月砂の領分
揺れの質が変わったことで、綾崎志乃は自分がまだ走る車内にいるのだと知った。
さっきまでの規則的な振動が、いつの間にかもっと重く鈍いものに変わっている。舗装された幹線ではない。古い継ぎ目の多い路面か、補修を繰り返した地下搬送路の上を進んでいるような感触だった。目を開けると、天井の低い暗い空間がゆっくり揺れている。金属と湿気の匂い。遠くで水のぶつかる音。東都研究都市の表層ではなく、その下に残された古い層の匂いだった。
「もう着きます」
仕切りの向こうから、静かな声がした。
紅叉の男たちのような荒さはない。威圧もしない。だが、そのぶんだけ逃がさない意志がよくわかる声だった。
志乃は拘束具の感触を確かめる。手首に巻かれた柔らかな帯は痛みを与えない代わりに、霊気力の流れを鈍らせていた。胸の奥にあるはずの冷たい空白へ意識を向けても、水面の下へ沈められたみたいに遠い。
「ここ、どこですか」
絞り出すように志乃が聞く。
「まだ東都です」
返ってきたのは、それだけだった。
嘘ではないのだろう。
けれど答えにもなっていない。
車両が緩やかに減速し、やがて止まる。外部ハッチが開く低い音がして、冷たい空気が流れ込んできた。潮そのものではなく、潮が長い時間、金属とコンクリートに染み込んだあとに残る匂い。東都の湾岸と地中のあいだにしか存在しない種類の空気だった。
「立てますか」
同じ声が、今度は少し近くで言う。
志乃は何も答えず、先に差し出された手を見た。黒手袋。無駄のない所作。乱暴につかむ気はないらしいが、拒めば別のやり方で動かされるのだとわかる。
志乃は自力で身を起こした。足元は少しふらついたが、歩けないほどではない。車外へ降りると、視界の先には長いコンクリート通路がのびていた。天井は低く、壁面には旧式の保守灯が等間隔に埋め込まれている。新しい光ではない。白にも黄にも寄らない、月光を無理に室内へ引き延ばしたような薄い色だった。
ここがどこなのか、地図の上ではまだ思い当たらない。
だが感覚だけは訴えていた。
境目だ、と。
海と陸の境目。古い東都と再建後の東都の境目。人目に触れる都市機能と、その裏側のあいだにある場所。
床の端には、細かい灰色の砂が寄せられていた。工事用の残土ではない。誰かがわざと掃き集め、通路の縁へ帯のように残している。足音を吸い、湿気を取り、霊気の散り方まで変えているのだと志乃にはなんとなくわかった。
「……月砂」
気づけば、その名が口から零れていた。
前を歩いていた黒衣のひとりが、ほんのわずかにだけ振り返る。
「その名を知っているんですね」
それもまた、肯定に近い返答だった。
紅叉は力を武器として奪う。
学連は保護の名で管理する。
そして月砂は、人ごと抱え込んで囲う。
学連で聞いた断片が、今ようやく実感を持ち始める。
通路の先には、古い水門施設を改修したような空間が広がっていた。柱の太い支え、半ば封鎖された水路、旧時代の物流番号が消えきらずに残る壁。だがそこへ後から増設された生活設備が不思議な秩序で並んでいる。寝具、医療棚、簡易の調理設備、古い書棚、衣類を干すための細いワイヤー。隠れ家というより、外からこぼれ落ちた人間を拾って積み重ねた場所だった。
武装した見張りもいる。
けれど、見えるものがそれだけではない。
奥の一室では、年若い少女が包帯を巻いた腕で眠っていた。その傍らで別の女が静かに本を読んでいる。さらに向こうでは、眼帯をした男が機械部品を分解していた。誰も大声を出さない。誰も志乃を面白がって見ない。関心はある。警戒もある。だが、それは獲物を眺める目ではなかった。
志乃は、その静けさがかえって怖いと思った。
暴力で押さえつける場所なら、まだ理解できる。
ここは違う。
最初から長く置く前提で、人を中へ入れる作りになっている。
「あなたを傷つけるつもりはありません」
付き添っていた男のひとりが、低く言った。
「少なくとも、ここでは」
最後の一言だけが、妙に正直だった。
「じゃあ、どうするつもりなんですか」
志乃が問う。
「それは私たちが決めることではありません」
男は答える。
「話をする方がいます」
その言い方に、志乃はわずかに息を止めた。
自分をここへ連れてきた実行役と、判断を下す者は別にいる。
つまり、ここは拠点であると同時に、誰かの領分なのだ。
案内された部屋は、学連本部の保護室よりも少し広かった。皮肉なことに、窓がないのは同じなのに、こちらのほうがまだ人の体温を感じる。小さな机、椅子、寝台、水差し。壁には古いひびを隠すように薄い布が掛けられ、その下から湿気の染みが透けていた。閉じ込めるための部屋であることに変わりはない。だが、何日か、何週間か、人を置いても壊れないように整えられている。
「拘束は外します」
女の声がした。
いつの間にか、後ろに別の人間が立っていた。黒衣ではなく、灰色の上着を着た年嵩の女だった。彼女は志乃の手首の帯を手早く外し、代わりに小さな包みを机へ置く。
「水と、必要なら薬があります。無理に飲ませたりはしません」
その配慮が、逆に現実味を帯びさせる。
紅叉ならこんな真似はしない。
ここは力ある者を壊して使う場所ではなく、別の理屈で囲い込む場所だ。
「逃げたら」
志乃は自分でも意外なほど平坦な声で聞いた。
灰色の上着の女は、少しだけ志乃を見てから答えた。
「境界を知らずにここから出るほうが危険です」
その答えは脅しというより、経験から出たもののように聞こえた。
境界。
月砂らしい言葉だと、志乃はぼんやり思う。
女が部屋を出ていき、扉が閉まる。鍵の音は小さい。だが、扉の向こうに人の気配が残っているのはわかった。見張られている。なのに学連本部のときより、監視の圧が露骨ではない。見張ること自体を生活の延長へなじませてしまった空気が、この場所にはあった。
志乃は椅子へ腰を下ろし、ようやく息を吐いた。
水差しの水面が、かすかに揺れている。
上を走る列車の振動ではない。もっと近い、重く静かな足音が、どこかの通路をこちらへ向かって来ていた。
一定の速度。
急がず、止まらず、迷わない。
やがて扉の向こうで、人の声がひとつだけ低くささやく。
「副長」
その一語で、志乃の背筋がまっすぐ強張った。
次に来る相手は、ただの見張りでも、実行役でもない。
この場所の理屈を持っている人間だと、足音だけでわかった。




