パーカーの青年
一歩だった。
高い手すりの上から踏み出したその動作は、跳躍というより、重力との相談を省いたように見えた。フード付きのパーカーを着た細身の青年は、立体通路の影から夜の歩廊へ降りてくる。着地の音はほとんどしない。ただ靴底が床に触れた瞬間だけ、周囲の通路灯がかすかに明滅した。
そこに色はなかった。
綾崎志乃には霊気力の流れが見える。怒りは赤く、湿った執着は緑に、研ぎ澄まされた意志は銀や青に寄ることが多い。だが、この青年のまわりには、色が見えない。正確には、見えるはずのものがひどく薄い。夜の空気から一枚だけ何かが抜け落ちて、その形だけが人になって立っているようだった。
湾岸の向こうにいた影。
学区の屋上にいた影。
そして、保守通路の先から低い声で「違う」と言った相手。
全部、この青年だと志乃は直感した。
「……誰だ」
紅叉の先頭の男が、銃口をわずかに上げながら問う。
青年は答えなかった。
フードの影の奥から、まず志乃を見た。その視線は鋭いのに、敵意とは少し違う。確かめるような、比べるような、そんな温度のない目だった。
その一瞬だけで、志乃の胸の奥が冷えた。
似ている。
あの空白に。
自分の中で勝手にひらく、零へ引き戻すみたいな感覚に、この青年はひどく近い。けれど同じではない。自分のものが偶発的に開く裂け目だとしたら、青年のそれは最初から身体の一部として馴染んでいるように思えた。
「おい」
網走連が一歩前へ出る。
低い声には警戒があった。紅叉へ向けるものとは別の、計れないものへ向ける慎重さだった。
「そいつから離れろ。所属と目的を言え」
青年はなおも答えない。
代わりに視線だけを網走から志乃へ戻し、ほんのわずかに首を傾けた。
志乃は息を呑む。
その仕草には見覚えがあった。屋上でも、保守通路の先でも、同じようにこちらを測るような角度で見られた気がする。
「てめえ、無視してんじゃねえ!」
痩せた紅叉の男が怒鳴り、赤い霊気を指先へ集めた。
細い刃が夜気を裂き、青年の喉元を狙って走る。かなり速かった。普通の相手なら避けるか、防ぐか、そのどちらかしかない軌道だった。
だが青年は、動かなかった。
刃が届く直前、赤い光だけがふっと痩せた。
熱も、勢いも、切断の結果も、そこへ辿り着く前に抜け落ちる。霊気の刃は青年の首筋へ触れる寸前で白くほどけ、糸屑みたいに崩れて消えた。
「なっ……」
痩せた男が目を見開く。
志乃の喉がひりついた。
今のは、自分が湾岸でやったことと似ている。いや、似ているどころではない。自分は“起きてしまう”形でしか使えないのに、青年は呼吸するのと同じみたいに、それを通していた。
「……やっぱり」
平間飛鳥が低く呟く。
その声には、驚きよりも観察結果がひとつ増えた冷たさがあった。
「同系統……ただし完成度が違う」
網走は返事をしない。
返事の代わりに、青年と紅叉のあいだへ半身だけ割り込む。学連としての位置を崩さないためだろう。だが視線は完全には青年から外していなかった。
「紅叉、余所見するな!」
先頭の男が吠えた。
号令と同時に、二人が左右から踏み込む。片方は赤い索、もう片方は短い刃。連携して相手の動きを止めるつもりだとわかった。
青年はそこで初めて、わずかに動いた。
一歩、前へ。
それだけだった。
なのに紅叉の二人の動きが噛み合わなくなる。赤い索は巻き取るはずの位置からわずかに外れ、刃は踏み込みの勢いだけを失って床へ沈む。青年が速く動いたのではない。相手が計算していた距離とタイミングのほうが、途中で成立しなくなったような崩れ方だった。
