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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第4節 もう一人の零

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違うと言った理由

紅叉の気配が夜の回廊の向こうへ消えても、その場の緊張はまったく緩まなかった。


警備ドローンの青い灯が遅れて床をなぞり、半ば下ろされた防災シャッターへ反射する。避難を終えた住民たちのざわめきは遠くへ引いていき、残されたのは、綾崎志乃たちと学連、そしてフード付きの青年だけだった。


網走連が、青年へ向けて一歩だけ前へ出る。


「動くな」


声は低かったが、さっき紅叉へ向けていたものとは違う慎重さがあった。


青年は従うとも逆らうとも示さず、ただその場に立っていた。夜の通路灯がフードの縁を薄く照らしている。近くで見ると、思っていたより若い。志乃と同年代か、少し上くらいに見えた。なのに、その肩に乗っている疲労だけはひどく古いものに思える。


平間飛鳥が、網走の少し後ろから青年を観察していた。端末はもう閉じている。記録するより先に、自分の目で測るべき対象だと判断したのだろう。


「所属は」


飛鳥が問う。


「紅叉ではなさそうですが」


青年は答えない。


代わりに、フードの奥の視線が志乃へ向いた。


それだけで、胸の奥がまたひやりとした。似ている。自分の中で偶然ひらくあの空白に。けれど、目の前の相手はそれを“偶然”として扱っていない。呼吸みたいに自分のものにしている。


