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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第4節 もう一人の零

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零のような力

「やめ――!」


綾崎志乃の声が、夜の回廊で裂けた。


紅叉の男の指が引き金を引くより早く、志乃の体はもう前へ出ていた。考えて動いたのではない。ただ、子どもを抱えた母親の肩が震えるのを見た瞬間、胸の奥の冷たい場所が勝手に開いた。


霊気力の色が見えた。


赤い。


乾いて、硬く、殺意よりも用途に徹した色だった。圧縮された弾道は細い線になって空気を裂き、母親の背中へまっすぐ伸びていく。


間に合わない、と頭ではわかった。


それでも、志乃は手を伸ばしていた。


「綾崎さん、だめだ!」


網走連の声が飛ぶ。


だが、その制止はもう遠かった。


世界の音が、一瞬だけ引いた。


風も、人の息も、靴音も、警備ドローンの接近音さえも、薄い膜の向こうへ押しやられる。志乃の視界の中央にあるのは、赤い弾と、その先にいる母子だけだった。


胸の奥の空白が、手のひらへ移る。


熱を奪うのではない。


力を弾くのでもない。


そこに“あるはずのもの”だけが、するりと抜け落ちる。


赤い弾丸が、志乃の指先の前で止まった。


次の瞬間、それは砕けも跳ね返りもせず、白い粒子にほどけた。衝撃も熱も音も、すべてを置き忘れたみたいに、ただ消えていく。遅れて後ろの壁に当たるはずだった炸裂の余韻だけが、空振りのように震えて消えた。


母親がその場へ崩れ落ち、子どもを抱きしめる。


怪我はない。


直撃も、破片も、熱傷も、何ひとつ残っていない。


「……今の」


平間飛鳥の声が、かすかに硬くなる。


彼女はすぐに端末へ何かを打ち込もうとして、途中でやめた。記録より先に、目で見たものの意味を測っている顔だった。


「防御じゃない」


飛鳥は低く呟いた。


「減衰でも相殺でもない。現象ごと、抜けている……」


紅叉の男たちの空気が変わる。


さっきまでの確認と試験の目ではなかった。獣が血の匂いを嗅いだときみたいに、興奮と確信が一度に立ち上がる。


「やはりこいつか」


痩せた男が、笑いを噛み殺すように言った。


先頭の男の目が、はっきりと志乃へ据わる。


「候補じゃない」


その声は冷たく、妙に静かだった。


「これが当たりだ」


志乃の膝が揺れた。


湾岸で弾を消したときより、ずっとはっきり出た。けれど、そのぶん体の内側を何かが削られたような感覚が残る。冷えているのに、立っているだけで息が浅くなる。


「志乃!」


アリサが叫ぶ。


美世がその腕をつかみ、無理に前へ出ないよう止めていた。二人の顔は青ざめている。それでも志乃から目を逸らさない。その視線が、今だけはありがたかった。


網走が一歩前へ出る。


「平間、二人を下げろ」


「了解」


飛鳥は即座に応じ、アリサと美世、さらに残っていた母子を避難通路側へ誘導する。彼の動きには乱れがない。だが、その目だけはさっきよりわずかに鋭くなっていた。志乃の力を見たことで、盤面が一段深くなったのを理解したのだろう。


「一般人から距離を取ってください。走って」


短く指示しながら、飛鳥は志乃のほうへ視線を戻す。


「綾崎さん、その場から動かないで。もう一度出そうとしないでください」


言われなくても、志乃にはその余裕がなかった。手のひらの奥にまだ空白の痕だけが残っている。意識して使えるものではないし、使おうとした瞬間に自分の輪郭まで削れそうな怖さがあった。


