違うと言った理由
紅叉の気配が夜の回廊の向こうへ消えても、その場の緊張はまったく緩まなかった。
警備ドローンの青い灯が遅れて床をなぞり、半ば下ろされた防災シャッターへ反射する。避難を終えた住民たちのざわめきは遠くへ引いていき、残されたのは、綾崎志乃たちと学連、そしてフード付きの青年だけだった。
網走連が、青年へ向けて一歩だけ前へ出る。
「動くな」
声は低かったが、さっき紅叉へ向けていたものとは違う慎重さがあった。
青年は従うとも逆らうとも示さず、ただその場に立っていた。夜の通路灯がフードの縁を薄く照らしている。近くで見ると、思っていたより若い。志乃と同年代か、少し上くらいに見えた。なのに、その肩に乗っている疲労だけはひどく古いものに思える。
平間飛鳥が、網走の少し後ろから青年を観察していた。端末はもう閉じている。記録するより先に、自分の目で測るべき対象だと判断したのだろう。
「所属は」
飛鳥が問う。
「紅叉ではなさそうですが」
青年は答えない。
代わりに、フードの奥の視線が志乃へ向いた。
それだけで、胸の奥がまたひやりとした。似ている。自分の中で偶然ひらくあの空白に。けれど、目の前の相手はそれを“偶然”として扱っていない。呼吸みたいに自分のものにしている。
「……あなた」
志乃は、気づけば声を出していた。
青年の視線が止まる。
アリサが小さく息を呑み、美世が志乃の袖を軽く引いた。止めたいのだとわかった。だが、ここで聞かなければいけない気がした。
「前から、私を見てたよね」
言葉にすると、それは思っていたよりずっとはっきりした現実になった。
湾岸の向こう。
学区の屋上。
保守通路の先。
全部、この青年だった。
青年は数秒だけ黙っていた。
それから、短く言った。
「……見てた」
志乃の喉が詰まる。
否定されないことを、どこかで予想していた。それでも、実際に認められると足元が薄くなる。
「どうして」
問い返したのは志乃だったが、横から網走も口を開く。
「それはこっちも聞きたい」
青年は答えない。
網走の目が細くなる。
「黙秘で通る状況じゃないぞ」
「網走さん」
飛鳥が静かに制した。
「まず、本人に言わせたほうがいい」
その一言で、場の主導権が少しだけ志乃へ戻る。
志乃は唇を湿らせ、青年を見た。
「屋上で、“違う”って言った」
青年の肩が、ほんのわずかに動く。
それは警戒にも見えたし、面倒を認めた沈黙にも見えた。
「それって、何が違うって意味だったの」
夜風が、歩廊のすき間を抜けた。
青年はすぐには答えなかった。フードの影が少し下がり、表情はまだ読み取れない。けれど、黙ってやり過ごすつもりでもないらしかった。
「……お前は、違った」
低い声だった。
志乃は眉を寄せる。
「だから、何と」
今度は、青年がはっきりと志乃を見る。
その視線にぶつかった瞬間、志乃は妙な感覚に襲われた。見られているというより、深さを測られている感じだった。自分の中にある空白が、どこまで続いているのかを。
「俺が探してた“零”とは違う」
その一言で、空気が止まった。
アリサが小さく息を呑む。
美世の指先が、志乃の袖をつかんだまま強くなる。
網走も飛鳥も、何も口を挟まない。
志乃だけが、その言葉を真正面から受けるしかなかった。
「……じゃあ、私は何」
気づけば、そう聞いていた。
自分でも思っていた以上に、かすれた声だった。
青年は視線をそらさない。
「知らない」
短い。
だが、突き放すようでいて、嘘はなかった。
「ただ、お前には似たものがある」
その言葉に、志乃の胸がひとつ強く打った。
「同じじゃない。けど、近い」
飛鳥が、その表現を逃さなかった。