「……あなた」


志乃は、気づけば声を出していた。


青年の視線が止まる。


アリサが小さく息を呑み、美世が志乃の袖を軽く引いた。止めたいのだとわかった。だが、ここで聞かなければいけない気がした。


「前から、私を見てたよね」


言葉にすると、それは思っていたよりずっとはっきりした現実になった。


湾岸の向こう。


学区の屋上。


保守通路の先。


全部、この青年だった。


青年は数秒だけ黙っていた。


それから、短く言った。


「……見てた」


志乃の喉が詰まる。


否定されないことを、どこかで予想していた。それでも、実際に認められると足元が薄くなる。


「どうして」


問い返したのは志乃だったが、横から網走も口を開く。


「それはこっちも聞きたい」


青年は答えない。


網走の目が細くなる。


「黙秘で通る状況じゃないぞ」


「網走さん」


飛鳥が静かに制した。


「まず、本人に言わせたほうがいい」


その一言で、場の主導権が少しだけ志乃へ戻る。


志乃は唇を湿らせ、青年を見た。


「屋上で、“違う”って言った」


青年の肩が、ほんのわずかに動く。


それは警戒にも見えたし、面倒を認めた沈黙にも見えた。


「それって、何が違うって意味だったの」


夜風が、歩廊のすき間を抜けた。


青年はすぐには答えなかった。フードの影が少し下がり、表情はまだ読み取れない。けれど、黙ってやり過ごすつもりでもないらしかった。


「……お前は、違った」


低い声だった。


志乃は眉を寄せる。


「だから、何と」


今度は、青年がはっきりと志乃を見る。


その視線にぶつかった瞬間、志乃は妙な感覚に襲われた。見られているというより、深さを測られている感じだった。自分の中にある空白が、どこまで続いているのかを。


「俺が探してた“零”とは違う」


その一言で、空気が止まった。


アリサが小さく息を呑む。


美世の指先が、志乃の袖をつかんだまま強くなる。


網走も飛鳥も、何も口を挟まない。


志乃だけが、その言葉を真正面から受けるしかなかった。


「……じゃあ、私は何」


気づけば、そう聞いていた。


自分でも思っていた以上に、かすれた声だった。


青年は視線をそらさない。


「知らない」


短い。


だが、突き放すようでいて、嘘はなかった。


「ただ、お前には似たものがある」


その言葉に、志乃の胸がひとつ強く打った。


「同じじゃない。けど、近い」


飛鳥が、その表現を逃さなかった。


「“零”を知っている言い方ですね」


青年は飛鳥を見ない。


代わりに、少しだけ苛立ったように息を吐く。


「知ってるから見てた」


志乃の背筋が粟立つ。


零を知っている。


本の中に書かれていた名前。


白塔で与えられた言葉。


街で噂として膨らんでいる呼び名。


そのどれとも違う、もっと近い距離でこの青年は“零”を知っている。


「なら、教えて」


志乃は一歩だけ前へ出た。


網走が止めかけたが、飛鳥が目だけで制する。


「零って何なの」


青年は黙った。


長い沈黙だった。


その沈黙のあいだに、夜の東都研究都市の音が少しずつ戻ってくる。遠くで走る搬送車、警備ドローンの巡回音、居住区の上層で鳴る生活放送。再建された都市は、何事もなかったように夜を進めている。だがこの回廊の一角だけが、別の流れに切り取られていた。


「……今はまだ、お前じゃない」


ようやく青年が言う。


「それだけだ」


答えとしては足りない。


足りないのに、その一言には奇妙な重さがあった。否定ではなく、判断の保留に近い響きだった。


「助けに来たわけじゃなかったの?」


今度はアリサが、怯えを押し込みながら聞いた。


青年の視線がわずかにそちらへ移る。


「見に来ただけだ」


その答えは冷たかった。


けれど完全な嘘でもない、と志乃にはわかった。見に来て、そして結果的に助けた。そういう順番なのだろう。


「見て、どうだった」


志乃が問う。


青年は、一瞬だけ言葉を迷ったように見えた。


「……まだ、足りない」


その意味を聞き返そうとした瞬間だった。


青年の足元が、わずかに揺れた。


志乃は目を見開く。


いまの戦いのあいだ、まったく乱れのなかった呼吸が、そこで初めて崩れた。青年は一歩だけ後ろへ下がり、壁へ手をつく。パーカーの袖口からのぞいた手首には、うっすら血がにじんでいた。いつ負ったものかわからない。だが、さっきまで平然と立っていたのが不自然なくらい、消耗しているのだとわかる。


「……負傷してるのか」


網走の声が低くなる。


青年は答えず、壁から手を離そうとして、わずかによろめいた。


飛鳥がすぐに前へ出る。


「これ以上は無理です」


その口調は診断に近かった。


「網走さん、ここで逃がすのは危険です」


「わかってる」


網走は短く返し、改めて青年へ向き直る。


「話の続きは場所を変える」


青年が顔を上げる。


拒絶の気配が、夜気の中でひやりと立った。


「断る」


その一言と同時に、周囲の通路灯がまたかすかに揺れた。


だが今度は、さっきまでのような絶対的な静けさがない。力を通すだけの余裕が、もう残っていないのだと志乃にもわかった。


網走が真正面から言う。


「断る元気があるなら歩けるな」


その返しは乱暴なのに、不思議と雑ではなかった。


「少なくとも、ここでまた紅叉に拾わせる気はない」


飛鳥も続ける。


「あなたが何者でも構いません。今の東都で、その状態のまま単独行動を続ければ、次は捕まる」


青年は黙る。


沈黙の意味を測るように、志乃はその横顔を見た。


まだ名前も知らない。


何を背負っているのかもわからない。


それでも、この場で放してはいけない気がした。


「……行って」


志乃は小さく言った。


青年の視線が、再び志乃へ戻る。


「話、まだ終わってないから」


その言葉は、自分でも驚くほどまっすぐ出た。


青年はしばらく志乃を見ていた。


やがて、ほんのわずかに目を伏せる。


了承なのか、諦めなのかはわからなかった。


けれど次の瞬間、彼の膝が小さく折れた。


網走が素早く腕を取って支え、飛鳥が周囲へ短く指示を飛ばす。警備ドローンの灯が、遅れて四人の影を青く照らした。


夜の回廊は、そこでようやく次の段階へ進み始めた。

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