肩を叩くもの
そのときだった。
背後に、かすかな気配が生まれる。
足音は聞こえなかった。
図書館の床は静かだし、閲覧席のあいだを歩く人間はいくらでもいる。だから本来なら、そこまで気にするほどのことではない。だが、いまの志乃の神経は本に触れすぎて細くなっていた。
誰かが、自分の真後ろに立っている。
そう感じた瞬間、首筋の産毛がわずかに逆立つ。
志乃は反射的に振り返ろうとした。
けれど、その一瞬だけ身体が遅れた。
もし背後にいるのが、図書館の職員だったら。
あるいは、この本をここへ置いた当人だったら。
そんな考えが、遅れて胸へ落ちてきたからだ。
視線だけを横へ滑らせる。
そこには棚の端と、通路に落ちる淡い光しか見えない。
誰もいないようにも見える。
その曖昧さが、かえって嫌だった。
志乃はゆっくりと本を閉じる。
机の上へ置いたままにするべきか、鞄へ入れるべきか、一瞬だけ迷う。だがその判断がつくより早く、背後の気配がもう半歩だけ近づいた。
今度は、はっきりわかった。
人だ。
幽霊でも、気のせいでもない。
呼吸の気配はないのに、そこにいる輪郭だけが妙に鮮明だった。
志乃の右肩に、乾いた指先がそっと触れた。
叩く、というより、気づかせるための軽い接触だった。
それでも志乃は大きく肩を震わせた。
心臓が跳ねる。
本能的に息を止める。
そして、ほとんど反射で振り返った。
肩へ触れた指先の感触が、まだ薄く残っている。図書館の中で誰かに声をかけられること自体は珍しくない。けれど今の志乃には、そのごく普通の接触さえ、白塔の地下の扉が開く音と同じ種類の不穏さを持っていた。
そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
年齢は、ひと目で言い切れない。中年より上には見える。だが老人と呼ぶには、姿勢が妙に真っ直ぐだった。白いひげを整え、細い縁の眼鏡をかけている。服装は地味で、図書館の空気に馴染みすぎていて、逆に最初からそこにいたみたいにも見えた。
決定的に印象へ残るのは目だった。
柔らかいわけではない。
冷たいわけでもない。
ただ、こちらの反応より一手先で物事を見ている人間の目だった。
「驚かせてしまったかな」
男は静かな声で言った。
謝っているようでいて、実際にはほとんど感情が乗っていない。声量も控えめなのに、不思議と耳へ残る。
志乃は咄嗟に言葉を返せなかった。
相手が何者なのかもわからない。
ただの司書かもしれない。
だが、いまの自分は“ただの司書”という可能性さえ簡単には信じられなかった。
「……何ですか」
どうにかそれだけ口にすると、男の視線が机の上へ落ちた。
正確には、志乃ではなく、机上の本へ。
『ロストテクノロジーは誰のためにあるの?』
濃紺の表紙に白い題字だけが浮かぶ、その本へ目をやった瞬間、男の表情がほんのわずかに変わった。
驚き、というほど露骨ではない。
だが、静かな水面の下で何かが一気に沈んだような変化だった。
「それを」
男は短く言いかけて、口を閉じた。
志乃の喉が小さく動く。
やはり、この本を知っている。
そう思った。
「知ってるんですか」
志乃がそう訊くと、男はすぐには答えなかった。
代わりに、本の表紙を見つめたまま、ひどく小さな声で呟く。
「また彼の仕業か」
その一言は、独り言に近かった。
けれど志乃の耳には、はっきり届いた。
彼。
誰のことだろう。
本を置いた人物か。
あるいは、この本を書いた人物か。
志乃が次の問いを口にするより先に、男はさらに低く続けた。
「一体何手先を読んでいるんだ」
今度の言葉は、ほとんど自分自身へ向けたものに聞こえた。
感心とも警戒ともつかない、奇妙な響きだった。
志乃の背中を、冷たいものが滑る。
この男は本のことを知っている。
しかも、単に目にしたことがあるという程度ではない。“彼”とやらの思考や行動原理まで想定しているような言い方だった。
「あなた、誰なんですか」
志乃がそう言うと、男はようやく視線を上げた。
その目は落ち着いている。
志乃の怯えも警戒も、全部いったん受け止めた上で、それでも説明は最小限にとどめるつもりでいる目だった。