「“零”を知っている言い方ですね」
青年は飛鳥を見ない。
代わりに、少しだけ苛立ったように息を吐く。
「知ってるから見てた」
志乃の背筋が粟立つ。
零を知っている。
本の中に書かれていた名前。
白塔で与えられた言葉。
街で噂として膨らんでいる呼び名。
そのどれとも違う、もっと近い距離でこの青年は“零”を知っている。
「なら、教えて」
志乃は一歩だけ前へ出た。
網走が止めかけたが、飛鳥が目だけで制する。
「零って何なの」
青年は黙った。
長い沈黙だった。
その沈黙のあいだに、夜の東都研究都市の音が少しずつ戻ってくる。遠くで走る搬送車、警備ドローンの巡回音、居住区の上層で鳴る生活放送。再建された都市は、何事もなかったように夜を進めている。だがこの回廊の一角だけが、別の流れに切り取られていた。
「……今はまだ、お前じゃない」
ようやく青年が言う。
「それだけだ」
答えとしては足りない。
足りないのに、その一言には奇妙な重さがあった。否定ではなく、判断の保留に近い響きだった。
「助けに来たわけじゃなかったの?」
今度はアリサが、怯えを押し込みながら聞いた。
青年の視線がわずかにそちらへ移る。
「見に来ただけだ」
その答えは冷たかった。
けれど完全な嘘でもない、と志乃にはわかった。見に来て、そして結果的に助けた。そういう順番なのだろう。
「見て、どうだった」
志乃が問う。
青年は、一瞬だけ言葉を迷ったように見えた。
「……まだ、足りない」
その意味を聞き返そうとした瞬間だった。
青年の足元が、わずかに揺れた。
志乃は目を見開く。
いまの戦いのあいだ、まったく乱れのなかった呼吸が、そこで初めて崩れた。青年は一歩だけ後ろへ下がり、壁へ手をつく。パーカーの袖口からのぞいた手首には、うっすら血がにじんでいた。いつ負ったものかわからない。だが、さっきまで平然と立っていたのが不自然なくらい、消耗しているのだとわかる。
「……負傷してるのか」
網走の声が低くなる。
青年は答えず、壁から手を離そうとして、わずかによろめいた。
飛鳥がすぐに前へ出る。
「これ以上は無理です」
その口調は診断に近かった。
「網走さん、ここで逃がすのは危険です」
「わかってる」
網走は短く返し、改めて青年へ向き直る。
「話の続きは場所を変える」
青年が顔を上げる。
拒絶の気配が、夜気の中でひやりと立った。
「断る」
その一言と同時に、周囲の通路灯がまたかすかに揺れた。
だが今度は、さっきまでのような絶対的な静けさがない。力を通すだけの余裕が、もう残っていないのだと志乃にもわかった。
網走が真正面から言う。
「断る元気があるなら歩けるな」
その返しは乱暴なのに、不思議と雑ではなかった。
「少なくとも、ここでまた紅叉に拾わせる気はない」
飛鳥も続ける。
「あなたが何者でも構いません。今の東都で、その状態のまま単独行動を続ければ、次は捕まる」
青年は黙る。
沈黙の意味を測るように、志乃はその横顔を見た。
まだ名前も知らない。
何を背負っているのかもわからない。
それでも、この場で放してはいけない気がした。
「……行って」
志乃は小さく言った。
青年の視線が、再び志乃へ戻る。
「話、まだ終わってないから」
その言葉は、自分でも驚くほどまっすぐ出た。
青年はしばらく志乃を見ていた。
やがて、ほんのわずかに目を伏せる。
了承なのか、諦めなのかはわからなかった。
けれど次の瞬間、彼の膝が小さく折れた。
網走が素早く腕を取って支え、飛鳥が周囲へ短く指示を飛ばす。警備ドローンの灯が、遅れて四人の影を青く照らした。
夜の回廊は、そこでようやく次の段階へ進み始めた。




