対峙
暗い部屋の中で、志乃は床に座ったまま、動けずにいた。
足音は聞こえない。だが、何かが近づいてくるのを感じた。それは空気の変化だ。霊気力の揺らぎ。かつて図書館で水島桃李の存在を感じたときと同じ——何かが、この場所を支配し始めている。
部屋のドアが、音を立てずに開いた。
そこに立っていたのは、パーカー姿の青年だった。虚西コウだ。
フードは被ったままだ。その表情は暗闇に隠れている。だが、志乃は彼の存在を感じた。かつて、何度も自分を見つめていた、あの視線。
「ここにいたか」
虚西が、静かに言った。
それは命令ではなく、確認のような響きだった。
志乃は立ち上がった。
「あなたは、一体?」
答える代わりに、虚西は部屋の中へ踏み込んだ。その動作は緩慢だ。足を引きずっている。月砂のアジトから脱出する過程で、既に何かと接触したのか。
「学連を出た」
虚西が呟くように言った。
「本部は、俺を何かにしようとしている。ジョーカーとか、四天王とか。そういう名前を付けて、支配しようとしている」
志乃は、その言葉を理解しようとした。だが、彼の口調には、怒りがない。ただ、淡々とした事実の陳述があるだけだ。
「だから、来た。お前を連れて、ここから」
虚西が手を差し出した。
その手に、かすかな白い光が浮かんでいた。
志乃は、その手を取ろうとした。
その時だ。
部屋の奥から、別の気配が現れた。
相模楸棲だ。
彼は、虚西の背後から、ゆっくりと現れた。その動作には、敵意がない。むしろ、何かの満足がある。
「来たか」
相模が言った。その声には、妙な親密さが込められていた。まるで、虚西の到来を、待っていたかのように。
虚西は、振り返らなかった。志乃のみを見つめたままだ。
「相模。お前は、この娘を」
虚西が言った。
「保護しているだけさ。だけど、それだけでもない」
相模が答えた。彼は部屋の中へ更に進み、かつての実験装置の輪郭に手を置いた。古い金属。錆びたネジ。その上には、かすかに、霊気力の痕跡が残っている。
「この娘は、君と同じ側にいるべき人だ」
相模が続けた。
「あるいは、君の対になるべき。その判断は、これからの戦いの中で決まる」
虚西が、初めて相模を見た。
その瞬間、二人の間に、何かの共通認識が流れた。言葉を超えた何か。過去の何か。あるいは約束か。志乃には、その内容が理解できなかった。ただ、その沈黙の中に、膨大な意味があることだけは感じた。
「俺は、こいつを連れて帰る」
虚西が言った。
「お前には、関係ない」
「そうか」
相模が、微かに笑った。
その笑みは、虚西の言葉を聞いて、何かを確認したかのようだった。
「じゃあやるしかないね」
相模が呟いた。
同時に、虚西の霊気力が、部屋の中で、かすかな光を放ち始めた。それは赤くもなく、青くもない。白に近い、淡い光。制御されていない霊気力。
志乃の体も、それに応じて、かすかに反応した。本で読んだ最後のページが、脳裏に蘇る。
『零は選ばれるのではなく、集約される』
「君はどうする?」
相模が、志乃に問うた。
「彼に従うのか。それとも、別の道を選ぶのか」
志乃は、その問いに、まだ答えられなかった。
ただ、彼女の中で、何かが共鳴し始めていた。
虚西の白い光と、自分の中にある何かが、同じ周波数を持ち始めている。
部屋の床に埋め込まれた金属プレート。零という文字が、その共鳴に応じて、より明るく輝き始めた。
相模は、その光を見つめながら、口角をわずかに上げた。
何かを確認したかのように。
「良いね」
相模が呟いた。
「じゃあ始めようか」
その時、部屋の外から、突然の轟音が響き渡った。
複数の爆発。金属が壊れる音。
アジト全体が、揺れた。
相模の表情は、変わらなかった。まるで、この爆発さえも、何かの計画の一部であるかのように。
「今度は別の誰かがアジトを襲撃したみたいだね」
相模が静かに言った。
「紅叉だ。虺竜文が動いている」
虚西は、志乃の手を握ったままだった。
だが、その握力は、弱くなり始めていた。
「逃げられない」
虚西が呟いた。
「全て、一点へ集約されている。俺も、お前も。そしてこいつも」
志乃は、その言葉の意味を、まだ理解していなかった。
だが、彼女は感じていた。
今、複数の勢力が、この場所へ向かって来ていることを。
暗い部屋の中で、零という文字が、静かに輝き続けている。
その光の中心に、三人が立っていた。
虚西、相模、そして志乃。
全ての勢力が、一点へ寄り始めたのだ。




