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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第5節 学連本部 ーー国際テロ組織・TEBESーー

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連れ去られる夜

「今夜は部屋を移ります」


平間飛鳥にそう告げられたあと、綾崎志乃は何も言わずにうなずいた。


本部内で部屋を固定しない。


それが保護のためだという理屈はわかる。けれど、移されるたびに自分の居場所が薄くなっていく感覚は、守られているというより、少しずつ輪郭を奪われていく感じに近かった。


通路には飛鳥と女性隊員が一人。先導と後方警戒の形で、志乃を真ん中に挟んで歩く。北棟上層の保護区画は静かだった。静かすぎて、靴音だけが妙に硬く響く。さっきの一瞬の空白が過ぎてから、空気のつながり方がどこかおかしいままだった。


「急ぎます」


飛鳥が短く言う。


その声に焦りはない。だが、平静を保とうとしているぶんだけ緊張が伝わった。


曲がり角を二つ抜け、臨時の保護室へ向かう連絡廊下へ入る。そこは通常使われる導線ではなく、内部警戒時にだけ開く予備ルートらしかった。照明は一段暗く、壁の色もほかの区画より青みがかっている。古い増設部なのか、空調の匂いも少し違った。


志乃はそこで、かすかな違和感に気づく。


潮の匂いだった。


海そのものではない。濡れた金属と夜気が混じったような、湾岸を思わせる匂い。こんな高層の内側で漂うには、あまりにも場違いだった。


「……飛鳥さん」


志乃が呼びかける。


飛鳥が半身だけ振り返った、その瞬間だった。


通路の照明が、落ちるのではなく、薄くなる。


音も同じだった。消えたのではない。遠くなった。空調も足音も、女性隊員の呼吸さえ、透明な膜の向こうへ追いやられたみたいに遠のく。


また、空白だと志乃はわかった。


「止まってください!」


飛鳥の声がする。


けれど、その声はすぐ近くからではなく、通路のどこか別の場所から届いたように聞こえた。


目の前の壁面に、細い継ぎ目があった。


さっきまではなかったはずの、保守扉の線だった。


その継ぎ目が、音もなくひらく。


黒い隙間の奥から、手が伸びてきた。黒手袋をした細い手だった。乱暴ではない。だがためらいもない動きで、志乃の手首をつかむ。


「っ――」


声を上げようとした瞬間、もう片方の手が口元を覆った。


布ではなかった。冷たい霊気の膜のようなものだった。息はできる。だが声だけが外へ抜けない。叫びを零へ近づけられているような、嫌な静けさだった。


志乃は反射的に振りほどこうとする。けれど足元にも、薄い霊気の輪が這っていた。拘束というほど強くはない。だが、踏み込むための力だけを奪う、厄介な抑え方だった。


紅叉のような露骨な暴力ではない。


もっと静かで、もっと慣れている。


その認識が胸を冷やした。


「綾崎さん!」


今度こそ近くで、飛鳥の声がした。


膜の向こうで彼女の姿が揺れる。通路の距離が不自然に伸びている。女性隊員も飛鳥も、わずか数歩先にいるはずなのに、その数歩がつながらない。空間の境目そのものをずらされたのだと、志乃にも直感でわかった。


黒い隙間の奥へ、体が引かれる。


そのとき、耳元で低い声がした。


「騒がないで」


男とも女ともつかない、ひどく落ち着いた声だった。


次いで、首筋へ冷たい痛みが走る。針のような細さだったが、薬液ではなく、霊気力を沈めるための刺し方だと体が先に理解する。指先から力が抜け、視界の輪郭がゆるむ。


志乃は最後の力で前を見た。


通路の向こうで、飛鳥が刀でも抜くみたいな速さで端末を投げ捨て、こちらへ踏み込んでくる。だが、彼女の足元でまた一瞬だけ空白が弾けた。たったそれだけで、距離が元に戻るより先に志乃の体は扉の向こうへ引き込まれる。


保守扉が閉じる寸前、飛鳥の声だけが鋭く届いた。


「封鎖しろ!」


直後、視界が暗転した。


一方そのころ、別室では名前のない青年が唐突に顔を上げていた。


壁にもたれた姿勢のまま、彼の目だけが鋭く細まる。さっきから本部内を流れている“知っているふりをした音”が、今はっきり一点へ寄ったのだ。


「……動いた」


青年が低く呟く。


室外の隊員が反応するより早く、隣接区画で警報が鳴った。赤い侵入警報ではない。設備障害を示す黄色の点滅。中央管理回廊で霊気力干渉、という自動音声が続く。


ほんの半秒、青年は迷った。


綾崎志乃のほうだと、たぶん最初に気づいたのに。


だが次の瞬間には、保護室前の隔壁が非常遮断で閉じる。外からではなく、内側の安全確保として下りる扉だった。


「開けろ」


青年が立ち上がる。


止めに入った隊員が何か言う前に、壁向こうで別の衝撃音が鳴る。囮だ、と青年は思った。思ったが、遅かった。


中央制御ホールでも異変は同時に起きていた。鷹取シズクの拾った“知らない音”が、今度は二つに割れていた。ひとつは保護区画。もうひとつは中央管理回廊。どちらも本物に聞こえる。吾妻と網走が後者へ向かった一瞬のずれで、前者の薄い綻びが深くなる。


「違う、分けられてる!」


シズクが叫んだ時には、もう遅かった。


飛鳥の通信が制御卓へ飛び込む。


「綾崎が消えた!」


その一言で、本部の夜は完全に破られた。


志乃が次に意識を取り戻したとき、体は揺れていた。


車両だった。


床の振動が規則的に足裏へ伝わり、どこか遠くで金属が軋む。目を開けると、天井の低い暗い空間が見えた。搬送車より狭い。物流用の密閉コンテナか、地下輸送路を走る車両の中らしい。


手首には柔らかい拘束具が巻かれている。痛くはない。だが、霊気力の流れだけを鈍らせる細工がされていた。


目の前には、薄い仕切り越しに人影が二つ。


黒い外套。


無駄のない座り方。


どちらも紅叉のような荒い気配ではなかった。


「起きましたか」


ひとりが、静かな声で言った。


その口調に敵意はない。


だからこそ、かえって怖かった。


志乃は答えず、乾いた喉で息を整える。


車両はどこか深いところを走っている。外の景色は見えない。だが、振動の合間に、遠くで水の音がした。地下水路か、旧物流路か、東都の表層から外れた場所へ向かっているのだとわかる。


「安心してください」


同じ声が続ける。


「殺すために連れてきたわけではありません」


その言い方は、慰めにならなかった。


志乃は薄暗い車内の向こうを見据えたまま、唇を引き結ぶ。


学連本部の外へ、出された。


誰が。


どうやって。


その答えはまだ見えない。


ただ一つだけ確かなのは、この夜はもう“保護”の側には戻っていないということだった。

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