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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第3節 ロストテクノロジーは誰のためにあるの?

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屋上の影

「やっぱり、今の人を見たの?」


校舎へ戻りかけた志乃の背中に、西野アリサの声が追いついた。


振り返ると、アリサは息を少し切らしていた。事情聴取のあと、志乃が人目を避けるように校舎の非常階段へ向かったのを見ていたのだろう。夕方の光が窓から斜めに差し込み、階段室の白い壁を薄く染めている。


「……屋上に、誰かいた」


志乃は小さく答えた。


言ってしまってから、自分の声が思っていた以上にかすれていることに気づく。


「先生に言おう」


アリサはすぐにそう言った。


だが志乃は首を振った。


「たぶん、もういない」


それでも、確かめずにはいられなかった。


自分を見ていた影が、昨夜の運河の向こうにいた影と同じだったこと。あれがただの見間違いではなく、自分を確かめに来た何かだったこと。噂が広がる速さより先に、その気配の正体を少しでも掴みたかった。


「じゃあ、なおさら一人で行かないで」


アリサの口調は強かった。


「私も行く」


拒む時間はなかった。志乃が何か言う前に、アリサは踊り場を先に上がっていく。志乃は短く息を吐き、その背を追った。


研究都市の学区棟は、再建後の安全基準に従って設計されている。霊気力災害と暴動の時代を経験した街らしく、屋上への出入口には常時施錠と監視ドローンの巡回が入る。だが最上階の防火扉は、なぜか半開きになっていた。


人ひとりが、ついさっき通ったみたいに。


「……開いてる」


アリサが足を止める。


その一言で、階段室の空気が急に冷えた気がした。


志乃は扉の隙間に手をかけた。金属の感触は冷たい。押し開くと、途端に強い風が吹き込んできて、二人の髪を大きく揺らした。


屋上には誰もいなかった。


広いコンクリート床の向こうに、東都研究都市の夕景が広がっている。研究棟群のガラス壁は沈みかけの光を反射し、遠くには物流デッキと湾岸倉庫、さらに向こうに海が鈍く光っていた。高所から見る街は整っている。自治、研究、居住、工業、学区。崩壊後に組み直された都市機能が、巨大な基盤の上に静かに積み上がっている。


それなのに、志乃にはその端々が薄くひび割れて見えた。


さっきまで誰かがいたはずの場所だけ、空気が違っていた。


色で言えば、無色だった。


赤でも青でもない。重さも熱も湿りもない。ただ、そこだけ世界から一枚はがれたような、空白の輪郭が残っている。


「志乃?」


アリサが不安そうに呼ぶ。


志乃は答えず、金網の縁へ歩み寄った。さっき影が立っていたあたりの床に、靴跡のような擦れがある。だがそれは普通の足跡ではなかった。粉塵が散るでもなく、踏みしめられた形でもない。なにかがそこに立って、周囲の埃だけがきれいに抜け落ちたみたいな、不自然な痕だった。


「誰かいたのは本当みたい」


アリサもしゃがみこんで、その跡を見た。


「でも、どうやって入ったんだろ。ここ、普段閉まってるよね」


「うん……」


志乃は痕の先を目で追った。


金網の向こう、隣の実験棟までには人ひとり分では済まない距離がある。飛び移れる高さでも広さでもない。なのに、無色の気配はそこで終わっていなかった。向こう側へ、細くつながっている。


その瞬間、風の切れ目みたいな違和感が走った。


志乃は反射的に顔を上げる。


向かいの実験棟の屋上縁に、いた。


フードをかぶった細身の影。


逆光で輪郭しか見えない。それでも、こちらを見ていることだけはわかった。顔は見えないのに、見られている感覚だけが鋭く届く。


「……いた」


志乃の声は、息に近かった。


「どこ」


アリサが隣で目を凝らす。


影は動かなかった。


ただ風の中で、フードの端だけがかすかに揺れている。人というより、切り取られた夜の断片がそこに立っているみたいだった。


やがて、その影の肩がわずかに傾いた。


確かめるように。


測るように。


その瞬間、志乃の胸の奥が冷えた。あの感覚だ、とわかった。湾岸で弾丸に触れたとき、自分の手のひらにひらいた空白。あれに近いものが、向こうにもある。


「……あなた、誰」


志乃は思わず声を張った。


返事はすぐには来なかった。


風だけが屋上を横切り、防風アンテナを低く鳴らす。


それから、距離に削られた低い声が届いた。


「……違う」


男とも女ともつかない、若い声だった。


その二文字だけで、志乃の背筋がぞくりとした。


「何が」


志乃は問い返した。


だが、影は答えない。


代わりに一歩だけ後ろへ下がる。その動きがあまりにも軽く、重力から半分ほど外れているように見えた。次の瞬間には、影は屋上の縁から消えていた。


「えっ」


アリサが息を呑む。


落ちたのではない。跳んだのでもない。そこにいたものが、そのまま風景から抜け落ちたような消え方だった。


志乃は金網に駆け寄った。下をのぞきこむ。だが、実験棟の壁面にも地上にも人影はない。警備ドローンの飛行灯だけが遠くを横切っていく。


「いない……」


アリサの声が震える。


「今の、見たよね。いたよね」


「うん」


志乃はうなずいた。


見間違いではない。


しかも、あの声は自分へ向けられていた。


違う。


では何と違ったのか。零ではない、という意味なのか。探していた相手ではない、ということなのか。質問は浮かぶのに、答えは一つも手に入らない。


そのとき、屋上扉の向こうで電子錠の復帰音が鳴った。遅れて、巡回ドローンの接近を告げるアナウンスが流れる。


「屋上区画は立入制限区域です。速やかに校舎内へ戻ってください」


まるで今になって、システムが正常に戻ったみたいだった。


アリサが志乃の袖をつかむ。


「行こう。ここにいたくない」


志乃も逆らわなかった。二人は無言のまま階段を降りた。踊り場まで戻って扉が閉まると、さっきまでの風と空白が嘘みたいに断ち切られる。


だが志乃の胸のざわめきは消えなかった。


一階まで降りる途中、端末が短く震えた。見知らぬ番号から、文字だけのメッセージが一通届いている。


《見られたなら、しばらく高い場所へ行かないこと》


送り主の名はない。


けれど文の癖に、志乃はすぐ気づいた。やわらかいのに命令で、説明を省いているくせに、妙に具体的だ。


水島桃李だ。


志乃は立ち止まり、画面を見つめた。


あの人は、どこまで知っているのだろう。


屋上にいた影のことも。


自分が見られていることも。


そして何より、自分と同じような空白を持つ誰かが、この東都のどこかにいることも。


階下の窓から見えた湾岸の空は、もう夕闇に沈みはじめていた。海のほうから吹く風は見えないのに、街のすき間を確かに通ってくる。


志乃は端末を握りしめたまま、ゆっくりと息を吐いた。


噂になったのは、自分だけではないのかもしれない。


零を探していたはずなのに、零に似た何かのほうから、自分を見つけはじめている。


そんな予感だけが、冷たいまま胸の底に残っていた。

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