まだ間に合うかもしれない。
「戻って。そっちに行っちゃだめ」
虚西は答えない。
ただ、白塔の奥へ引かれるように視線を戻した。
「俺にも……分からない」
彼はぽつりと呟く。
「でも、呼ばれてる。ずっと前から、ここに来いって」
その声には恐怖があった。
けれど同時に、抗いきれない引力も滲んでいた。
白神教授が静かに言う。
「志乃。無理に引き離そうとするな。今のコウは、白塔と半ば共鳴している」
「でも!」
「焦れば壊れる。コウも、白塔も、そしておそらく東都そのものもな」
東都――その言葉に、志乃は息を止めた。
白神教授は儀式装置の光輪を見上げたまま続ける。
「これは地下施設だけの現象ではない。すでに術式は白塔の外へ伸びている。もし私の推測が正しければ……魔泉道たちは、この塔を核にして東都全体を巻き込むつもりだ」
その場の空気が変わる。
吾妻の眼光が鋭さを増し、冷花も表情を強ばらせた。
魔泉道だけが満足そうに笑みを深くする。
「さすが白神教授だ。ここまで見抜くとは」
「やはりか」
「そうだとも。白塔は器にすぎぬ。真に価値があるのは、それを通して引き出される莫大な霊気力だ」
魔泉道は両腕を広げ、まるで舞台の上の演者のように高らかに告げた。
「東都こそが実験場。白塔こそが集積炉。そして虚西コウこそが、その起動鍵なのだ」
志乃は唇を噛みしめた。
女の願い。
コウの苦しみ。
魔泉道の計画。
そのどれもが一つの場所に重なっているのに、自分だけがまだ全体像を掴めない。
どうすればいい。
誰を信じ、何を選べばいい。
そのときだった。
白塔の奥から、これまでで最もはっきりと、女の声が響いた。
「――志乃」
名を呼ばれた。
志乃の全身が震える。
「あなたが、決めるのです」
次の瞬間、地下全体が大きく鳴動した。
壁面の紋様が一斉に輝き、装置の光輪がさらに拡大する。
そして遠く、地上のさらに先――
東都のどこかから応えるように、無数の霊気の脈動が立ち上がる気配がした。
白神教授が顔を上げる。
「始まるぞ……」
魔泉道の笑みが深くなる。
俵屋は無言のまま、目を細めた。
虚西は光の中で立ち尽くし、志乃はその姿を見つめることしかできなかった。
白塔が、目覚めようとしている。
それが救済の始まりなのか。
あるいは、取り返しのつかない破滅なのか。
まだ、誰にも分からなかった。




