名前のない青年
綾崎志乃との面談を終えたあと、吾妻はそのまま警戒付き保護室の区画へ向かった。
学連本部の上層は、夜になるほど静かだ。だが、その静けさは眠るためのものではない。認証扉の作動音、巡回の足音、抑えられた無線の声。何かが起これば、すぐに動けるように張りつめた静けさだった。
保護室の前には隊員が二人立っていた。どちらも背筋を崩していない。室内の観察窓の向こうには、フードを外した青年がベッドの端に腰かけていた。片腕には応急処置の包帯が巻かれている。拘束具はない。だが、その代わりに、部屋そのものが逃がさない形をしていた。
「中で暴れたか」
吾妻が低く問う。
隊員のひとりが首を横に振る。
「いえ。ただ、治療には非協力的でした」
「そうか」
吾妻は観察窓越しに青年を見る。
若い。志乃とそう離れてはいないだろう。だが、目の置き方が若くない。生き延びるために周囲を測り続けてきた人間の目だった。敵意がないわけではない。ただ、無闇にぶつける種類の敵意でもない。
「俺が話す」
吾妻はそう言って、隊員へ軽く顎を引いた。
「外で待機してくれ。何かあればすぐ入れ」
「了解」
扉が開き、吾妻は室内へ入った。
青年は顔を上げる。
その視線が吾妻の腰の刀へ一瞬だけ落ちて、それからすぐに戻る。動けるかどうかより先に、相手の手数を数える癖が抜けていないらしかった。
「入るぞ」
吾妻はあえてそう言ってから扉を閉めた。
確認でも許可取りでもない。だが、無言で距離を詰める気はないという意思表示だった。
「勝手に入ってる」
青年が低く言う。
その返しに、吾妻はほんの少しだけ口元をゆるめた。
「たしかに」
室内の小机には水の入った紙コップが置かれていた。吾妻はそれを青年の手元へ少し寄せる。
「飲めるなら飲め」
「いらない」
「そうか」
そこで無理に勧めないのが、吾妻のやり方だった。
椅子を引き、正面ではなく少し斜めの位置へ座る。真正面から圧をかければ、黙る類の相手だと見ていた。
「改めて名乗る。学連総隊長、吾妻だ」
青年は何も言わない。
吾妻は続ける。
「お前の名前は」
「ない」
即答だった。
吾妻は眉ひとつ動かさない。
「なくしたのか、名乗る気がないのか」
「どっちでもいい」
ぶっきらぼうな答えだった。
だが、投げやりとは少し違う。ただ本当に、その質問へ価値を置いていない声だった。
「じゃあ、今は名前のない青年と呼ぶしかないな」
吾妻がそう言うと、青年はわずかに視線を逸らした。
否定もしない。
それだけで十分だった。
「まず確認する」
吾妻は肘をつかず、背筋を保ったまま言う。
「今夜、紅叉から綾崎志乃を引き離した。あれは事実だな」
「助けたわけじゃない」
青年の声は低い。
「見に来ただけだ」
「結果として助けた」
吾妻が返す。
青年は沈黙した。
その沈黙を肯定と取ることにして、吾妻は次へ進んだ。
「前から綾崎を見ていたな」
「……見てた」
「なぜだ」
そこで初めて、青年の空気が少しだけ変わった。
警戒というより、面倒な核心へ触れられたときの変化だった。
「探してたからだ」
「何を」
「零を」
その一言で、室内の温度がわずかに落ちた気がした。
吾妻は表情を変えない。
だが、視線だけは鋭くなる。
「零は人の名前か」
「名前でもある」
「現象でもある、か」
青年は返事をしない。
その無言が、かえって答えに近かった。
「綾崎に向けて『違う』と言ったそうだな」
吾妻が続けると、青年の目が少し細くなった。
「聞いてるのか」
「報告は上がる」
吾妻は短く言う。
「何と違った」
数秒の沈黙。
青年は包帯の巻かれた腕を見下ろし、それから低く答えた。
「俺が探してた零とは違う」
「だが、似ている」
「……近いだけだ」
その言い方は、切り捨てるものではなかった。
吾妻はそこを逃さない。
「綾崎を軽く見ているわけではないな」
「軽いなら見ない」
青年は即座に返した。
