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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第6節 四天王の座

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本を読む夜

月砂のアジトはとても静かだった。


綾崎志乃が与えられた部屋の壁は、古いひびを隠すように薄布が掛けられ、その下から湿気の染みが透けていた。寝台、机、洗面台、水差し。必要なものは揃っているのに、余分なものはひとつもない。けれど、その簡潔さのなかに、人がここに長く置かれても壊れないようにという配慮だけは感じられた。


机の上に置かれた『ロストテクノロジーは誰のためにあるのか』は、まだ開かれていない。


相模楸棲に渡されたあと、志乃は何度も手を伸ばし、何度も引っ込めていた。読むことと、読まないことの境目に、何か取り返しのつかないものがあるような気がしたからだ。


だが、もう数時間が経っていた。


壁の保守灯は夜間モードへ切り替わり、室内はほぼ暗闇に近い状態になっている。月砂のアジトは本来、光の出入りそのものが制限されている場所だ。昼も夜も区別は薄く、ここにいる人間たちは別の時間に生きているように見えた。


志乃は椅子の上でようやく、本へ手を伸ばした。


表紙は厚い革で、そのうえに金文字で書名だけが浮かんでいる。著者名はない。出版社も、出版年も記されていない。ただ一冊で存在し、さらに一冊だけが世界にあるのではないかと思わせるような造りだった。


ページを開く。


最初の一行で、志乃の背筋がぴんと張った。


《日本は二〇三五年十二月に陥落した。それは予測ではなく、記録である》


かたっぱしから読み進める。


内容は、表向きの予言というより、詳細なシナリオだった。二〇三五年の大地震と第三次世界恐慌。その直後の霊気力の大規模発現。それらはすべて過去のことであり、同時に、本の中では淡々と記述されている。


ページを進めると、二〇三九年以降のことが書かれている。アルカディアの行動。五大研究都市の設立。各都市の役割分担。そこまでは、東都で学ぶ歴史と重なっていた。


だが、その先からページの意味が変わり始める。


《五大研究都市は、見えるように設計された。ただし、その下に別の層が存在することを隠すために》


その一文を読んだとき、志乃は思わず本を閉じかけた。


けれど、目は文字を追い続けていた。


《白塔は慰霊施設ではない。古い東都の遺産であり、同時に霊気力の根源へ通ずる扉である。その扉は、意図的に開かないように設計された。開いた時、世界がもう一度揺れるだろう。その揺れを誰が、どのような形で起こすのか。それがこの物語の本質である》


志乃の指先が、ページをめくるたびに少しずつ震えていた。


本の中段あたりで、記述が急に変わる。


第一部は過去の記録だったのに対し、第二部は未来へ向けた問い掛けになっていた。


《もし、この文を読んでいるなら、あなたは選ばれた者である。選ばれたのではなく、自分で踏み込んだのかもしれない。けれど、その区別は意味を持たない。なぜなら、この物語はもう一度繰り返されるからだ》


一度繰り返される。


その言い方は、推測ではなく確信を持っていた。


《白塔で何が起きるのか。その答えは、この本の最後に書かれている。だが、読む前に知っておくべきことがある。東都の秩序とは、始まりから均衡を前提に作られたものだ。そこへ零が一つ加われば、全体が反転する。その反転を恐れる者は多い。それでも、反転は来る》


