追われる名前
「今日は一人で帰らせないから」
図書館前の広場で、西野アリサは志乃の端末画面を見たまま、きっぱりと言った。夜の気配が降りはじめた東都研究都市では、研究棟のガラス外壁に広告照明が順番に点っていく。学区と居住区をつなぐ高架歩廊の下を、無人搬送車が低い駆動音を残して走り抜けた。
志乃は端末を伏せた。
《零じゃないなら、君は何だ》
たった一文のはずなのに、画面を消しても文字だけが目の裏に残っている。屋上で聞いた低い声と重なって、文面はただの悪戯では済まない重さを持っていた。
「でも、アリサまで巻き込むかも」
志乃はそう言ったが、声に力はなかった。
本当は、一人で歩きたくなかった。
海側から吹く風が、もうそれだけで不吉に思える。
「巻き込まれるのが嫌なら、なおさら離れない」
アリサは短く言って、志乃の手首を軽く引いた。
二人は中央広場を抜け、学区の南側にある交通結節棟へ向かった。東都は再建後、都市機能を層で分ける設計を徹底している。上層は研究と教育、中層は居住と行政、下層は物流と保守。表向きは整然としているが、その層構造は同時に、人の流れを絞り、監視し、必要があれば遮断するためのものでもあった。
結節棟の手前まで来たところで、志乃は足を止めた。
嫌な色が、いた。
改札前の人混みの中に、均質ではない霊気力の濁りがいくつも混ざっている。通勤帰りの研究員や学生のものとは違う。乾いた赤、油膜みたいな緑、鈍い灰色。意図を持って周囲を見ている人間の色だった。
「どうしたの」
アリサが立ち止まる。
「……あそこ、変な人たちがいる」
志乃は正面を見たまま、小さく答えた。
改札機の脇、案内端末の前、自動販売機の陰。ばらばらに立っているのに、視線の動きだけがつながっている。みな制服でも警備員でもない。だが、ただの通行人でもないことはすぐにわかった。
そのうちの一人が、端末画面をさりげなくこちらへ向けた。拡大された静止画の中に、湾岸デッキで撮られたぼやけた横顔が映っている。
志乃の喉がひりついた。
「探してる……」
口にした瞬間、端末が震えた。
画面には、登録していない番号から短い文章だけが浮かんでいた。
《駅に入らない。左の保守通路へ》
送り主の名はない。
だが、説明を省いて必要なことだけを押しつけるように書く癖には覚えがあった。
「水島さんだ」
志乃はほとんど反射でつぶやいた。
「え」
アリサが聞き返したが、説明している時間はなかった。
「こっち」
志乃は結節棟の手前で進路を変えた。公開通路から外れ、建物の側面に沿うように設けられた保守用回廊へ入る。照明は一段暗く、壁はむき出しの補強材と配線で覆われている。普段なら学生が使う場所ではない。だが非常時の避難経路としてだけは開放されていた。
背後で、人の流れがわずかに乱れる気配がした。
気づかれた、と志乃は思った。
「待って」
アリサが小走りで追いつく。
「ほんとに大丈夫なの、こっち」
「たぶん……でも、あそこよりは」
言い終える前に、回廊の奥からひやりとした空気が流れてきた。
地下保守路へ降りる短い階段の先、閉じた防火扉の向こう側から、細い糸みたいな気配が漏れている。白塔の内部で感じたのと同じ、弱いのに耳へ直接触れるような存在感だった。
志乃の足が止まる。
次の瞬間、声がした。
「……来て」
女の声だった。
息に混じるほど小さいのに、はっきり聞こえた。
志乃の背中に冷汗が流れる。
返事をしないこと。
水島桃李の警告が、ほとんど痛みに近い鮮明さでよみがえった。
「志乃?」
アリサが不安そうにのぞきこむ。
彼女には聞こえていないらしい。
志乃は唇を噛んだ。喉の奥まで返事がせり上がってきたが、どうにか飲み込む。防火扉の向こうで、何かがこちらの沈黙を確かめるように、かすかに揺れた気がした。
