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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第3節 ロストテクノロジーは誰のためにあるの?

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肩を叩くもの

そのときだった。


背後に、かすかな気配が生まれる。


足音は聞こえなかった。


図書館の床は静かだし、閲覧席のあいだを歩く人間はいくらでもいる。だから本来なら、そこまで気にするほどのことではない。だが、いまの志乃の神経は本に触れすぎて細くなっていた。


誰かが、自分の真後ろに立っている。


そう感じた瞬間、首筋の産毛がわずかに逆立つ。


志乃は反射的に振り返ろうとした。


けれど、その一瞬だけ身体が遅れた。


もし背後にいるのが、図書館の職員だったら。


あるいは、この本をここへ置いた当人だったら。


そんな考えが、遅れて胸へ落ちてきたからだ。


視線だけを横へ滑らせる。


そこには棚の端と、通路に落ちる淡い光しか見えない。


誰もいないようにも見える。


その曖昧さが、かえって嫌だった。


志乃はゆっくりと本を閉じる。


机の上へ置いたままにするべきか、鞄へ入れるべきか、一瞬だけ迷う。だがその判断がつくより早く、背後の気配がもう半歩だけ近づいた。


今度は、はっきりわかった。


人だ。


幽霊でも、気のせいでもない。


呼吸の気配はないのに、そこにいる輪郭だけが妙に鮮明だった。


志乃の右肩に、乾いた指先がそっと触れた。


叩く、というより、気づかせるための軽い接触だった。


それでも志乃は大きく肩を震わせた。


心臓が跳ねる。


本能的に息を止める。


そして、ほとんど反射で振り返った。


肩へ触れた指先の感触が、まだ薄く残っている。図書館の中で誰かに声をかけられること自体は珍しくない。けれど今の志乃には、そのごく普通の接触さえ、白塔の地下の扉が開く音と同じ種類の不穏さを持っていた。


そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。


年齢は、ひと目で言い切れない。中年より上には見える。だが老人と呼ぶには、姿勢が妙に真っ直ぐだった。白いひげを整え、細い縁の眼鏡をかけている。服装は地味で、図書館の空気に馴染みすぎていて、逆に最初からそこにいたみたいにも見えた。


決定的に印象へ残るのは目だった。


柔らかいわけではない。


冷たいわけでもない。


ただ、こちらの反応より一手先で物事を見ている人間の目だった。


「驚かせてしまったかな」


男は静かな声で言った。


謝っているようでいて、実際にはほとんど感情が乗っていない。声量も控えめなのに、不思議と耳へ残る。


志乃は咄嗟に言葉を返せなかった。


相手が何者なのかもわからない。


ただの司書かもしれない。


だが、いまの自分は“ただの司書”という可能性さえ簡単には信じられなかった。


「……何ですか」


どうにかそれだけ口にすると、男の視線が机の上へ落ちた。


正確には、志乃ではなく、机上の本へ。


『ロストテクノロジーは誰のためにあるの?』


濃紺の表紙に白い題字だけが浮かぶ、その本へ目をやった瞬間、男の表情がほんのわずかに変わった。


驚き、というほど露骨ではない。


だが、静かな水面の下で何かが一気に沈んだような変化だった。


「それを」


男は短く言いかけて、口を閉じた。


志乃の喉が小さく動く。


やはり、この本を知っている。


そう思った。


「知ってるんですか」


志乃がそう訊くと、男はすぐには答えなかった。


代わりに、本の表紙を見つめたまま、ひどく小さな声で呟く。


「また彼の仕業か」


その一言は、独り言に近かった。


けれど志乃の耳には、はっきり届いた。


彼。


誰のことだろう。


本を置いた人物か。


あるいは、この本を書いた人物か。


志乃が次の問いを口にするより先に、男はさらに低く続けた。


「一体何手先を読んでいるんだ」


今度の言葉は、ほとんど自分自身へ向けたものに聞こえた。


感心とも警戒ともつかない、奇妙な響きだった。


志乃の背中を、冷たいものが滑る。


この男は本のことを知っている。


しかも、単に目にしたことがあるという程度ではない。“彼”とやらの思考や行動原理まで想定しているような言い方だった。


「あなた、誰なんですか」


志乃がそう言うと、男はようやく視線を上げた。


その目は落ち着いている。


志乃の怯えも警戒も、全部いったん受け止めた上で、それでも説明は最小限にとどめるつもりでいる目だった。


「水島」


男は短く名乗った。


「ここの司書をしている」


司書。


たしかに、見た目だけなら図書館にいても違和感はない。むしろ似合いすぎるくらいだ。白いひげも眼鏡も、背筋の伸びた立ち姿も、古い本の匂いが染みついたこの空間によく馴染んでいる。


