脱出
吾妻と虺竜文の戦闘が、部屋全体を支配している最中だった。
虚西は、志乃の手を握ったまま、相模が開いた通路へ向かった。
部屋の奥に、古い鉄製のドアがある。通常は封鎖されているはずのそれが、開かれていた。
その先には、暗い通路が広がっていた。かつての地下水路。古い施設の名残だ。
虚西と志乃は、その通路へ駆け込んだ。
背後では、吾妻と虺竜文の戦闘音が、次第に遠ざかっていく。
虚西は、志乃を導きながら、迷路のような地下通路を進んでいた。その足取りは、確実だ。彼は、この施設の構造を知っているのかもしれない。
やがて、彼らは、地下水路に到達した。
古い暗渠。コンクリート製の壁が、苔に覆われている。その上には、月明かりが、わずかに差し込んでいた。
志乃の呼吸は、荒くなっていた。彼女は、ここまでの出来事を、まだ完全には理解していなかった。
虚西は、地下水路を伝い、月砂の支配領域を離れていく方向へ歩み始めた。
その足取りは、迷いがない。
「ここから、どこへ」
志乃が、初めて、そう問うた。
虚西は、答えなかった。ただ、歩み続けた。
地下水路は、次第に広くなり始めた。古い東都の下水施設。その先には、より古い層が広がっているのかもしれない。
やがて、彼らは、別の地下施設に到達した。
古い管理室。機械装置の残骸。そして、窓からは、月砂の支配領域の外の夜景が見える。
虚西は、そこで、初めて足を止めた。
その瞬間の沈黙が、長かった。
志乃は、虚西の横顔を見つめていた。
フードを脱いだ彼の素顔。その瞳は、やはり、どこか別の次元を見ているようだった。
「あなたの名前」
志乃が、静かに言った。
「本当の名前は」
虚西は、その問いに、ゆっくりと答えた。
「虚西コウ」
その名前が、部屋に落ちた時、空気が変わった。
それは、単なる名前ではない。何かの定義であり、何かの選択であり、何かの覚悟だ。
「虚西……」
志乃が、その名前を繰り返した。
「コウ」
虚西が、続けた。
「それだけだ。前の名前は、もう、ない」
その言葉には、何かの終わりが込められていた。
志乃は、その重さを感じ取った。
「どうして」
志乃が、問うた。
「どうして、あなたは、ここにいるんですか」
虚西は、答えなかった。
ただ、志乃の方へ、ゆっくりと振り返った。
その瞳の中に、何かが映っていた。
志乃自身が。
「君を守るため」
虚西が、静かに言った。
その言葉は、完全な返答ではない。だが、その中には、何かの真実がある。
志乃は、その返答を受けた時、自分の胸が、何かに満たされるのを感じた。
「あなたは、何ですか」
志乃が、再び問うた。
「虚西コウ。あなたは何なんですか」
虚西は、その問いに、答えなかった。
代わりに、彼は、志乃の手を、しっかりと握った。
その握力は、弱くなかった。むしろ、何かの決意を示していた。
「俺は、俺だ」
虚西が、最後に言った。
「それ以上でも、以下でもない」
志乃は、その言葉を受けた時、何かを理解した。
虚西コウ。
この青年は、何かの完全な存在ではない。だが、同時に、何かの不完全な存在でもない。
彼は、ただ、ここにいる。
その存在そのものが、何かの意味を持つ。
地下管理室の外では、月砂の支配領域が広がっていた。
だが、彼らはもう、そこにはいない。
古い地下施設の奥へ。より古い層へ。
白塔へ通じるルートへ。
虚西は、志乃の手を握ったまま、前へ進んでいった。
その足取りは、確実であり、同時に、何かの運命へ向かっているようでもあった。
名前。
虚西コウ。
その名前は、志乃の心に、深く刻まれた。
それは、何かの始まりであり、何かの終わりであり、そして、何かの選択なのだ。
地下水路の暗闇の中で、二人の影が、ゆっくりと消えていった。