志乃は本を一度閉じた。


呼吸が、いつの間にか浅くなっていた。


室内の暗さの中で、彼女は考えていた。


この本は誰が書いたのか。どういう目的で、こんな内容を記したのか。そして、なぜそれが白塔の棚に隠されていたのか。


ノックが、静かに鳴った。


志乃は本を机の隅へ移動させ、扉を見た。


灰色の上着を着た女が入ってくる。月砂の中核メンバーの一人で、志乃の部屋の管理を担当しているらしい。表情は常に平坦で、動作には無駄がない。


「読んでいましたか」


その問いかけは、確認というより、状態の把握に近かった。


「少しだけ」


志乃は答える。


「内容は……」


「副長からは、全部読むまで何も聞かないようにとの指示です」


女は答えを遮った。


ただし、乱暴さはない。淡々とした事務的な対応だった。


「夜食を持ってきました」


女が置いていったのは、簡単なスープと塩漬けのパン、それに果物だった。拘束食というには丁寧な内容だ。だが、栄養管理と監視がセットになっているのはわかった。


「夜中に読み続けるなら、水も必要ですか」


志乃はうなずく。


「お願いします」


女は追加の水差しを置き、そのまま部屋を出ていく。


扉が閉まったあと、志乃は再び本を開いた。


第二部の先へ進む。


《失われた技術は、理由があって失われたのではない。隠されたのだ。隠した者たちは、その技術を使うことで何が起きるのかを知っていた。だからこそ、五大研究都市という秩序の中へ、その技術を埋め込んだ。地下に。古い層に。そして、白塔に》


志乃は、白塔の地下で見たあの白い空間を思い出した。


窓も扉もない、ただの無だった場所。けれど、その無が何かを待っているような感覚があった。


《零とは、その隠されたものを呼び起こす力である。あるいは、現象である。あるいは、人間である。定義を避けた理由は、零は複数の状態を同時に持つからだ。力として、現象として、そして時に一人の少年として。それら全てが重なるのが、この物語の本質である》


力として。現象として。人間として。


その三つの状態が、志乃の中で妙に結びついた。


屋上で聞いた「違う」という言葉。湾岸で弾丸が消えたあの瞬間。自分の手のひらにひらいた空白。それらは、何か一つの現象の異なる角度を見ているだけなのではないか。


ページをめくる速度が、自然と上がっていく。


《東都が何度も同じ物語を繰り返す理由は、その物語の中にしか、ある答えが隠されていないからだ。その答えへ到達できたとき、初めて秩序は反転する。あるいは、破壊される。あるいは、全く別の何かへ生まれ変わる。その選択肢は、この物語の登場人物たちの手に委ねられている》


登場人物。


その言い方が、志乃にはひどく現実的に聞こえた。つまり、自分たちがこの物語の"舞台"ではなく、"物語を動かす側"として組み込まれているということだ。


深夜の時刻は、本の中での記述と一致し始めていた。


《第三部 選択》


章立てが変わるタイミングで、志乃は一度立ち上がった。


スープはもう冷めていた。けれど、彼女は食べることなく、窓のない壁を見つめた。その向こうは、月砂のアジト。さらにその向こうは、湾岸から内陸へかけての地下水路。そして、東都の表層。


白塔。


虚西コウ。


学連。


紅叉。


全部が、この一冊の本の中では既に織り込まれている。


志乃は再び机へ戻り、本を開いた。


《選択とは、何かを選ぶことではない。選ばないことを選ぶことでもない。選択とは、自分がどの秩序に属するのかを宣言することである。その宣言のために、この物語は反復する。その反復の終わりが、白塔である》


ページの端には、小さな記号が幾つか刻まれていた。暗号か、あるいは何かの目印か。志乃には読み取れない記号だったが、誰かはそれを理解するのだろう。


本の最後のページが近づいている。


志乃の指先は、その先へ進むことを躊躇していた。


読み終わったら、相模が言った通り、「話がある」のだろう。


そして、その話が自分の人生の次のステップを決める。


志乃は、最後のページへ目を落とした。


そこに書かれていたのは、ただ一行だけだった。


《綾崎志乃よ。お前は何を選ぶのか》


名前だ。


自分の名前が、この本の最後に書かれていた。


つまり、この本は最初から自分に向けて書かれていたのだ。


志乃の背中に、淡い冷たさが走った。


同時に、扉が静かに開く音がした。


相模楸棲が立っていた。彼の顔には、志乃の反応を既に知っていたかのような表情が浮かんでいた。


「読み終わったようだね」


その声は、淡々としていた。


「では、話をしよう」

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