それでも志乃には、彼が単なる“本を管理する人”には見えなかった。


どちらかといえば、この図書館にある何かを見張っている人間に近い。


「司書なら」


志乃は慎重に言葉を選ぶ。


「この本、図書館の本じゃないですよね」


水島は否定もしなかった。


肯定もしない。


その曖昧さが、かえって肯定に近く聞こえる。


彼はゆっくりと机の脇へ回り込み、本の表紙を見下ろした。


その動きに無駄はない。


静かで、自然で、けれどこちらへ逃げ道を与えない歩き方だった。


「どこで見つけた」


問われて、志乃は一瞬だけ迷う。


棚の奥、と答えることに危険はないはずだ。けれど目の前の男に情報を渡すたび、自分の手元から何かが消えていく気もした。


「都市史の棚の、奥です」


結局そう答えると、水島は小さく息を吐いた。


「やはり」


その反応は、予想通りだったというより、確認が終わった人間のものだった。


志乃は机の端へ手を置く。


逃げるほどではない。


けれど、いつでも立ち上がれるようにはしていた。


「どういうことですか」


今度は少しだけ強く訊く。


「この本、何なんですか」


水島は返事の代わりに、志乃の目の前から本を持ち上げた。


動きは静かだったが、躊躇がなかった。


まるで最初から、自分が回収するべきものを手に取っただけみたいに自然だった。


「ちょっと」


志乃は思わず手を伸ばしかける。


だが、水島が本を開く手つきがあまりにも慣れていて、その場で止まってしまった。


彼は数ページだけ目を通す。


速い。


飛ばし読みではない。内容を確かめるために、必要な箇所だけを正確に追っているような視線だった。


そして、ほんのわずかに眉を寄せる。


「……ここまで書いたか」


それは、怒りにも呆れにも取れる声だった。


志乃は自分の鼓動が早まるのを感じた。


知っている。


やはり、この男は知っている。


「返してください」


自分でも驚くほどすぐに、その言葉が出た。


水島は本から目を離し、志乃を見る。


まっすぐな視線だった。


値踏みでもなく、脅しでもなく、ただ“君はどこまで知ってしまっているのか”を測っているような目。


「君は、どこまで読んだ」


低く落ち着いた声だった。


質問の形をしているのに、逃げ方を探られている気もする。


志乃は唇を引き結んだ。


東都が滅びるところまで、とは言いたくなかった。


だが誤魔化せる気もしない。


「……少しだけです」


苦しい答えだった。


水島はそれを否定しなかった。


ただ、次に口を開くまでの沈黙が少し長かった。


図書館の空気は静かだ。


静かすぎて、机の上に置いた志乃の指先がわずかに震えているのまで、自分でよくわかった。


やがて水島は、本を閉じた。


濃紺の表紙が、乾いた音を立てる。


「少しで済んだなら」


彼は言う。


「まだ引き返せる」


その言い方に、志乃は反射的に眉をひそめた。


引き返す。


そんな言葉がいまさら通用するのだろうか。白塔の地下で呪いを受け、本を読み、零の噂を追い、東都の裏側まで覗いてしまった自分が。


「何からですか」


志乃がそう訊くと、水島は本を手にしたまま、少しだけ視線を落とした。


その横顔には、疲れとも諦めともつかない影があった。


けれどそれは長く続かない。


次に彼が顔を上げたとき、目の奥にはもう別の静けさがあった。


「少し、話をしよう」


そう言って、水島は図書館の奥まった通路のほうへ視線を向けた。


そこは閲覧席から少し離れ、窓もない、書架と書架のあいだの細い影になっている場所だった。


志乃はごく小さく息を呑む。


逃げたほうがいいのかもしれない。


けれど、ここでこの男を逃したら、二度とこの本のことも、“彼”のこともわからなくなる気がした。


水島はもう一度だけ、静かに言う。


「君にとっても、そのほうがいい」


その言葉が何を意味しているのか、まだ志乃にはわからなかった。

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