「確保するぞ!」


紅叉の先頭の男が吠える。


残っていた二人が左右へ散り、赤い霊気を細い帯のように伸ばした。それは刃ではない。拘束用に圧縮された霊気の索だった。人を傷つけすぎず、動きだけを奪うための形。


最初から殺す気ではない。


奪う気だ。


「綾崎、伏せろ!」


網走が叫ぶと同時に、一本目の赤い索が地を這うように走った。志乃は反射で身をひねる。索は制服の裾をかすめ、触れた布だけを焦がして床へ突き刺さった。遅れて二本目が上から落ちてくる。


逃げきれない。


そう思った瞬間、網走の拳が横から入った。霊気の索を放っていた男の顎が跳ね上がり、軌道が逸れる。赤い帯は志乃の肩先を掠めて、背後の壁へ絡みついた。


「下がれ」


網走の声は短い。


その背中は、昼の面談室よりずっと大きく見えた。


先頭の男が舌打ちし、赤い小型霊装器を持ち直す。


「学連風情が」


「その風情に止められてる時点で、出来は悪い」


網走は淡々と返した。


挑発というより、事実を述べる口調だった。


その一言で男のこめかみに赤い気配が走る。次の射撃は明らかに速かった。連射された三発が、網走と志乃の足元を穿つように飛ぶ。


網走は二発をかわし、一発を籠手で受け流した。火花が散る。


だが、紅叉の狙いは射撃ではなかった。視線を引きつけた隙に、別方向から痩せた男が低く回り込み、志乃へ手を伸ばす。爪の先に赤い霊気を集中させ、触れた場所の神経を一時的に焼く近接型だと志乃にもわかった。


「っ――」


避けきれない。


その瞬間、志乃の手首がまた冷えた。


恐怖でも怒りでもなく、拒絶だった。この手に触れるな、と体が先に思った。


男の指先が、志乃の腕へ届く寸前で止まる。


止まったのではない。


そこにあったはずの勢いと熱だけが、すとんと落ちた。赤い霊気は先端から白くほどけ、糸屑みたいに崩れて消えていく。


「な……」


男が目を見開く。


志乃自身も息を呑んだ。


今のは、意識してやったわけではない。けれど、確かに自分のすぐ前の現象だけが“零”に近づけられた。触れられる前に、触れるという結果そのものが抜け落ちた。


「二回目だ」


飛鳥が遠くから低く言う。


「網走さん、接触型にも反応します」


「見ればわかる!」


網走の返答と同時に、彼の蹴りが痩せた男の脇腹へ入った。男が横へ吹き飛び、床に転がる。


だが、先頭の男は退かなかった。


むしろ、その目の奥に奇妙な確信が深まっていく。


「零のような力……」


男は、噛みしめるように呟いた。


「やはり東都にいたか」


その言葉を聞いた瞬間、志乃の背中に別の寒気が走る。


零“のような”力。


つまり彼らにとっても、まだ確定ではない。だが、それでも十分に狙う価値のあるものとして見ている。


「連絡を上げろ!」


先頭の男が怒鳴る。


「本隊へ! 候補女は保持値高――」


その声が、不意に途切れた。


夜の回廊の上、立体通路の影から、別の気配が落ちてきたからだ。


赤ではない。


飛鳥の整った霊気でも、網走の重い気配でもない。


色の名前を与えにくい、空白に近い感覚だった。冷たいのに、硬くはない。静かなのに、存在だけが異様にはっきりしている。


志乃は思わず顔を上げる。


高い位置の手すりの上に、ひとつの影が立っていた。フード付きのパーカー。細い体つき。顔は夜に溶けて見えない。


けれど、見間違えるはずがなかった。


屋上で見た影。


保守通路の先に立っていた影。


何度も自分を見ていた、あの誰かだ。


「……来た」


志乃の口から、今度は別の意味でその言葉が零れた。


紅叉の男たちも、学連の二人も、一斉に上を見る。


フードの影は動かなかった。


ただそこに立っているだけなのに、周囲の通路灯がかすかに揺れる。まるで光のほうが、その存在をうまく照らせず迷っているようだった。


次の瞬間、影が一歩、前へ出た。

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