三人の帰り道
中央図書館の正面ロビーには、もう夜の照明が落ちていた。
ガラス壁の向こうでは、東都研究都市の歩廊灯が一本ずつ点き始めている。再建都市の夜は暗くなりきらない。研究棟の表示灯、物流レーンの誘導灯、上空を行く監視ドローンの航行光が、街の輪郭を薄く浮かび上がらせ続ける。安全のための光なのに、志乃には今、それが見張りの目みたいに思えた。
「遅かったね」
正面ロビーのベンチから立ち上がったアリサが、そう言って鞄を肩へ掛け直した。
隣には古本美世もいる。二人とも先に帰らず待っていたらしい。
「ごめん」
志乃は短く答えた。
水島桃李と話した内容を、そのまま全部は言えなかった。けれど、何もなかった顔もできない。その半端さが、自分の声にそのまま出ている気がした。
「司書さん、何て?」
美世が静かに聞く。
志乃は少し迷ってから、答えた。
「今日は寄り道しないほうがいいって」
「それ、私たちも同意」
アリサが即答した。
冗談っぽく言ったつもりなのだろうが、目は笑っていない。
「学連の人にも似たようなこと言われたんでしょ」
「……うん」
「じゃあ決まり。今日は三人で、内側のルートで帰る」
アリサは確認ではなく決定として言った。
志乃は小さくうなずく。
本当は一人で考えたい気持ちもあった。けれど、水島の忠告を思い出すたび、その考えはすぐに冷えていった。本当に危ない日は、日常の形をして来る。なら、日常の中に誰かがいてくれることは、それだけで少し救いになる。
三人は図書館前の広場を抜け、学区と居住区をつなぐ内側回廊へ向かった。湾岸側を避けた、比較的人通りの多いルートだ。歩廊の床面には蓄光材が埋め込まれ、足元へ淡い青が流れている。自動販売機や学内売店の端末には、学生用生活クレジットの残高表示が浮かび、下校途中の学生たちが飲み物や軽食を買っていた。
「なんか、こういう普通の景色見ると混乱するね」
アリサが売店の前を通りながら言う。
「こっちは普通に肉まん買うかどうか悩んでるのに、裏で変な組織とか学連とか動いてるんでしょ」
「悩んでるなら買えばいいと思う」
美世が即座に返す。
アリサは一瞬だけ真顔になってから、吹き出した。
「そういうとこだよね、美世」
そのやりとりに、志乃も少しだけ口元を緩めた。
笑える。
まだ、こうして笑える。
それだけで胸の奥の強張りがほんのわずかにほどける気がした。
「志乃も何か食べる?」
アリサが端末をかざしながら聞く。
「顔色、朝からずっと悪いし」
「大丈夫。あんまり食欲ない」
「大丈夫って言う人ほど大丈夫じゃないんだけど」
言いながら、アリサは結局三つ肉まんを買った。ひとつを美世へ、もうひとつを半ば無理やり志乃へ押しつける。
「持ってるだけでも違うから」
志乃は断りきれず、温かい紙包みを受け取った。
掌にじんわり熱が移る。その小さな温度が、現実へつなぎとめてくれる気がした。
三人は再び歩き出した。回廊の向こうには、中層居住区の住宅棟が並んでいる。災害と経済崩壊のあとに再設計された東都は、学区と居住区の距離が短い。生活と研究と管理が、最初から相互監視を前提に組み込まれているからだ。便利さと息苦しさが同じ設計思想から生まれている街だった。
「今日、教室の後ろの子たち、また動画の話してた」
美世がぽつりと言った。
志乃の指先が、肉まんの包みの上で少し固くなる。
「……何て」
「“零の子”って」
美世は余計な言い換えをしなかった。
それがかえって痛かった。
「まだ顔もちゃんと映ってないのに、そういう呼び方だけ先に広がるんだね」
「名前つけると安心するんだよ」
アリサが少し強い声で言った。
「わかんないものを、わかった気になれるから」
その言葉に、志乃は昨夜の端末画面を思い出した。
《零じゃないなら、君は何だ》
名前をつけたがる側と、名前を確かめたがる側。
どちらも結局、自分を“何か”にしたがっている。
「私、自分でもまだわからない」
気づけば、志乃はそう口にしていた。
二人が同時に足を少し緩める。
「何が起きてるのかも、何を見られてるのかも、どこまで本当なのかも」
声は小さかったが、止まらなかった。
「ただ、私が知らないところで、もう決まってることがある気がする」
「じゃあ、決めさせなきゃいい」
アリサがすぐに言う。
志乃が見ると、彼女はまっすぐ前を向いたままだった。
「噂でも、組織でも、知らない誰かでも。志乃のことを志乃より先に決めるの、むかつくし」
乱暴な言い方なのに、変に優しかった。
美世も静かに続ける。
「全部わからなくても、今わかることはあるよ」
「……何」
「志乃が、今ここにいるってこと」
その一言は、派手ではないのに深く残った。
白塔で呼ばれた声も、屋上の影も、湾岸の弾丸も、どれも現実感を削っていくものばかりだった。だからこそ、その言葉は少しだけ重力みたいに胸へ戻ってくる。
三人は居住区へ近い分岐まで来た。ここから先は、アリサの家と美世の家が同じ方向、志乃の寮棟はひとつ内側へ折れる。街灯は十分に明るく、人通りもまだある。見た目には、安全そのものだった。
「ここから先、ほんとに大丈夫?」
アリサがまた聞く。
「送ってく?」
「そこまではいいよ」
志乃は答えたが、自分の声の頼りなさに気づいていた。
美世が何か言いかけ、そのときだった。
志乃の足が止まる。
「志乃?」
アリサが振り返る。
返事の前に、志乃は視線を右へ向けていた。住宅棟のあいだを抜ける保守車両用の細い通路。その暗がりの奥に、乾いた赤があった。
霊気力の色だった。
燃えた鉄みたいに硬く、ひどく攻撃的な赤。人の感情というより、用途を持った力の色。しかも一つではない。二つ、三つ、まだ奥にいる。
「どうしたの」
今度は美世が聞く。
志乃は唇を引き結んだ。
赤い気配は、こちらを見つけたようにわずかに揺れた。通路の奥で、金属が壁へ軽く触れるような、小さな音がする。
日常の形をして来る。
その言葉が、遅れて胸の奥で鳴った。
「……来た」
志乃の声は、自分でも驚くほど低かった。
「え?」
アリサが問い返す。
次の瞬間、保守通路の暗がりで、赤い気配が一斉に動いた。




