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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第4節 もう一人の零

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学連本部へ

夜の回廊に、遅れて本物の静けさが戻ってきた。


紅叉の気配はもう遠い。警備ドローンの青い灯が床を往復し、半ば下ろされた防災シャッターの前で、学区警備課の端末音が短く鳴っている。つい数分前まで命のやり取りがあった場所とは思えないほど、東都研究都市のシステムは素早く平常へ戻ろうとしていた。


「……離せ」


フード付きの青年が低く言った。


網走連に腕を支えられたまま、わずかに身を引こうとする。だが、その動きにはもう戦闘の鋭さがなかった。さっきまで紅叉を圧倒していたのが嘘みたいに、足元が不安定だ。


「無理だ」


網走は即答した。


「今のお前に単独行動はさせない」


青年は答えない。


答えないまま、壁へ手をつきかけ、そこで呼吸を乱した。袖口からにじんだ血が、パーカーの濃い布へゆっくり広がっていく。新しい傷ではない。もっと前から無理を重ねていた人間の傷に見えた。


「網走さん、搬送車を」


平間飛鳥が通信用端末へ手をかざしながら言う。


「現場封鎖は警備課へ移管します。一般人の聞き取りは簡易記録だけ先に回します」


「頼む」


網走は短く返し、それから志乃を見た。


「綾崎、君も来い」


志乃は一瞬、意味が飲み込めなかった。


「……私も?」


「狙われたのは君だ」


網走の口調はぶっきらぼうだったが、そこに迷いはない。


「このまま通常の帰路へ戻すわけにはいかない。学連本部で保護する」


アリサがすぐに割って入る。


「ちょっと待ってください」


彼女の声は震えていたが、引いてはいなかった。


「志乃に何するつもりですか」


飛鳥が振り返る。


その目は冷たいわけではない。ただ、感情より先に順序がある顔だった。


「事情聴取と安全確保です」


「それ、信用しろって言われても困るんですけど」


アリサは食い下がる。


美世も志乃の横へ立った。


「少なくとも、どこへ連れていくのかは明確にしてください」


飛鳥はそれに小さくうなずく。


「東都学連本部です」


簡潔な返答だった。


「学区北棟上層、第三管理区画。非公開ではありますが、不当な拘束施設ではありません」


言葉の後半が少しだけ皮肉に聞こえたのは、アリサの不信を理解した上での返しだったのかもしれない。


「君たちは今日は帰宅して」


今度は網走が言った。


「ただし一人では帰るな。警備課の送導をつける」


アリサはなお反論したそうだった。


けれど、志乃が先に口を開いた。


「……行く」


二人の視線が一斉にこちらへ向く。


志乃は青年を見た。まだ名前も知らない相手。自分を見て、違うと言った相手。零を知っていると言った相手。


ここで離したら、もう次に会える保証はない。


「話、まだ聞けてないから」


アリサが何か言いかけ、そこで口をつぐむ。


美世は少しだけ目を伏せ、それから静かにうなずいた。


「連絡、ちゃんとして」


「うん」


志乃は答えた。


すぐあとで、端末が短く震える。画面を見ると、差出人表示のないメッセージが一通だけ届いていた。


《今夜は学連に従いなさい。海にも塔にも近づかないこと》


水島桃李だ、と志乃は直感した。


相変わらず名前は出さず、説明も少ない。それでも、いま必要なことだけは外さない文面だった。


「どうした」


網走が問う。


「……何でもないです」


志乃は端末を伏せた。


やがて、無灯火仕様の黒い搬送車が歩廊脇へ滑り込んできた。研究都市の一般交通には使われない型だ。車体は低く、窓には外からの視線を弾く薄い偏光処理が入っている。災害時や特殊案件にだけ動く、学連の移送車両なのだろう。


「乗って」


飛鳥が後部扉を開く。


先に青年が乗せられる。抵抗しようとする気配はあったが、立っているだけで精一杯らしい。網走が半ば支え込む形で座らせると、青年は舌打ちもせず、ただ窓の外を向いた。


志乃もその向かいへ腰を下ろす。


扉が閉まる直前、アリサが駆け寄った。


「志乃」


その一言に、志乃は顔を上げる。


「絶対、一人で抱えないで」


短い言葉だった。


けれど、夜のいろんな音の中で、それだけがはっきり胸へ残った。


「……うん」


扉が閉まる。


外の二人の姿が偏光ガラスの向こうに薄く歪み、搬送車は静かに動き出した。


車内は驚くほど無音だった。走行音も振動も最低限に抑えられ、外の街灯だけが流れていく。東都研究都市の夜景は整っている。高架歩廊、研究棟群、管理塔、物流レーン。三〇年代の日本で、崩壊後に再編された五研究都市の中枢として、この街は管理と機能を美しく並べ直してきた。


だが、志乃には今、その整然さが別の意味に見える。


逃がさないための都市。


異物を見つけるための街。


「……名前」


気づけば、志乃は向かいの青年へ言っていた。


青年は目を閉じたまま、すぐには返さない。


「あなたの名前、まだ聞いてない」


網走と飛鳥も黙っている。


答えるかどうかを、今は本人に任せるつもりらしい。


長い沈黙のあと、青年の唇がわずかに動く。


「……まだ、いい」


それだけだった。


志乃は少しだけ肩の力を抜く。拒絶というより、保留だと思った。今はそれで十分だった。


搬送車が北棟の上層連絡路へ入るころ、飛鳥の端末に緊急通信が入った。彼は画面を見た瞬間、表情をわずかに変える。


「網走さん」


網走が視線だけで促す。


「本部からです。総隊長が直接」


飛鳥は通話を開いた。


「回収完了。未確認一名を保護、綾崎志乃も同伴します」


短い沈黙。


端末の向こうで、低くよく通る男の声が何かを返す。志乃には内容までは聞き取れない。ただ、その声には現場の報告を受け慣れた重さがあった。


「了解」


飛鳥は続ける。


「ですが、もう一件あります。外信監視室から最優先案件。国際テロ組織……」


そこで彼女の目が、画面の文字を追って止まった。


「TEBESが、東都に関する予告情報を流しました」


車内の空気が、すっと冷えた。


網走の眉がわずかに動く。


志乃はその名前を知らなかった。けれど、知らないままではいられないものだと直感した。向かいの青年も、閉じていた目をそのときだけ開く。


搬送車は減速し、重い認証ゲートの前で止まった。正面の隔壁が左右へ開く。その奥にあったのは、学区の施設とは思えないほど深く静かな空間だった。


東都学連本部。


そしてその入口の大型表示には、ちょうど新しい緊急文が赤く走り始めていた。


《対外脅威コード更新 TEBES監視優先度最大》


零を追う夜は、そこで終わらなかった。


むしろ今、ようやく次の扉が開いたのだと、志乃ははっきり感じていた。

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