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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第4節 もう一人の零

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もう一人の零

「下がってろ」


フード付きの青年がそう言った直後、夜の回廊の空気がひどく静かになった。


騒ぎが消えたわけではない。避難の足音も、警備ドローンの接近音も、遠くで鳴る都市放送もまだある。けれど青年のまわりだけ、音が一度薄く削られたみたいに感じられた。


紅叉の先頭の男が、息を吐くように笑う。


「気取ってんじゃねえぞ」


男は壁際で体勢を立て直し、片手の小型霊装器へ赤い霊気を流しこんだ。


その動きに呼応して、残っていた二人も左右へ散る。ひとりは拘束索、ひとりは刃、そして先頭の男は射撃。三方向から一気に畳みかける連携だった。志乃に向けていたときより明らかに本気の組み方だ。


「網走さん」


平間飛鳥が低く呼ぶ。


網走連は半歩だけ前へ出かけ、そこで止まった。


「見る」


短い返答だった。


学連として介入は続けるつもりでも、この青年の力をまず見極める必要がある。そう判断したのだと志乃にもわかった。


次の瞬間、紅叉の攻撃が重なった。


赤い弾が三発。


低く走る拘束索。


横合いから振り下ろされる霊気刃。


普通なら、避けるか、防ぐか、そのどちらかしかない。


けれど青年は、避けなかった。


一歩、前へ出る。


それだけで、最初の弾丸が志乃の目の前でおかしくなった。青年へ届くはずの軌道だけが不自然に痩せ、熱と速度を失って白い粒子になる。続く二発も、彼の肩口へ触れる寸前で、ただ“当たる”という結果を忘れたみたいにほどけていった。


「っ……!」


射撃していた男の目が見開かれる。


拘束索が足元へ絡みつくはずだった。だが青年が床を蹴った瞬間、索の張力そのものが抜けた。ぴんと張っていた赤い帯は途中でただの光へ戻り、頼りなく垂れて床へ落ちる。横から振り下ろされた刃も同じだった。金属のような硬さを持っていた霊気が、青年の首筋へ届く寸前で薄くほどけ、夜気へ散る。


志乃の喉がひりつく。


似ている。


けれど違う。


自分の力は、切迫した瞬間にだけ偶然ひらく空白だ。守りたいものへ届く前に、結果だけを削り落とす。だがこの青年は、違う。彼は最初から、相手の攻撃が“成立する条件”そのものを順番に剥がしているように見えた。


「防いでるんじゃない」


飛鳥が低く呟く。


「攻撃の前提を外している……」


その分析が終わるより早く、青年は紅叉の懐へ入っていた。


動きは速いのに、派手ではない。音も軌跡も少ない。ただ気づくと距離が消えている。彼の右手が、拘束索を操っていた男の手首へ触れた。


それだけだった。


男の全身から、張りつめていた赤い霊気が一気に抜ける。踏ん張るための力も、逃げるための反射も、怒鳴るための勢いさえも失ったみたいに、男はその場へ膝から崩れ落ちた。


「何をした!」


先頭の男が吠える。


青年は答えない。


代わりに半歩だけ軸をずらし、横から来た刃持ちの男の踏み込みを迎えた。男は切り結ぶつもりだったのだろう。だがその足が床へ着いた瞬間、踏ん張りが消えた。滑ったわけでも躓いたわけでもない。ただ“踏み込む”という動作の意味だけが抜け落ちたみたいに、男の体勢が前へ崩れる。


青年の肘が、そこへ短く入る。


鈍い音。


男はそのまま回廊の壁へ叩きつけられ、動かなくなった。


「……二人」


アリサが、避難通路の手前で息を呑む。


美世は何も言わない。


ただ、志乃と同じものを見ているとわかるほど、その目が強く見開かれていた。


残る先頭の男だけが、なおも退かなかった。だがその顔からは、もう完全に余裕が消えている。彼は志乃ではなく、真正面の青年を見ていた。


「お前……本当に何者だ」


青年はまた答えなかった。


返答の代わりに、先頭の男が持つ霊装器へ視線を落とす。


その沈黙に耐えきれなくなったように、男は赤い霊気を一気に膨らませた。銃型霊装器の周囲に複数の輪が浮かび、圧縮効率を強引に上げる。違法改造の最終段階だ。威力だけを優先し、使用者への反動も無視する型。


