総隊長・吾妻
個室へ通されてから、どれくらい時間が経ったのか、志乃にはよくわからなかった。
学連本部の夜は静かだったが、眠れる静けさではない。廊下の向こうを靴音が一定の間隔で行き来し、壁のどこかで空調が低く唸り、時折、認証扉の解錠音が短く鳴る。誰かが常に動いている気配だけが、部屋の外に薄く張りついていた。
机の上には、水と簡単な栄養バー、それに貸与端末が置かれている。丁寧に整えられているのに、その整い方がかえって仮置きのようで、ここが生活のための部屋ではなく、あくまで“保護対象を一時収容するための部屋”なのだと感じさせた。
やがて、控えめな電子音が鳴った。
「綾崎さん、起きていますか」
扉越しに、女性隊員の声がする。
志乃はすぐに立ち上がった。眠ってはいなかった。横になっても、紅叉の赤い霊気と、あの青年の空白の気配ばかりが何度も思い返されていたからだ。
「はい」
「総隊長がお会いになります」
その一言で、志乃の背筋が自然に伸びた。
総隊長。
平間飛鳥が言っていたわけではない。だが、その肩書だけで、この本部の中でも一段重い相手なのだとわかる。
案内された先は、保護区画より少し上の階にある小会議室だった。扉は分厚く、内側の防音も強いらしい。けれど室内は殺風景ではなく、長机と簡素な椅子のほかに、壁際には古い地図や東都の区画図が並び、端には刀架まで置かれていた。学連本部の会議室というより、現場と司令室のあいだみたいな空間だった。
そこに立っていた男を見て、志乃は少しだけ意外に思った。
若い。
二十八歳だと聞けば納得できるが、総隊長という肩書から想像していたよりずっと若い顔だった。だが立ち姿には迷いがない。濃紺の制服はきちんと着込まれており、その袖下には薄く籠手の輪郭が見える。腰には一振りの刀。鞘の黒に沈んだ金具だけが、部屋の光をわずかに返していた。
「来てくれてありがとう」
男はそう言って、先に一礼した。
志乃は一瞬遅れて頭を下げる。
「綾崎志乃です」
「学連総隊長の吾妻だ」
名乗り方は簡潔だったが、押しつけがましさはなかった。
志乃が席へ促されて座ると、吾妻は自分でも向かいの椅子を引いた。だが腰を下ろす直前で、机の隅に置かれていたマグカップの存在に気づき、少しだけ眉を上げる。
「……ああ、すまない。冷めてるな」
それは自分のために用意していたものらしい。
言うだけ言ってから、吾妻は新しい湯を入れようとして、ポットの電源が入っていないことに気づいたらしく、一瞬だけ沈黙した。
志乃は、そのほんの些細な間に、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。強い人間特有の張りつめた威圧だけでできている人ではないのだとわかったからだ。
「温かいもの、苦手じゃないか」
「大丈夫です」
「そうか。じゃあ、あとでちゃんとしたものを出させる」
吾妻は結局、冷めたカップを自分の手元から離し、そのまま本題に入った。
「まず、今夜の件で礼を言うのは変かもしれないが、一般人を庇おうとした判断自体は間違っていない」
志乃は顔を上げる。
責められると思っていた。
無茶をしたと、余計なことをしたと、そう言われるほうを覚悟していた。
「ただし」
吾妻の声が少しだけ低くなる。
「君はもう、自分一人の無茶で済む位置にはいない」
その一言は、平間飛鳥の説明よりもずっと真っすぐ胸へ入った。
「……普通の学生ではいられない、ってことですか」
思わずそう聞くと、吾妻は即答しなかった。
しばらく志乃の顔を見て、それから、言葉を選ぶように口を開く。
「少なくとも、普通の学生として放っておける段階ではない」
やわらかく言い換えているようで、内容はほとんど同じだった。
志乃は膝の上で指を組む。
その仕草を、吾妻は黙って見ていた。急かさない。追い込まない。だが目は逸らさない。その視線には、相手を脅して吐かせるつもりのない人間の強さがあった。
「飛鳥と網走から報告は受けている」
吾妻は東都の区画図へ視線を移した。
「湾岸、学区屋上、保守通路、そして今夜の襲撃。紅叉が動き、別の何者かがそれを見ていた。君の周囲で起きていることは、街の不良組織同士の小競り合いで説明できる範囲をもう超えている」
「……それって、どういう意味ですか」
「誰かが同じ一点を目指している」
吾妻の指先が、区画図の東都中央から湾岸へ、ゆっくりと線をなぞる。
「組織は違う。方法も違う。だが、狙っているものが重なっている」
志乃には、それが自分のことを指しているのだとすぐにわかった。
保護対象。
候補。
零のような力。
呼び方は違っても、みんな同じ場所へ手を伸ばしている。
「俺は、君を駒として扱うつもりはない」
吾妻がはっきり言った。
「だが、何も知らされないまま外へ返すこともできない」
志乃は、その言葉を静かに受け止めた。
きれいごとだけではない。けれど、利用する気満々の人間の目でもない。その中間に立って、責任だけを引き受けようとしている顔だった。
「白塔について、何か知っているか」
不意に問われて、志乃の喉が少し詰まる。
やはりそこへ来る。
水島桃李のことは伏せたままでも、白塔の存在自体を避け続けるのは難しい。
「……名前だけじゃない、くらいです」
「そうか」
吾妻はそこで追及しなかった。
代わりに、軽く息を吐く。
「今すぐ全部話せとは言わない。ただ、君が抱えている情報が君自身を危険にしているなら、その重さは理解しておいてほしい」
その言い方に、志乃は少し驚いた。
信用していないから問い詰める、ではない。
話さないなら、それごと守る難しさを伝えている。
「……学連は、あの人をどうするんですか」
気づけば、志乃はそう聞いていた。
あの人。
名前のない青年のことだと、吾妻はすぐに察したらしい。
「まずは話をする」
短く答える。
「敵と決めるには早い。味方と決めるには危うい」
それは志乃が感じた距離感と、まったく同じだった。
「零を知っているみたいでした」
「報告にもあった」
吾妻は立ち上がる。
椅子の脚が、床を短く鳴らした。
「だからこそ、今から俺が会う」
腰の刀がわずかに揺れる。土方歳三が愛用したとされる十一代和泉守兼定。その名を知らなくても、ただの象徴ではなく、実際に使うためにそこにある刀だと志乃にはわかった。
「綾崎」
吾妻は扉の前で一度だけ振り返った。
「君は怖がっていい」
志乃は息を止める。
「怖くないふりをする必要はない。そのうえで、見たことを見失うな」
それだけ言うと、吾妻は会議室を出ていった。
扉が閉まったあとも、その言葉だけがしばらく部屋の中に残っていた。
廊下の向こうでは、彼が今からあの青年の部屋へ向かうのだろう。
東都で起きていることを、ただの抗争ではないと見ている人間。
そして零を知っているかもしれない、名前のない青年。
二人の対話が始まれば、また何かがひとつ動き出す。
志乃は静かな会議室に一人残されながら、その予感をはっきりと抱いていた。




