保護対象
「中心にいる、と言っても、あなたが原因だと断定したわけではありません」
平間飛鳥は、先ほどと同じ静かな口調で言った。机上の端末には、湾岸連絡デッキ、学区屋上、保守通路、そしてその周辺の監視記録が薄い線で結ばれている。線の中央に近い位置へ、志乃の行動時間帯が重ねられていた。
東都研究都市では、出来事はすぐに記録へ変わる。再建後の都市機構は、災害と暴動の再発を防ぐため、監視と統計を平穏の基礎に据えている。だからこそ、その記録の中心に自分の名前があることは、保護と同時に拘束にも等しかった。
「では、何なんですか」
志乃は地図から目を離せないまま聞いた。
「私は、事件の被害者なんですか。それとも」
言い切る前に、網走連が腕を組んだまま答えた。
「今のところは、保護対象だ」
その言葉はまっすぐだった。
けれど、志乃の胸は少しも軽くならない。
保護対象。
それは東都では、危険に巻き込まれた者にも、危険を引き寄せる者にも使われる呼び名だった。
「……監視対象と、あまり違わないですね」
志乃がそう言うと、飛鳥の目がわずかに細くなった。
「理解は早いですね」
否定しないのだ、と志乃は思った。
網走が小さく息を吐く。
「言い方の問題だ。君を締め上げに来たわけじゃない」
「でも、行動は見られるんですよね」
「必要ならな」
短く返してから、網走は少しだけ声を落とした。
「見てないと、死ぬことがある」
その一言だけは、経験の重さを含んでいた。
部屋の空気が少し沈む。
飛鳥は端末を閉じ、今度は紙の記録用紙を一枚だけ志乃の前へ置いた。
「順番に確認します。湾岸の件より前からでいい。最近、日常から外れたことはありましたか」
志乃は喉の奥で言葉を探した。
白塔。
あの白い内部。女の声。助けたければ、零を探せ。図書館の棚の奥にあった本。水島桃李の警告。海に近づかないこと。返事をしないこと。
どこから話しても、全部がつながってしまう気がした。
「……湾岸の前に、学区の近くで変な気配を感じたことはあります」
結局、志乃はそう答えた。
「屋上にも、誰かいました」
飛鳥の視線が少しだけ深くなる。
「誰か、ですか」
「顔は見えませんでした。フードをかぶっていて」
「声は」
その問いに、志乃は一瞬だけ黙った。
低い声で言われた二文字を思い出す。
違う。
「……少しだけ」
「内容は」
志乃は机の縁を見つめた。
「よく、聞こえませんでした」
嘘ではない。
だが、本当でもなかった。
飛鳥はその沈黙を記録ごと見るように、数秒だけ志乃を見た。
「白塔については」
不意に出た単語に、志乃の肩がわずかに強張った。
その反応を見て、飛鳥は何も逃さなかった。
「心当たりがある顔をしましたね」
「……東都に住んでいれば、誰でも名前くらいは知っています」
志乃はなるべく平らに答えた。
白塔は東都の都市景観の一部として知られている。旧時代の再建前研究棟、あるいは慰霊施設、あるいは封鎖区画。人によって説明の違う場所だ。その曖昧さを盾にできると、一瞬だけ思った。
だが飛鳥は頷いただけで、追及の仕方を変えた。
「綾崎さん。あなたは、話していない出来事を持っていますね」
言い切りだった。
志乃は思わず顔を上げる。
飛鳥の表情は変わらない。責めるでも、挑発するでもない。ただ観察結果を机に置くように告げているだけだった。
「回答の間が一定じゃない。屋上の人物の件だけでなく、その前段に何かある。しかも、あなたはそれを“嘘として隠す”より、“話さないことで守る”ほうを選んでいる」
志乃の指先が冷えた。
この人は、人の声を聞いているのではない。沈黙の形を見ている。
「……全部話したほうがいいんですか」
ようやく出た声は、少しかすれていた。
飛鳥が答える前に、網走が口を開いた。
「怖いなら、無理に今すぐ全部言わなくていい」
志乃は意外そうにそちらを見る。
網走は椅子にもたれず、前へ少しだけ身を乗り出した。
「ただし、危険に直結することなら別だ。隠したせいで君か、君の近くにいる誰かが死ぬかもしれない」
率直すぎる言い方だった。
けれど、その言葉は志乃の胸にまっすぐ入った。
「今、東都で動いてる連中は、ただの噂好きじゃない」
網走の視線が端末の地図へ落ちる。
「紅叉は、使える力を武器として確保したがる。月砂は、人ごと抱え込んで囲う。どっちも“保護”とか“救済”とか言い換えることはあるが、やってることは大差ない」
飛鳥が静かに補足した。
「学連は少なくとも、学区の人間を勝手に連れ去らせるつもりはありません」
「少なくとも、って言いましたね」
志乃が思わず返すと、飛鳥はほんの少しだけ口元を動かした。
「正直でいたいので」
その返答は、冷たいのに妙に信用できた。
網走が机上の用紙を指先で軽く叩く。
「だから確認する。知らない番号からの接触、追跡、呼びかけ、変な誘導。何かあったか」
志乃のポケットの中で、端末と紙片が同時に重くなった気がした。水島から渡された番号。昨夜届いた無署名のメッセージ。返事をしなかったね、という湿った文面。
言うべきだと思う。
けれど、水島桃李の名前をここで出すことには、別の扉を開く感じがあった。あの人は学連にも知られているはずなのに、なぜか簡単に渡してはいけない情報に思えた。
「……追跡は、ありました」
志乃はそこで止めた。
「メッセージも、少し」
「見せられますか」
飛鳥の問いに、志乃は一拍だけ迷い、それから昨夜の文面だけを表示した。
《零じゃないなら、君は何だ》
網走の眉が動く。
飛鳥は画面を見て、数秒だけ黙った。
「送り主は一人ではないかもしれませんね」
その言い方に、志乃ははっとする。
飛鳥は視線を上げた。
「あなたには、別の接触経路もある」
「……どうしてそう思うんですか」
「今、その文面より先に、隠している相手のほうを気にした顔をしたからです」
志乃は返す言葉を失った。
網走がそこで立ち上がる。面談の区切りをつける動作だった。
「今日はこれでいい」
「いいんですか」
志乃が聞くと、網走は頷いた。
「全部吐かせるのが目的じゃない。君を一人にしないのが先だ」
飛鳥も端末を閉じる。
「綾崎さん。あなたは自分で思っているより、いくつかの勢力に近い位置へ入っています。何か一つでも思い出したら、些細でも共有してください」
そして少しだけ間を置き、言った。
「隠すなら、隠しきれる情報だけにしたほうがいい」
それは脅しではなかった。
観察者からの、静かな忠告だった。
扉の前まで来たところで、網走が最後に振り返る。
「一人になるな」
短い言葉だった。
だが、今までのどの説明よりも強く残った。
面談室を出た志乃は、廊下の白い光の中でしばらく立ち止まった。学区の窓の向こうには、整然とした東都の街並みが見える。管理され、監視され、再建された安全な都市。
そのはずなのに、志乃には今、そのどこに立っても見えない手が伸びてくるように思えた。
全部は話せなかった。
話さなかったことで、かえって浮かび上がったものもある。
学連に知られたくないことがあるのではない。
先に確かめなければならない相手がいる。
中央図書館の、あの穏やかな司書の顔が脳裏に浮かぶ。
水島桃李。
志乃はゆっくり息を吸い、教室へ戻る前に一度だけ端末を握り直した。
次に会うべき相手は、もう決まっていた。




