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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第3節 ロストテクノロジーは誰のためにあるの?

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海に近づかないこと

中央図書館の閉架層は、東都研究都市の喧騒と切り離されたように静まり返っていた。五大研究都市のなかでも、東都の図書館は情報の集積において群を抜くと言われている。学術、再建史、霊気力災害、旧政府文書、都市工学、そして考古科学。世界が壊れたあとの知識が、ここにはあまりにも多すぎるほど積まれていた。


「まず確認したいんだけど、折っていないね。濡らしてもいない。書き込みも、ない」


声音はやわらかい。


だが、その確認は冗談ではないと志乃にもわかった。


「は、はい」


「それならいい」


男はそこで、ようやく少しだけ笑った。


「本は、人間よりずっと長く生きるからね。扱いは慎重に」


志乃は、そこで初めて理解した。この人は司書だ。ただの司書ではない。本のことになると、空気そのものを正してしまう種類の人間だ。


「……あなたは」


「水島桃李。ここの司書だよ」


男――水島は、そう名乗った。


それだけの名乗りなのに、なぜか志乃には、それが表向きの半分にすぎないように思えた。彼は図書館の職員という肩書の内側に、もっと多くのものを折りたたんで隠している。そんな感じがした。


「その本の題名、読んだ?」


「少しだけ……」


「どこまで」


「東都のことが書いてあるところまでです。今の街みたいで、でも……おかしくて」


水島の視線が、志乃の手元の本へ落ちる。


古びた紙の匂いが、ふっと強くなった気がした。


「おかしいんじゃない。これは、よくできすぎているんだよ」


志乃は息を呑んだ。


「やっぱり、これは作り話じゃないんですか」


「作り話に見せかけた記録。あるいは、記録に見せかけた予測」


水島は本へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


まるで、触れなくても重さを知っているような仕草だった。


「東都は、壊れた世界のあとに作られた街だ。二〇三五年の大震災と第三次世界的恐慌、二〇三九年の救済と崩落、その残骸の上に立っている。だから人は、未来を知りたがる。次に何が壊れるのかをね」


志乃は、本の中の文を思い出していた。


東都が落ちる。


零が現れる。


あまりにもはっきり書かれていた一文が、まだ喉の奥に棘のように残っている。


「零って、何なんですか」


「人の名前だと思う?」


水島の問い返しは静かだった。


「……わかりません」


「わからないうちは、それでいい」


彼はそう言ってから、わずかに声を落とした。


「ただし、近づきすぎないことだ」


志乃は眉を寄せる。


「白塔に、ですか」


「それもある」


水島は眼鏡の位置を指先で直した。


そして、妙に日常的な口調で言った。


「海に近づかないこと」


志乃は思わず聞き返した。


「海……?」


「湾岸部、運河沿い、埠頭、海風の強い夜道。しばらくは避けたほうがいい」


あまりにも具体的な忠告だった。


志乃の胸に、じわりと不安が滲む。


「どうしてですか」


「そういう流れだから」


「流れ、って……」


「情報には潮目がある。人の噂も、組織の動きも、霊気力の偏りも。全部、ばらばらに見えて、ある時ひとつの方向へ寄る」


水島は、棚の影へ視線を向けた。


「いま東都では、よくないものが海側へ寄っている」


その言葉は曖昧なのに、奇妙な確信があった。


志乃は、この男がただ資料を管理しているだけの人間ではないのだと、ますます強く感じた。


「……予測、ですか」


「癖みたいなものだよ」


水島は肩をすくめた。


「資料を集めて、並べて、欠けを見つける。そうすると、次に来るものが見えることがある。娘にもよく言うんだ。見えるからって、全部見に行く必要はないってね」


娘。


その一言だけが、不思議と人間らしい温度を持って耳に残った。


けれど次の瞬間には、水島の視線はまた本へ戻っている。


「それは今日はここに置いていきなさい」


「でも――」


「持ち出しは不可」


口調はやわらかいままだった。


それでも逆らえない硬さがあった。


志乃は観念して、本を差し出した。水島は受け取ると、表紙の端をそっと撫で、破損がないことを確認してから、抱えるように腕へ収めた。


その仕草だけで、彼がこの一冊を単なる禁帯出資料としてではなく、危うい証拠品として扱っているのがわかった。


「また読みたいなら、僕を通して」


「読ませてくれるんですか」


「君がまだ読む必要があるなら」


答えになっているようで、なっていない。


それでも、水島はそれ以上を話す気はないらしかった。


「最後にひとつだけ」


志乃が立ち去ろうとしたとき、水島が呼び止めた。


「君、最近、女の声を聞いただろう」


志乃の足が止まる。


白塔の奥、冷えた空気の中で聞いた、あの細い声が脳裏によみがえった。


「……どうして、それを」


「返事をしないこと」


水島の目が、初めて司書ではなく、別の何かの目になった。


古い災厄を知る者の目だった。


「呼ばれても、頼まれても、助けを乞われても。少なくとも、次に会うまでは」


それだけ言うと、水島は踵を返した。


本を抱えた背中は、閉架層の薄暗さへ自然に溶けていく。まるで、最初から書架の一部だったかのように。


志乃はしばらくその場に立ち尽くした。


やがて図書館を出ると、外はもう夕方だった。再建ガラスに覆われた東都研究都市の街並みは、橙色の空を受けて鈍く光っている。空中歩廊を行く学生たち、研究棟の広告面に流れる霊気力適性検査の案内、遠くを走る無人輸送車。その全部がいつも通りに見えるのに、世界の薄皮一枚下で、別の流れが動き始めている気がした。


海に近づかないこと。


ただの忠告にしては、耳に残りすぎる。


そのとき、東の方角で、低いサイレンが鳴った。


湾岸部のほうから吹いてきた風は、冷たく、かすかに塩の匂いがした。


志乃は無意識に、そちらを見た。


見てしまってから、自分がもう忠告を破りかけていることに気づいた

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