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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第3節 ロストテクノロジーは誰のためにあるの?

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零の噂

翌朝、東都研究都市の学区は、いつもより少しだけ騒がしかった。


災害と暴動の時代をくぐり抜けて作られたこの街では、何かが起これば情報はすぐに広がる。行政の公式網よりも早く、学生同士の共有板よりも細かく、個人端末の短い動画と匿名の書き込みが街路の風みたいに行き交う。再建都市の住民は、危険を知らせるために噂を流し、同時に、その噂に飲まれることにも慣れていた。


志乃が教室へ入ったとき、その空気はもうできあがっていた。


「ねえ、綾崎」


後ろの席の男子が、いつもより妙に声をひそめて呼び止めた。


「昨日の湾岸のやつ、見た?」


志乃の心臓が、ひとつ強く鳴った。


「……何のこと」


「保守デッキの発砲事件。動画、上がってた」


彼は端末を少し持ち上げたが、志乃は首を振った。


見たくなかった。


だが、見なくてもわかった。昨夜のあの場には人が多すぎた。完全に隠しきれる出来事ではなかったのだ。


「志乃」


席につく前に、西野アリサが立ち上がって近づいてきた。表情が硬い。


「ちょっと、こっち」


古本美世も無言でうなずき、三人は窓際へ寄った。教室のざわめきは、あからさまにこちらへ意識を向けている。志乃には、それが肌に貼りつくみたいに感じられた。


「昨日、湾岸通ったよね」


アリサはそう切り出して、端末画面を見せた。


数秒しかない、手ぶれの激しい映像だった。非常通路、泣いている子ども、母親の叫び。そこで白いノイズが走り、次の瞬間には何かが消えている。画面の端に映る自分の横顔はぼやけていたが、志乃には、それが自分だとすぐにわかった。


「画質荒いし、顔もちゃんと見えない。でも」


アリサが唇を噛む。


「これ、志乃じゃないの」


「……似てるだけかもしれない」


そう答えた声が、自分でも頼りなく聞こえた。


美世が画面下の書き込み欄を指で止める。そこには短い言葉がいくつも並んでいた。


《弾消えてない?》


《防壁系の霊気力?》


《いや、あれ“抜けた”感じだろ》


《零じゃん》


《東都に零がいる》


志乃の指先が冷えた。


「零、って」


思わず漏れた声に、美世が目を上げた。


「志乃、前にもその名前、気にしてたよね」


志乃は返事ができなかった。


本の中に書かれていた名前。白塔の中で与えられた言葉。助けたければ、零を探せ。その零が、いまは噂の便利な名前みたいに、匿名の群れの中を走っている。


「志乃」


アリサが低く言う。


「本当に、何もないの」


「……わからない」


志乃は正直にそう言うしかなかった。


「私にも、何が起きたのか、まだ」


授業が始まっても、落ち着かなかった。


教師が再建史の講義で、二〇三九年以後の自治研究都市設立について説明している。東都、尾張、古都、新都市、ヤマト。五つの研究都市がどう役割を分け、経済と治安と霊気力管理を再編したか。その話は本来なら興味深いはずなのに、志乃の耳にはほとんど入らない。


背中のあちこちに視線を感じる。


前方、斜め後ろ、廊下側の窓。誰も露骨には見ていないのに、見られているのがわかる。昨日の映像を見たのだろうか。あるいは、もっと別の誰かが、もう志乃の存在に印をつけているのだろうか。


昼休みになると、噂はさらに形を持ち始めていた。


「湾岸で撃たれかけた子、助かったんだって」


食堂の列で、知らない女子生徒が言う。


「霊気力で止めたらしいよ」


「止めたんじゃなくて、消したんでしょ」


別の声が混じる。


「学連の人が見に来てたって」


「じゃあ、やっぱり本物?」


「零って、男じゃなかったの?」


その言葉を聞いた瞬間、志乃はトレーを持つ手に力を入れすぎて、スプーンを鳴らした。金属音が小さく響き、周囲の会話が一瞬だけ途切れる。


すぐにまた、ざわめきは元に戻った。


だが、もう十分だった。


名前だけが先に歩いている。


零。


誰なのかも、何なのかもわからないまま、その名前だけが街の都合で形を変え、人を飲み込んでいく。


放課後、志乃は人の少ない中庭へ逃げるように出た。中央庭園の人工池には、浄化用の微細藻が淡い光を浮かべている。ベンチに腰を下ろすと、ようやく呼吸が少し整った。


水島桃李の言葉がよみがえる。


近づきすぎないこと。


海に近づかないこと。


呼ばれても、返事をしないこと。


あの人は、どこまで知っているのだろう。いや、どこまで予測していたのだろう。志乃が巻き込まれることも、噂がこういう形で街を走ることも。


「綾崎さん?」


不意に名を呼ばれ、顔を上げる。


学区警備課の腕章をつけた職員が二人、立っていた。どちらも事務的な笑みを浮かべている。


「昨日の湾岸連絡デッキの件で、少し確認を」


志乃の喉が乾いた。


「目撃者として、お話をうかがえますか」


「……はい」


短い聞き取りは、それ自体は穏やかに終わった。志乃が説明したのは、発砲があったこと、子どもを引き寄せたこと、ドローンが来たことだけだ。弾丸がどうなったのかと問われたときだけ、彼女は曖昧に言葉を濁した。職員たちはそれ以上追及しなかったが、片方が小型端末に何かを入力した瞬間、嫌な予感が胸をよぎった。


記録された。


まだ確定ではなくても、どこかの欄に自分の名前が入った。


事情聴取を終えて校舎へ戻る途中、志乃はふと足を止めた。


屋上だった。


西日の差すコンクリートの縁に、誰かが立っている。


遠い。顔は見えない。ただ、細身の人影が、金網の向こうからこちらを見下ろしていた。風に、フードの端だけが揺れる。


昨夜、運河の向こうにいた影と同じ輪郭だった。


志乃の背筋に寒気が走る。


「……誰」


声は、思ったより小さく出た。


人影は答えない。


代わりに、ゆっくりと片手を上げた。


手招きにも見えたし、確認の合図にも見えた。


次の瞬間、屋上の避難灯が明滅し、視界がわずかに白く飛ぶ。瞬きをして見上げなおしたときには、もうそこには誰もいなかった。


残っていたのは、コンクリートの縁に揺れる夕方の光だけだった。


背後で、通りすがりの学生たちの声がした。


「あれ、今の綾崎じゃない?」


「昨日の動画の子だろ」


「やっぱりそうだって。ほら、零の――」


最後まで聞かず、志乃は歩き出した。


けれど、その言葉は追ってきた。


名前ではなく、噂として。


人ではなく、役割として。


まだ何者でもないはずの自分が、街のなかで別の何かにされていく。その感覚だけが、足元からじわじわと這い上がってきていた。

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