海に近づかないこと
中央図書館の閉架層は、東都研究都市の喧騒と切り離されたように静まり返っていた。五大研究都市のなかでも、東都の図書館は情報の集積において群を抜くと言われている。学術、再建史、霊気力災害、旧政府文書、都市工学、そして考古科学。世界が壊れたあとの知識が、ここにはあまりにも多すぎるほど積まれていた。
「まず確認したいんだけど、折っていないね。濡らしてもいない。書き込みも、ない」
声音はやわらかい。
だが、その確認は冗談ではないと志乃にもわかった。
「は、はい」
「それならいい」
男はそこで、ようやく少しだけ笑った。
「本は、人間よりずっと長く生きるからね。扱いは慎重に」
志乃は、そこで初めて理解した。この人は司書だ。ただの司書ではない。本のことになると、空気そのものを正してしまう種類の人間だ。
「……あなたは」
「水島桃李。ここの司書だよ」
男――水島は、そう名乗った。
それだけの名乗りなのに、なぜか志乃には、それが表向きの半分にすぎないように思えた。彼は図書館の職員という肩書の内側に、もっと多くのものを折りたたんで隠している。そんな感じがした。
「その本の題名、読んだ?」
「少しだけ……」
「どこまで」
「東都のことが書いてあるところまでです。今の街みたいで、でも……おかしくて」
水島の視線が、志乃の手元の本へ落ちる。
古びた紙の匂いが、ふっと強くなった気がした。
「おかしいんじゃない。これは、よくできすぎているんだよ」
志乃は息を呑んだ。
「やっぱり、これは作り話じゃないんですか」
「作り話に見せかけた記録。あるいは、記録に見せかけた予測」
水島は本へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
まるで、触れなくても重さを知っているような仕草だった。
「東都は、壊れた世界のあとに作られた街だ。二〇三五年の大震災と第三次世界的恐慌、二〇三九年の救済と崩落、その残骸の上に立っている。だから人は、未来を知りたがる。次に何が壊れるのかをね」
志乃は、本の中の文を思い出していた。
東都が落ちる。
零が現れる。
あまりにもはっきり書かれていた一文が、まだ喉の奥に棘のように残っている。
「零って、何なんですか」
「人の名前だと思う?」
水島の問い返しは静かだった。
「……わかりません」
「わからないうちは、それでいい」
彼はそう言ってから、わずかに声を落とした。
「ただし、近づきすぎないことだ」
志乃は眉を寄せる。
「白塔に、ですか」
「それもある」
水島は眼鏡の位置を指先で直した。
そして、妙に日常的な口調で言った。
「海に近づかないこと」
志乃は思わず聞き返した。
「海……?」
「湾岸部、運河沿い、埠頭、海風の強い夜道。しばらくは避けたほうがいい」
あまりにも具体的な忠告だった。
志乃の胸に、じわりと不安が滲む。
「どうしてですか」
「そういう流れだから」
「流れ、って……」
「情報には潮目がある。人の噂も、組織の動きも、霊気力の偏りも。全部、ばらばらに見えて、ある時ひとつの方向へ寄る」
水島は、棚の影へ視線を向けた。
「いま東都では、よくないものが海側へ寄っている」
その言葉は曖昧なのに、奇妙な確信があった。
志乃は、この男がただ資料を管理しているだけの人間ではないのだと、ますます強く感じた。
「……予測、ですか」
「癖みたいなものだよ」
水島は肩をすくめた。
「資料を集めて、並べて、欠けを見つける。そうすると、次に来るものが見えることがある。娘にもよく言うんだ。見えるからって、全部見に行く必要はないってね」
娘。
その一言だけが、不思議と人間らしい温度を持って耳に残った。
けれど次の瞬間には、水島の視線はまた本へ戻っている。
「それは今日はここに置いていきなさい」
「でも――」
「持ち出しは不可」
口調はやわらかいままだった。
それでも逆らえない硬さがあった。
志乃は観念して、本を差し出した。水島は受け取ると、表紙の端をそっと撫で、破損がないことを確認してから、抱えるように腕へ収めた。
その仕草だけで、彼がこの一冊を単なる禁帯出資料としてではなく、危うい証拠品として扱っているのがわかった。
「また読みたいなら、僕を通して」
「読ませてくれるんですか」
「君がまだ読む必要があるなら」
答えになっているようで、なっていない。
それでも、水島はそれ以上を話す気はないらしかった。
「最後にひとつだけ」
志乃が立ち去ろうとしたとき、水島が呼び止めた。
「君、最近、女の声を聞いただろう」
志乃の足が止まる。
白塔の奥、冷えた空気の中で聞いた、あの細い声が脳裏によみがえった。
「……どうして、それを」
「返事をしないこと」
水島の目が、初めて司書ではなく、別の何かの目になった。
古い災厄を知る者の目だった。
「呼ばれても、頼まれても、助けを乞われても。少なくとも、次に会うまでは」
それだけ言うと、水島は踵を返した。
本を抱えた背中は、閉架層の薄暗さへ自然に溶けていく。まるで、最初から書架の一部だったかのように。
志乃はしばらくその場に立ち尽くした。
やがて図書館を出ると、外はもう夕方だった。再建ガラスに覆われた東都研究都市の街並みは、橙色の空を受けて鈍く光っている。空中歩廊を行く学生たち、研究棟の広告面に流れる霊気力適性検査の案内、遠くを走る無人輸送車。その全部がいつも通りに見えるのに、世界の薄皮一枚下で、別の流れが動き始めている気がした。
海に近づかないこと。
ただの忠告にしては、耳に残りすぎる。
そのとき、東の方角で、低いサイレンが鳴った。
湾岸部のほうから吹いてきた風は、冷たく、かすかに塩の匂いがした。
志乃は無意識に、そちらを見た。
見てしまってから、自分がもう忠告を破りかけていることに気づいた




