十一月の朝
十一月の朝は、東都研究都市の白さを少しだけ硬く見せた。
夜をアリサの家で過ごした志乃は、窓の外に広がる中層居住区の景色をしばらく黙って見ていた。再建ガラスの壁面に薄い朝日が反射し、通学用の無人搬送車が規則正しく走っていく。遠くでは研究棟群の上を情報中継ドローンが横切り、その軌道が細い光の線になって空へ残っていた。
整っている。
整いすぎているとも思う。
崩壊のあとに作り直されたこの街は、最初から乱れを想定してできている。学区、研究区、居住区、物流区。人の流れも物の流れも霊気力の監視も、全部が層で分けられている。だからこそ、そこにひとつでも説明のつかないものが混じると、街全体がそれを異物としてざわめき始める。
志乃は端末画面を開いた。
昨夜届いたメッセージは、まだ消していない。
《零じゃないなら、君は何だ》
短い文字列は、朝になっても温度を失わなかった。むしろ、夜よりもはっきりと現実の形を持って見える。
「起きてたんだ」
部屋の戸が少し開き、西野アリサが顔をのぞかせた。まだ制服のリボンを結ぶ前で、髪も半分しか整っていない。
「……うん」
志乃は端末を伏せた。
アリサはそれ以上無理にのぞきこまず、部屋の中へ入ってくる。
「昨日、あんまり眠れてなかったでしょ」
ベッドの脇に立ったまま、彼女は少し眉を寄せた。
「変な夢、見た?」
「白い塔の夢」
そう答えると、自分でも驚くほど声が乾いていた。
アリサは一瞬だけ黙った。白塔のことは、まだ全部を話してはいない。それでも、その名前に触れるだけで十分だった。
「朝ごはんできてるって。食べて、今日は一緒に行こう」
その言い方は、提案というより確認に近かった。
志乃は小さくうなずき、立ち上がった。
アリサの家の食卓には、温かいスープと焼いたパン、それに簡単な卵料理が並んでいた。穏やかな家庭の朝の匂いは、昨夜の追跡や、屋上の影や、あの不気味な問いとあまりにも噛み合わなかった。志乃は湯気の立つカップを両手で包みながら、ようやく少しだけ呼吸を整える。
「今日、湾岸側の便、また少し遅れてるって」
アリサが食卓の端に置いた端末を見ながら言った。
「第二倉庫区画の警備障害、まだ引きずってるみたい」
志乃の手が止まる。
昨夜、水島桃李と別れたあとに見た警報表示が頭に浮かんだ。海側。倉庫区画。追ってきた者たち。高い場所に立っていたフードの影。
「志乃?」
アリサの声に、志乃は我に返る。
「……ううん。ちょっと、気になっただけ」
そう答えたものの、気にならないはずがなかった。
海に近づかないこと。
高い場所へ行かないこと。
返事をしないこと。
水島の忠告は、どれも曖昧なようでいて、ひどく具体的だった。あの人は何をどこまで読んでいるのか。志乃にはまだわからない。ただ、言われたことが次々と現実になっている、それだけは否定できなかった。
登校の道すがら、空気はすでに冬の前触れを含んでいた。東都研究都市の街路樹は、旧来の景観植物と浄化機能を持つ改良樹種が混植されている。葉の色づきも、自然の秋と人工の管理が混ざり合ったどこか不思議な濃さを持っていた。
高架歩廊の大型表示には、五研究都市の朝の速報が流れている。尾張の工業区の出力調整、古都の文化保全区画での発掘公開、新都市の海上輸送規制、ヤマトの医療研究施設拡張。そして東都は、簡潔に一行だけだった。
《湾岸警備一部強化 学区周辺巡回増》
通行人たちはそれを見ても、もう大きくは驚かない。三〇年代の日本では、警備強化も交通制限も、平穏の一部として受け入れられている。災害と暴動と再建の時代を経た街では、安心は管理の形でしか与えられない。
けれど志乃には、その一行が自分のために表示されているように思えた。
「おはよ」
学区の正門前で、古本美世が先に待っていた。いつもの落ち着いた声なのに、どこか様子をうかがう慎重さが混じっている。
「昨日、無事だったんだね」
「うん。アリサのところに泊めてもらった」
志乃が答えると、美世はほっとしたように息をついた。
「朝から、少し変なんだよ」
そう言って、美世は校舎の方へ視線を向けた。
「先生たちも警備課の人も、なんだか慌ただしい」
三人で昇降口へ向かう途中、周囲の空気が普段と違うことは志乃にもすぐわかった。生徒たちの視線が、一定の距離を保ちながら何度も自分の方へ触れてくる。露骨ではない。けれど、たしかに知っている目だった。
昨日の動画。
零の噂。
追われる名前。
教室へ入る前から、もう逃げ場は少しずつ削られている。
「……また見られてる」
志乃が小さく言うと、アリサがすぐ横に並んだ。
「今日は絶対、一人で動かないで」
その言葉に返事をしかけたとき、校内放送のチャイムが鳴った。
朝の連絡にしては少し硬い音だった。
『本日、学区内において外部調査協力者の立ち入りがあります。生徒は指示のない限り通常授業を継続してください』
放送はそれだけだった。
だが、教室前の廊下にいた何人かが、すぐにざわめきを交わす。
「外部調査って?」
誰かが言った。
「霊気力事件の件じゃない?」
別の誰かが、声をひそめる。
「学連が来るって話、ほんとだったんだ」
志乃の足が止まる。
学連。
その名は、これまで噂の中でしか聞いていない。研究都市の秩序維持に関わる学生連合。自治組織であり、実働部隊でもある。表向きは治安協力、実態はそれ以上。そんな曖昧な輪郭だけを、志乃も知っていた。
そしてそのとき、窓の外の中庭を横切る二つの影が見えた。
一人は背が高く、迷いなく歩く男。
もう一人は、その少し後ろを静かに追う、細身の人物。
どちらも学区の教師や警備職員の歩き方ではない。視線の配り方が違った。何かを探しに来た者の目だった。
志乃は無意識に、息を止めた。
十一月の朝は、まだ始まったばかりだった。
それなのに、もう何かがこちらへ届いている。
零を探す側だったはずの自分が、いよいよ本当に探される側へ回ったのだと、その瞬間、志乃ははっきり理解した。