その返答の速さに、吾妻はこの青年が志乃のことを“候補”や“道具”としてだけ見ていないと察する。測ってはいる。だが雑には扱っていない。
「紅叉か月砂か、あるいは別の組織か」
吾妻が問いを変える。
「お前はどこに属してる」
「どこにも」
「学連を敵と決めてもいない」
「味方とも決めてない」
そこははっきりしていた。
吾妻はわずかにうなずく。
「公平だな」
「そっちもだろ」
その言葉に、吾妻は少しだけ笑った。
青年の観察眼は鈍っていない。今の学連が、自分を敵性未確定として扱っていることも、綾崎志乃を保護対象でありながら拘束に近い形で囲っていることも、全部見えているのだろう。
「お前の戦い方」
吾妻はそこで、少し前へ身を乗り出した。
「あれは霊気力を打ち消しているわけじゃないな」
青年のまぶたがわずかに動く。
「消すんじゃない」
「なら」
「零に近づけてるだけだ」
静かな声だった。
だが、その内容は軽くない。
吾妻の手が、無意識に腰の刀の近くで止まる。抜くためではない。ただ、その言葉の重さを身体が先に受け止めた反応だった。
「随分と厄介なことを、簡単に言う」
「簡単じゃない」
青年はそこで初めて、少しだけ苛立ちを見せた。
「できるからやってるだけだ」
その物言いには、自慢も誇りもない。ただ、生きるためにそうなった人間の乾いた諦めだけがある。
「白塔を知っているか」
吾妻が問う。
青年はすぐには答えなかった。
代わりに、部屋の白い壁を見たまま、低く言う。
「東都にある限り、知らないわけがない」
「それは質問への答えじゃない」
「お前もそういう聞き方、好きだろ」
吾妻はまた少しだけ笑う。
やりにくい相手だ。だが嫌いではなかった。力に酔わず、恐怖で喋らず、嘘をつくくらいなら黙る。その手の相手は、言葉を剥がせば芯が出る。
「じゃあ聞き方を変える」
吾妻は姿勢を戻した。
「なぜ東都に来た」
今度の沈黙は、さっきより長かった。
青年は視線を落とし、しばらく何かを測るみたいに呼吸を整える。そして、ようやく言った。
「遅かっただけだ」
「何に対して」
「流れに」
吾妻の眉がわずかに動く。
その言葉の選び方が、誰かを思い出させた。情報を並べて未来を読む手合いの言い回しに近い。だが目の前の青年は、机上で読む側ではなく、流れの中を歩いてきた人間の顔をしていた。
「東都は一か月以内に騒がしくなる」
青年は、まるで天気の話でもするように言った。
吾妻の表情がそこで初めて明確に変わる。
「……根拠は」
「予感じゃない」
青年が顔を上げる。
その目には、脅しを楽しむ色が一切なかった。
「来る。でかいのが」
「何が来る」
「お前らがまだ名前を掴みきれてないやつらだ」
吾妻は数秒、何も言わなかった。
この青年は大言壮語をするタイプではない。知っていることしか言わないし、言う必要がないことは黙る。だからこそ、その警告は妙に重かった。
「一か月、か」
吾妻は低く繰り返す。
青年はそれ以上を付け足さない。
沈黙の中で、部屋の外を誰かの足音が通り過ぎる。学連本部の夜は変わらず静かなのに、その静けさの底へ、今の言葉だけが沈んでいく。
「……お前」
吾妻が立ち上がる。
「喋る気はないくせに、重要なことだけは置いていくな」
「必要だからだ」
青年の声は低いままだった。
「綾崎を外に出すな」
吾妻は扉の前で足を止める。
「それは学連が決める」
「決めるのは勝手だ」
青年はベッドの端で、少しだけ肩を落とした。
「でも遅れるな」
吾妻は振り返らなかった。
ただ、その一言を軽く聞き流すことだけはしなかった。
扉を開けたとき、外で待っていた隊員がすぐに姿勢を正す。吾妻は短く頷き、そのまま通路を歩き出した。
表情はもう平静へ戻っていた。
だが内側では、先ほどの一言がまだ重く残っている。
東都は一か月以内に騒がしくなる。
脅しとしては静かすぎる。
予告としては、あまりにも確信に満ちていた。