「近づくな!」


男が引き金を絞る。


放たれたのは弾丸ではなかった。赤い塊が炸裂しながら広がり、回廊の通路幅そのものを飲み込もうとする。避けきれない範囲攻撃だ。


志乃の胸が凍る。


だが青年は一瞬たりとも揺れなかった。


赤い爆圧が彼の目前まで届いたところで、音が消えた。


光はある。


熱もあるはずだ。


それなのに、爆ぜるという結果だけが来ない。


膨らんだ赤が、見えない穴へ吸われるみたいに中心から落ちていく。轟音になるはずだった衝撃は、白い霧のような粒へ崩れ、青年の前方で静かに消滅した。


飛鳥が、はっきりと息を止めたのがわかった。


網走の目も、初めて明確に細くなる。


「……おいおい」


網走の低い声には、呆れに近い重さが混じっていた。


「そっちかよ」


先頭の男の腕から力が抜ける。違法改造の反動で霊装器そのものが焼け、赤い火花を散らした。青年はその隙へ、迷いなく踏み込む。


一歩。


二歩。


速い。


先頭の男が後退しようとした時点で、もう距離はない。青年の手が男の胸元を掴み、そのまま壁へ押しつける。乱暴な動きのはずなのに、衝突音は妙に小さかった。代わりに、男の全身から赤い霊気だけが一気に抜け落ちる。


「が……っ」


男の喉から、情けない音が漏れた。


抗おうとしても、霊気も、腕力も、踏ん張りも続かないらしい。力の根元ではなく、“続けるための条件”を剥がされているような崩れ方だった。


青年はフードの陰から、冷えた目で男を見た。


そして初めて、はっきりと口を開く。


「お前らじゃない」


低い声だった。


それが誰に向けた言葉なのか、一瞬だけ志乃にはわからなかった。自分たちを探していた相手ではない、という意味か。あるいは、零に届く器ではない、という切り捨てか。


先頭の男は、その言葉に顔を歪めた。


「……こっちが、本命か」


掠れた声で吐き出されたその一言が、夜気へ沈む。


紅叉の面々の顔に浮かんでいたのは、怒りよりも確信だった。綾崎志乃にも反応はある。だが目の前の青年は、その先にいる。未完成な候補ではなく、すでに“零に最も近い形”として立っている。


志乃はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く脈打つのを感じた。


本命。


違う、と言われた意味が、そこでようやく輪郭を持つ。


あのとき青年は、志乃を否定したのではない。比べたのだ。自分の探していた何かと照らし合わせて、まだ違うと判断した。そして今、この場で紅叉も同じ結論へ辿り着いている。


「撤退だ!」


壁へ押しつけられた先頭の男が、苦しげに怒鳴った。


「情報だけ持ち帰れ! こいつは――」


最後まで言わせず、青年は男の胸元から手を離した。


男は床へ崩れ落ち、咳き込みながら後退る。残っていた紅叉のひとりが無理やり仲間を引きずり、もうひとりは倒れた者を抱え起こした。完全な敗走だった。だが彼らの目は、恐怖と同時に異様な執着を残している。


「忘れるな」


先頭の男が血の混じった息で言う。


「東都に、二人いる」


その言葉を最後に、紅叉は夜の回廊の向こうへ退いていった。警備ドローンの接近音がようやく近づき、遅れて警報灯が床を青く走る。


静けさが戻る。


だが、それはもうさっきまでの日常の静けさではない。


網走は数秒だけ紅叉の退路を見送り、それから青年へ向き直った。飛鳥も避難誘導を終え、慎重な足取りで合流する。


「逃がしたくはなかったが、今はいい」


網走が言う。


「お前のほうが優先だ」


青年は答えない。


ただゆっくりと、志乃のほうを振り向いた。


フードの奥の目が、ようやく少しだけ見えた。若い。けれど、その瞳には年齢に似合わない疲弊と、ひどく冷たい静けさが同居していた。


志乃は動けなかった。


この人だ、と思う。


自分が探していた零、そのものかどうかはまだわからない。


それでも少なくとも、自分より先を歩いている。同じ穴の、ずっと深い側に立っている。


零のような力ではなく、零に最も近い力。


それを持つ誰かが、いま目の前にいる。


青年の唇が、ほんのわずかに動いた。


志乃は、次に何を言われるのかを息を止めて待った。

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