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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第3節 ロストテクノロジーは誰のためにあるの?

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司書室の警告

「図書館、行くんでしょ」


最上階から降りたあとも、西野アリサは志乃の袖を離さなかった。階段室を出た先の廊下は、放課後のざわめきで満ちている。部活動へ向かう生徒、研究補助の端末を抱えた上級生、警備ドローンの巡回音。いつもの東都研究都市の学区なのに、志乃には全部がひとつ薄い膜の向こうにあるみたいに感じられた。


「……行く」


志乃は短くうなずいた。


屋上で見た影のことを、他の誰より先に水島桃李に話すべきだと直感していた。あの人は知りすぎている。知っていて、わざと全部を言わない。その態度は腹立たしくもあったが、今はそれでも頼るしかなかった。


中央図書館は、夕方の光のなかで静かな白を保っていた。五大研究都市の情報流通の中枢を担う東都の図書館は、学区の施設でありながら半ば自治機関の顔も持っている。入館ゲートの認証音、返却棚を走る自動搬送機、壁面に映る他都市アーカイブとの接続表示。尾張、古都、新都市、ヤマトの名が淡く並び、そのすべての下に東都の紋章が浮かんでいた。


志乃が受付へ向かうと、カウンター奥で本の束を整えていた水島が顔を上げた。今日は薄い灰色のカーディガンを羽織っている。どこにでもいる温厚な司書にしか見えないのに、その目だけは最初から二人が来ることを知っていたみたいに静かだった。


「来ると思っていたよ」


水島はそう言ってから、アリサの抱えた鞄が展示台の端に触れそうになっているのを見て、すっと手を伸ばした。


「それ、少し右へ。本に角をぶつけないで」


声音は柔らかい。


けれどアリサは反射的に姿勢を正し、慌てて鞄を抱え直した。


「……すみません」


そのやりとりだけで、志乃は少しだけ気持ちが現実に戻るのを感じた。やっぱりこの人は、本の前だと妙に怖い。


水島は二人を一般閲覧室の奥、閉架層手前の小さな参考資料室へ通した。金属棚に古い地図と製本新聞が並び、机の上には紙の資料が何層にも分けて積まれている。窓は細く、夕暮れの光はほとんど届かない。その代わり、卓上灯の丸い光だけが、机の中央を切り取るように照らしていた。


「屋上で見たものを、順番に話して」


水島は椅子に座らず、机の脇に立ったまま言った。


志乃は、扉が半開きだったこと、床に残っていた不自然な痕、向かいの実験棟にいたフードの影、そして最後に聞こえた二文字を話した。


「『違う』って、言いました」


その言葉を聞いた瞬間、水島の表情がほんの少しだけ変わった。


驚いたわけではない。


確認が取れた、という顔だった。


「やっぱり」


彼は机上の端末を起動し、東都の簡略地図を表示した。学区、運河、湾岸倉庫、中央図書館、そして白塔の位置。そこへ細い線を三本引く。


「白塔。湾岸デッキ。学区屋上」


細い指先が、ひとつずつ場所を示す。


「君の周りで起きた件は、全部ばらばらに見えて、実際には同じ潮目に乗っている。霊気力の偏りと、噂の拡散と、人の移動。その三つが重なる地点に、必ず誰かが来る」


「誰かって」


アリサが身を乗り出す。


水島はすぐには答えなかった。


代わりに地図の湾岸部を拡大し、いくつかの小さな印を重ねる。赤、青、黒、灰。志乃にはそれが組織の動きだとわかった。東都でくすぶり続けている武装集団や自治組織の動線だ。


「零の噂は、もう学区の雑談だけじゃない」


水島の声は静かだった。


「紅叉は兵器として欲しがる。月砂は“持つ者”ごと囲い込む。学連は保護の名目で管理したがる。面倒なのは、そのどれも自分たちを正しいと思っていることだよ」


志乃の背中が冷えた。


自分の知らないところで、名前だけが先に値札みたいに扱われている。


「でも、屋上の人は」


志乃は地図ではなく、水島の目を見て聞いた。


「私を見て、『違う』って言ったんです」


水島はしばらく黙っていた。


やがて、棚から一冊の古い索引簿を抜き取り、机へ置く。開きはしない。ただ、その重みを手のひらで確かめるように撫でただけだった。


「零という言葉は、人の名として使われることもある。でも本質はもっと状態に近い」


卓上灯の下で、眼鏡がわずかに光る。


「熱、運動、霊気力。そういう“あるはずのもの”を限りなく零へ戻す現象。君が湾岸で弾を消したなら、見た側はそう呼ぶだろうね」


「じゃあ、私が零なんですか」


志乃はほとんど反射でそう聞いていた。


水島は首を横に振る。


「断定はしない」


その答えが、かえって重かった。


「ただ、あれが『違う』と言ったなら、君を探していた対象そのものではなかった、ということだ。少なくとも、向こうはそう判断した」


「向こうって、何なんですか」


アリサの問いに、水島は珍しく曖昧に笑った。


「それがわかっていたら、僕はもっと楽をしてる」


それから彼は端末を閉じ、今度は二人をまっすぐ見た。


「しばらく単独行動はやめなさい。海側、高い場所、人の少ない連絡路も避けること。もし女の声がしたら返事をしない。もしフードの人物をまた見たら、近づかないで僕に連絡する」


そう言って、水島は名刺より少し小さな紙片を差し出した。図書館の内線番号しか書かれていない。だが裏返すと、手書きで別の数字が並んでいた。


「こっちは閉館後でもつながる」


志乃はそれを受け取った。


紙は新しいのに、なぜか妙に重く感じる。


「……水島さんは、どうしてそこまで」


問いかけたとき、水島は少しだけ視線を外した。


窓の外、夕闇の向こうにある白塔の方角を見るみたいに。


「知っているものが黙ると、若い人から先に壊れる」


それだけ言うと、彼はすぐにいつもの穏やかな顔へ戻った。


「それに、僕は司書だからね。間違った資料の読み方は、できれば止めたい」


志乃は、その一言のなかに別の意味が混じっている気がした。資料、というのは本だけじゃない。噂も、人も、街そのものも、この人にとっては読む対象なのだ。


話を終えて参考資料室を出るころには、館内放送が閉館時刻を知らせていた。二人がゲートへ向かう途中、アリサはずっと無言だった。外に出てからようやく、小さく息を吐く。


「……あの人、ほんとにただの司書じゃないよね」


志乃は苦笑しかけて、結局うなずくだけにした。


図書館前の広場には夜の灯りがつき始めている。研究都市の自動街灯は人流に合わせて照度を変える仕組みで、通行者の少ない一角だけがわずかに暗い。その暗がりの向こう、情報掲示塔の大型モニタに、さっきまでなかった短い警報が流れた。


《湾岸第二倉庫区画 警備システム一時障害》


志乃の喉が乾く。


海側だ。


次の瞬間、彼女の端末が震えた。見知らぬ番号からのメッセージが一通だけ届いている。


《零じゃないなら、君は何だ》


志乃の足が止まった。


アリサが横から画面をのぞきこみ、息を呑む。


「誰、これ」


返事はできなかった。


送信者名はない。追跡防止の処理もかかっているらしく、端末の簡易照合は空欄のままだった。なのにその文面だけが、屋上で聞いた低い声と不気味に重なる。


違う。


その続きを、文字にしたような問いだった。


広場を渡る夜風に、かすかに塩の匂いが混じる。


志乃は無意識に海の方を見た。


遠く、湾岸の上空にだけ、赤い警備灯がゆっくり回っていた。

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