「水島」
男は短く名乗った。
「ここの司書をしている」
司書。
たしかに、見た目だけなら図書館にいても違和感はない。むしろ似合いすぎるくらいだ。白いひげも眼鏡も、背筋の伸びた立ち姿も、古い本の匂いが染みついたこの空間によく馴染んでいる。
それでも志乃には、彼が単なる“本を管理する人”には見えなかった。
どちらかといえば、この図書館にある何かを見張っている人間に近い。
「司書なら」
志乃は慎重に言葉を選ぶ。
「この本、図書館の本じゃないですよね」
水島は否定もしなかった。
肯定もしない。
その曖昧さが、かえって肯定に近く聞こえる。
彼はゆっくりと机の脇へ回り込み、本の表紙を見下ろした。
その動きに無駄はない。
静かで、自然で、けれどこちらへ逃げ道を与えない歩き方だった。
「どこで見つけた」
問われて、志乃は一瞬だけ迷う。
棚の奥、と答えることに危険はないはずだ。けれど目の前の男に情報を渡すたび、自分の手元から何かが消えていく気もした。
「都市史の棚の、奥です」
結局そう答えると、水島は小さく息を吐いた。
「やはり」
その反応は、予想通りだったというより、確認が終わった人間のものだった。
志乃は机の端へ手を置く。
逃げるほどではない。
けれど、いつでも立ち上がれるようにはしていた。
「どういうことですか」
今度は少しだけ強く訊く。
「この本、何なんですか」
水島は返事の代わりに、志乃の目の前から本を持ち上げた。
動きは静かだったが、躊躇がなかった。
まるで最初から、自分が回収するべきものを手に取っただけみたいに自然だった。
「ちょっと」
志乃は思わず手を伸ばしかける。
だが、水島が本を開く手つきがあまりにも慣れていて、その場で止まってしまった。
彼は数ページだけ目を通す。
速い。
飛ばし読みではない。内容を確かめるために、必要な箇所だけを正確に追っているような視線だった。
そして、ほんのわずかに眉を寄せる。
「……ここまで書いたか」
それは、怒りにも呆れにも取れる声だった。
志乃は自分の鼓動が早まるのを感じた。
知っている。
やはり、この男は知っている。
「返してください」
自分でも驚くほどすぐに、その言葉が出た。
水島は本から目を離し、志乃を見る。
まっすぐな視線だった。
値踏みでもなく、脅しでもなく、ただ“君はどこまで知ってしまっているのか”を測っているような目。
「君は、どこまで読んだ」
低く落ち着いた声だった。
質問の形をしているのに、逃げ方を探られている気もする。
志乃は唇を引き結んだ。
東都が滅びるところまで、とは言いたくなかった。
だが誤魔化せる気もしない。
「……少しだけです」
苦しい答えだった。
水島はそれを否定しなかった。
ただ、次に口を開くまでの沈黙が少し長かった。
図書館の空気は静かだ。
静かすぎて、机の上に置いた志乃の指先がわずかに震えているのまで、自分でよくわかった。
やがて水島は、本を閉じた。
濃紺の表紙が、乾いた音を立てる。
「少しで済んだなら」
彼は言う。
「まだ引き返せる」
その言い方に、志乃は反射的に眉をひそめた。
引き返す。
そんな言葉がいまさら通用するのだろうか。白塔の地下で呪いを受け、本を読み、零の噂を追い、東都の裏側まで覗いてしまった自分が。
「何からですか」
志乃がそう訊くと、水島は本を手にしたまま、少しだけ視線を落とした。
その横顔には、疲れとも諦めともつかない影があった。
けれどそれは長く続かない。
次に彼が顔を上げたとき、目の奥にはもう別の静けさがあった。
「少し、話をしよう」
そう言って、水島は図書館の奥まった通路のほうへ視線を向けた。
そこは閲覧席から少し離れ、窓もない、書架と書架のあいだの細い影になっている場所だった。
志乃はごく小さく息を呑む。
逃げたほうがいいのかもしれない。
けれど、ここでこの男を逃したら、二度とこの本のことも、“彼”のこともわからなくなる気がした。
水島はもう一度だけ、静かに言う。
「君にとっても、そのほうがいい」
その言葉が何を意味しているのか、まだ志乃にはわからなかった。




