学連本部へ
夜の回廊に、遅れて本物の静けさが戻ってきた。
紅叉の気配はもう遠い。警備ドローンの青い灯が床を往復し、半ば下ろされた防災シャッターの前で、学区警備課の端末音が短く鳴っている。つい数分前まで命のやり取りがあった場所とは思えないほど、東都研究都市のシステムは素早く平常へ戻ろうとしていた。
「……離せ」
フード付きの青年が低く言った。
網走連に腕を支えられたまま、わずかに身を引こうとする。だが、その動きにはもう戦闘の鋭さがなかった。さっきまで紅叉を圧倒していたのが嘘みたいに、足元が不安定だ。
「無理だ」
網走は即答した。
「今のお前に単独行動はさせない」
青年は答えない。
答えないまま、壁へ手をつきかけ、そこで呼吸を乱した。袖口からにじんだ血が、パーカーの濃い布へゆっくり広がっていく。新しい傷ではない。もっと前から無理を重ねていた人間の傷に見えた。
「網走さん、搬送車を」
平間飛鳥が通信用端末へ手をかざしながら言う。
「現場封鎖は警備課へ移管します。一般人の聞き取りは簡易記録だけ先に回します」
「頼む」
網走は短く返し、それから志乃を見た。
「綾崎、君も来い」
志乃は一瞬、意味が飲み込めなかった。
「……私も?」
「狙われたのは君だ」
網走の口調はぶっきらぼうだったが、そこに迷いはない。
「このまま通常の帰路へ戻すわけにはいかない。学連本部で保護する」
アリサがすぐに割って入る。
「ちょっと待ってください」
彼女の声は震えていたが、引いてはいなかった。
「志乃に何するつもりですか」
飛鳥が振り返る。
その目は冷たいわけではない。ただ、感情より先に順序がある顔だった。
「事情聴取と安全確保です」
「それ、信用しろって言われても困るんですけど」
アリサは食い下がる。
美世も志乃の横へ立った。
「少なくとも、どこへ連れていくのかは明確にしてください」
飛鳥はそれに小さくうなずく。
「東都学連本部です」
簡潔な返答だった。
「学区北棟上層、第三管理区画。非公開ではありますが、不当な拘束施設ではありません」
言葉の後半が少しだけ皮肉に聞こえたのは、アリサの不信を理解した上での返しだったのかもしれない。
「君たちは今日は帰宅して」
今度は網走が言った。
「ただし一人では帰るな。警備課の送導をつける」
アリサはなお反論したそうだった。
けれど、志乃が先に口を開いた。
「……行く」
二人の視線が一斉にこちらへ向く。
志乃は青年を見た。まだ名前も知らない相手。自分を見て、違うと言った相手。零を知っていると言った相手。
ここで離したら、もう次に会える保証はない。
「話、まだ聞けてないから」
アリサが何か言いかけ、そこで口をつぐむ。
美世は少しだけ目を伏せ、それから静かにうなずいた。
「連絡、ちゃんとして」
「うん」
志乃は答えた。
すぐあとで、端末が短く震える。画面を見ると、差出人表示のないメッセージが一通だけ届いていた。
《今夜は学連に従いなさい。海にも塔にも近づかないこと》
水島桃李だ、と志乃は直感した。
相変わらず名前は出さず、説明も少ない。それでも、いま必要なことだけは外さない文面だった。
「どうした」
網走が問う。
「……何でもないです」
志乃は端末を伏せた。
やがて、無灯火仕様の黒い搬送車が歩廊脇へ滑り込んできた。研究都市の一般交通には使われない型だ。車体は低く、窓には外からの視線を弾く薄い偏光処理が入っている。災害時や特殊案件にだけ動く、学連の移送車両なのだろう。
「乗って」
飛鳥が後部扉を開く。
先に青年が乗せられる。抵抗しようとする気配はあったが、立っているだけで精一杯らしい。網走が半ば支え込む形で座らせると、青年は舌打ちもせず、ただ窓の外を向いた。
志乃もその向かいへ腰を下ろす。
扉が閉まる直前、アリサが駆け寄った。
「志乃」
その一言に、志乃は顔を上げる。
「絶対、一人で抱えないで」
短い言葉だった。
けれど、夜のいろんな音の中で、それだけがはっきり胸へ残った。
「……うん」
扉が閉まる。
外の二人の姿が偏光ガラスの向こうに薄く歪み、搬送車は静かに動き出した。
車内は驚くほど無音だった。走行音も振動も最低限に抑えられ、外の街灯だけが流れていく。東都研究都市の夜景は整っている。高架歩廊、研究棟群、管理塔、物流レーン。三〇年代の日本で、崩壊後に再編された五研究都市の中枢として、この街は管理と機能を美しく並べ直してきた。
だが、志乃には今、その整然さが別の意味に見える。
逃がさないための都市。
異物を見つけるための街。
「……名前」
気づけば、志乃は向かいの青年へ言っていた。
青年は目を閉じたまま、すぐには返さない。
「あなたの名前、まだ聞いてない」
網走と飛鳥も黙っている。
答えるかどうかを、今は本人に任せるつもりらしい。
長い沈黙のあと、青年の唇がわずかに動く。
「……まだ、いい」
それだけだった。
志乃は少しだけ肩の力を抜く。拒絶というより、保留だと思った。今はそれで十分だった。
搬送車が北棟の上層連絡路へ入るころ、飛鳥の端末に緊急通信が入った。彼は画面を見た瞬間、表情をわずかに変える。
「網走さん」
網走が視線だけで促す。
「本部からです。総隊長が直接」
飛鳥は通話を開いた。
「回収完了。未確認一名を保護、綾崎志乃も同伴します」
短い沈黙。
端末の向こうで、低くよく通る男の声が何かを返す。志乃には内容までは聞き取れない。ただ、その声には現場の報告を受け慣れた重さがあった。
「了解」
飛鳥は続ける。
「ですが、もう一件あります。外信監視室から最優先案件。国際テロ組織……」
そこで彼女の目が、画面の文字を追って止まった。
「TEBESが、東都に関する予告情報を流しました」
車内の空気が、すっと冷えた。
網走の眉がわずかに動く。
志乃はその名前を知らなかった。けれど、知らないままではいられないものだと直感した。向かいの青年も、閉じていた目をそのときだけ開く。
搬送車は減速し、重い認証ゲートの前で止まった。正面の隔壁が左右へ開く。その奥にあったのは、学区の施設とは思えないほど深く静かな空間だった。
東都学連本部。
そしてその入口の大型表示には、ちょうど新しい緊急文が赤く走り始めていた。
《対外脅威コード更新 TEBES監視優先度最大》
零を追う夜は、そこで終わらなかった。
むしろ今、ようやく次の扉が開いたのだと、志乃ははっきり感じていた。




