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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第5節 学連本部 ーー国際テロ組織・TEBESーー

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相模楸棲

扉が開く前に、志乃は自分がどういう顔をしているのか意識した。


恐怖。けれど、それだけではない。警戒、困惑、そして奇妙な期待のようなものまでが混在している。なぜなら、この人物の登場だけが、いままで曖昧だった月砂という存在へ輪郭を与えるからだった。


扉が無音で開く。


中へ入ってきたのは、思っていたより若い男だった。ニ十代の前半か中盤か、判断が難しい顔つきだ。黒い装束を着ているのに、その上から灰色の羽織を自然に羽織っている。色合いと素材から察すると、月砂らしい"境界"を体現した服装なのだろう。最も印象的なのは、その目だった。冷たいのに深く、観察のために存在しているような目。だが完全に感情がないわけではない。その奥に、別の何かを計る静けさがある。


「綾崎志乃」


男は名を呼んだ。


声は低くはない。ただ、空気をいかに通すかをよく知っている話し方だった。響きすぎず、消えすぎず。室内の硬さを引き出し、同時に柔らげる。


相模楸棲さがみしゅうせい。月砂の副長です」


月砂の副長。


網走に言われた言葉が、ようやく人間の形を持つ。


相模は椅子をすこし引き、そこに腰を下ろさず、背もたれへ手をかけたまま志乃を見た。壊すつもりもなく、敬うつもりもない。測っているだけの目だった。


「怖いですか」


問いかけは唐突だった。


「……はい」


志乃は嘘をつかなかった。


「当然ですね」


相模は小さくうなずく。


「あなたは学連に保護される側として、この一週間近くを過ごした。その過程で、東都の闇いくつかを見た。紅叉、月砂、学連、そしてもう一人、ずっとあなたを見ていた青年も」


それは事実を並べるだけだった。


相模は机の上の水差しへ視線を落とす。


「だが、あなたはまだ正体を知らない」


「正体って……」


「あなたが何であるのか」


相模が顔を上げた。


その目が、初めてはっきり志乃へ焦点を結ぶ。


「紅叉は兵器として見ています。学連は保護対象として見ている。私たちは……」


そこで言葉を区切られた。


「何として見ているんですか」


志乃が聞く。


「まだ決まっていない」


相模の答えは、残酷なほど正直だった。


「けれど、それがあなたにとってはいいニュースなのです」


相模は机へ近づき、志乃と正面を向いた。


「あなたはまだ、どちらのものにもなっていない」


その言い方に、志乃の背筋が冷える。


「どちらのものにも。あるいは誰のものにもならずに済む可能性がまだある。それは珍しいことです」


相模は椅子を引き、ゆっくり座った。


「東都に来る者は、何らかの理由で二者択一を迫られる。紅叉に狙われるか、学連に守られるか。月砂に拾われるか。だが、あなたは今、三者の眼差しの中心にいながら、どちらの従属物にもなっていない」


「……なぜですか」


志乃が聞く。


「あなたが、まだ零にたどり着いていないから」


その一言で、室内の空気が何かに切り替わった。


「零」


志乃が繰り返す。


相模は頷く。


「本で読んだ名前ですね。図書館で見た警告。湾岸で感じた現象。屋上で聞いた二語『違う』。全部が零へ通じている」


相模は立ち上がり、部屋の角へ歩いた。


そこには、整理棚があり、その一段に古い書籍が何冊か置かれている。相模はそのうちの一冊を取り、表紙を見もせずに続ける。


「失われた技術は、理由があって失われたのです。その理由を呼び起こすのが零という現象。あるいは、零という名の力。あるいは――」


相模は振り返った。


「零という役割を担う誰かかもしれない」


志乃の喉が詰まる。


「あの青年が、それなんですか」


「可能性は高いです」


相模は返答した。


「ですが、確定ではない。だからこそ、価値がある」


机へ本を置く。古い装丁だった。だが、志乃は見覚えがあった。白塔の奥の棚から出てきたあのサイズと、紙の手触りが、ほぼ重なる。


「これを読んだことがあるか」


「いいえ。けれど、似たような本は」


「『ロストテクノロジーは誰のためにあるのか』」


相模が口にした瞬間、志乃の背中が冷えた。


「その本の中身はどこまで知っていますか」


「東都が落ちる。零が現れる。くらいです」


「では、最後の部分は見ていない」


相模は本を開かず、ただ机の上に置いたままにしておく。


「その本には、続きがあります。零が現れたあとの東都。落ちた後の再構築。そして、五研究都市の秘密をも包含する別の物語が」


志乃は息を止める。


本の内容だけで不十分だと、白塔で呼んだ声も言っていたような気がする。


「TEBESは、その後の物語を起こすつもりです」


相模が言う。


「一か月後。白塔で。湾岸で。中央集積区画で」


同じ赤い印だ。TEBESが映像で示した三つの場所。


「予告だと思いますか」


相模が問う。


「いいえ」


志乃は意外なほど冷静に答えていた。


「もう始まっていると思います」


「その通り」


相模は小さく笑った。


感情的ではない笑いだったが、志乃はそれが認可に近いものだと感じた。


「だからこそ、あなたはここにいるのです」


相模は再び机へ近づく。


「綾崎志乃。あなたが零へ至る鍵になるかもしれないという可能性。その可能性を、学連も月砂も紅叉も、そして何より零そのものまで、皆が測ろうとしている」


「……私が」


志乃が言いかける。


「あなたが、です」


相模の目が、真正面から志乃を見つめた。


「名前のない青年は、あなたを『違う』と評価しました。その違う者が、どういう役割を持つのか。それを知るために、この街は動いているのです」


志乃の胸が、痛いほどに圧縮された気がした。


「あなたが望もうが望まなかろうが、あなたは誰かの駒ではなく、誰かの鍵ではなく、誰かの導き手になる可能性を持っている」


相模は机から離れ、再び椅子の背に手をかけた。


「学連の保護では、あなたはそれを知ることができない。知らないまま守られ続ければ、破裂するか、腐るか、どちらかです」


「……だから、ここへ」


「だから、ここへ」


相模が頷く。


「あなたが知るべきことを、知るために」


志乃は本へ視線を落とした。


開かれていない『ロストテクノロジーは誰のためにあるのか』が、机の上でいくつもの意味を持って静かに待っている。


「……読めばいいんですか」


志乃が聞く。


「読めば」


相模が答える。


「あなたが何を選ぶのか、少しだけ輪郭を持つようになるでしょう」


そして最後に、相模は部屋を出る直前に言った。


「零へ至る道は、誰かに選ばされるものではない。自分で踏み出すものです。あなたがそうする気があるなら」


扉が閉まる。


志乃は一人、机の上の本を前にした。


暗い地下の水門跡地で、一冊の本だけが、その後の全てを左右する鍵になっていた。


志乃は、ゆっくり手を伸ばした。

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