「今、何か聞こえた?」
アリサが聞く。
「……ううん」
嘘をついた瞬間、扉の向こうの気配がふっと薄くなった。
その代わり、今度は後ろから足音が近づいてきた。複数だ。急いでいるが、走っているようには聞かせない歩き方。追うことに慣れた人間の足音だった。
「こっち、早く」
アリサが今度は志乃の手を引く。
二人は階段を降りず、そのまま回廊の先へ進んだ。保守通路は結節棟の外周を半周するようにのび、最後は小さなバスベイ脇の非常出口へつながっている。普段なら貨物整備員か設備担当しか通らない場所だ。
薄暗い通路を抜ける間、志乃は背中にいくつもの視線を感じていた。まだ追いつかれてはいない。それでも、名前だけで追われるには十分だった。零という噂が、もうただの雑談ではなく、人を動かす指示になっている。
非常出口の前まで来たところで、また端末が震えた。
《返事をしなかったね》
今度の文面に、志乃は立ち尽くきかけた。
水島ではない。
さっきの送り主とも違う。文章の湿った感じが、まるで声そのものみたいだった。
「どうしたの」
アリサが覗き込み、画面を見て顔をこわばらせる。
「これ、誰……?」
返答はない。
その代わり、非常出口の警告灯が一瞬だけ暗くなり、次いで回復した。電源が揺れたのではなく、何かがそこを横切ったような、不自然な明滅だった。
扉を押し開けると、外はもう夜だった。バスベイには数人しかおらず、頭上の高架を無人連絡便が青白い光を引いて通過していく。海の方角は建物に隠れて見えない。だが、風の匂いだけははっきり塩を含んでいた。
そのとき、向かいの立体通路の上に、人影が立っているのが見えた。
フードをかぶった、細い影。
屋上で見たのと同じ輪郭だった。
志乃が息を呑むと、影は今度は逃げなかった。ただ高い場所からこちらを見下ろし、それからほんのわずかに顔を傾ける。
確かめるように。
迷っているようにも見えた。
「……また、あの人」
アリサの声が震える。
影の足元で、通路灯が一斉にちらついた。白いノイズのような揺れが走り、次の瞬間、追ってきたはずの足音が回廊の出口手前で乱れた。誰かが舌打ちし、小さく怒鳴る声がする。
「電源が落ちたぞ!」
志乃は目を見開いた。
影は何もしていないように見える。なのに、その周囲だけ空気の組み方が変わっていた。霊気力の色ではない。もっと手触りのない、世界の手前を一枚剥がすような空白だ。
そして影は、ようやく口を開いた。
「……まだ、違う」
夜風に削られた低い声が、かすかに届く。
それだけ言うと、人影は身を翻し、立体通路の奥へ消えた。歩いたというより、暗がりへ溶けたような消え方だった。
遅れて、保守通路の出口から男たちが顔を出す。
だがそのときには、バスベイへ警備ドローンが二機滑り込んできていた。青い警告灯が地面を走り、無機質な音声が周囲へ流れる。
「区域外追跡行為を検知。識別を開始します」
男たちは舌打ちし、一般客の流れへ紛れるように散っていった。
志乃はようやく息をついたが、安心はできなかった。助かったのか、見逃されたのか、それとも選別の途中なのか、何一つわからない。
ただ一つはっきりしていることがある。
零という名は、もう噂ではない。
誰かが探し、誰かが試し、誰かが比べている。
そして自分はその網の、もうかなり深いところまで踏み込んでしまっている。
「志乃、今日はうち来なよ」
アリサが真剣な顔で言った。
志乃はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
夜の東都研究都市は、整っているほどに隠れる場所が多い。
白く美しく再建されたこの街のどこかで、いまも自分を値踏みする目が動いている。そんな確信だけを胸に、志乃はアリサと並んで夜の歩廊を歩き出した。