次の瞬間、青年の手がひとりの胸元を掴む。
乱暴な動きではない。
ただ触れただけに見えた。
それなのに男の全身から赤い霊気がすっと抜け、糸の切れた人形みたいに膝から崩れ落ちる。気絶とも違う。張り詰めていた戦意や運動の前提そのものが、一瞬で落とされたような崩れ方だった。
「……っ、下がれ!」
先頭の男が初めて明確な焦りを見せた。
紅叉の面々が距離を取る。さっきまで志乃を囲っていた側の動きではなかった。計測不能の危険物へ対峙したときの動きだ。
「誰だ、てめえ」
先頭の男の問いは、今度は本気だった。
青年は少しだけ顔を上げる。
フードの奥にある目は、夜のせいでまだよく見えない。けれど、その声は思ったより若かった。
「……関係ない」
短い返答だった。
志乃の背筋に、ぞくりとしたものが走る。
あの声だ。
屋上で聞いた低い声。保守通路の先で届いた声。近くで聞くと、若さの奥に疲れが混じっているのがわかる。けれど、その疲れごと削ぎ落とせそうな冷たさもあった。
「関係なくはねえだろ」
網走が言う。
青年は、ようやくそちらを見た。
「……そいつらが先だ」
言葉の先にある「そいつら」が紅叉を指していることは、誰にも明らかだった。
それだけで敵対ではないと判断するには危うい。だが少なくとも、今この場で志乃たちへ牙を向ける気はないらしい。
「志乃」
アリサが小さく呼ぶ。
避難通路の手前で、美世と並んだままこちらを見ている。二人の顔には怯えがある。それでも志乃を残して逃げようとはしていない。
その視線に背中を押されるみたいに、志乃は一歩だけ前へ出た。
「あなた……」
声がうまく続かない。
青年はそちらを振り向き、今度ははっきりと志乃を見た。
空白。
その感覚が、真正面からぶつかってくる。深さが違う。自分の中にあるものより、ずっと静かで、ずっと危うい。志乃は反射的に、自分が誰かの前に立っているというより、底の見えない穴の縁を覗き込んでいるような感覚を覚えた。
「……お前」
青年の唇がわずかに動く。
そこで言葉は切れた。
迷ったのではない。何かを飲み込んだように見えた。
次の瞬間、先頭の紅叉の男が通信機へ怒鳴る。
「応援を寄越せ! 本命級だ、こっちが――」
そこまでだった。
青年が地を蹴る。
今度は誰の目にも速かった。網走ですら一瞬だけ反応を遅らせるほどの踏み込みで、青年の姿が夜の歩廊から半歩ぶれたように消える。遅れて、先頭の男の通信機が粉々に砕けて床へ散った。
打撃の音は、ひどく軽かった。
だが男の体は二歩、三歩と後ろへよろめき、壁へ叩きつけられる寸前で辛うじて足を止める。
「……っ、何だ、お前」
先頭の男の顔から、完全に余裕が消えていた。
青年は何も答えない。
ただ志乃たちと紅叉のあいだへ立ち、その背中を夜の通路灯に薄く縁取らせる。
その姿を見た瞬間、志乃は奇妙な確信を抱いた。
助けに来た、という単純な形ではない。
この青年は、自分を守るためだけにここへ現れたわけではない。
確かめに来たのだ。
自分を。
そして、紅叉の誰かが掠れた声で言う。
「……零」
それは断定ではなかった。
だが、その名は一度出た瞬間から、夜の空気に重く沈んだ。
青年の肩が、ほんのわずかに動いた。続きを否定するのかと思った志乃の予想に反して、彼は振り返らない。
代わりに、低い声でただ一言だけ落とした。
「下がってろ」
誰に向けた言葉なのかは、考えるまでもなかった。
そして次の瞬間、青年のまわりの空気が静かに切り替わる。
本当の戦いは、ここから始まるのだと、志乃は息を止めたまま理解した。




