東都が書かれている
最初の違和感は、白い塔の描写だった。
次に引っかかったのは、街のつくりそのものだ。
綾崎志乃は机の上へ肘をつくのも忘れ、本のページを追っていた。文体は妙に整っている。癖が強いわけでも、文学めいて気取っているわけでもない。むしろ読みやすい。さらさらと目が滑っていくぶんだけ、内容の不気味さがあとからじわじわ追いついてくる。
再建の象徴として整えられた研究都市。
都市の中心を貫く広い導線。
学術区画と居住区画と産業区画が、最初から一つの設計思想で接続されている街。
その記述の一つひとつが、東都研究都市をぼかして書き換えたものにしか見えなかった。
志乃は一度、目を閉じた。
思い込みかもしれない。
いまの自分は、白塔や零という単語に意識を引っ張られすぎている。だから、少し似た設定を見つけただけで、全部が東都のことに思えてしまっている可能性もある。
そう考えたのに、次のページでその希望は簡単に潰れた。
物語の中の街には、五つの研究都市の時代があった。
中心都市に集中しすぎた機能を分散し、各地域ごとに異なる研究特区を整備したとある。
その並びこそ明記されていないものの、関東圏、愛知、関西、広島、福岡に対応する記述が続いた瞬間、志乃は完全に背筋を冷やした。
偶然ではない。
これは東都だけではなく、この国の再編そのものを下敷きにしている。
そこまで一致して、ただの創作だと言い張るほうが難しかった。
「……何で」
小さく漏れた声は、図書館の静けさへ吸われて消えた。
志乃は反射的に周囲を見回す。
誰もこちらを見ていない。
検索端末の前では院生らしい男が無表情に画面をスクロールし、奥の閲覧席では女子学生が資料のページをめくっている。すぐ近くの棚の向こうで、誰かが本を戻す乾いた音が一度だけした。
どこまでも普通の図書館だった。
その普通さの中で、自分だけが別の層へ滑り落ちていく感じがする。
志乃は呼吸を整え、もう一度ページをめくった。
物語は、街の表層だけを描いてはいなかった。
整然とした研究都市の裏で、霊気力を巡る小競り合いが増えていくこと。
公式には存在しないとされる勢力が、それぞれ研究所や民間治安維持の名目をまとって活動していること。
そして一般人の多くは、その危うい均衡の上で日常を送っていること。
その書き方は説明的ではない。
小説の地の文としてはむしろ淡々としている。にもかかわらず、第三地区で志乃が実際に見た光景と、不自然なくらい噛み合っていた。
紅叉、月砂という固有名はまだ出ていない。
だが、片や膨張する火力を中核にした粗暴な勢力、片や地形と連携を活かす執拗な勢力、という対比めいた描写が挟まったとき、志乃の手が止まった。
見た。
自分はあれを見た。
赤が膨らみ、深緑が這い、銀が走り、青紫が突き立つあの夜のヤードを。
本の中の記述は、あれより抽象的だ。なのに、抽象的であるぶんだけ、かえって現実の輪郭へぴたりと重なってくる。
志乃はページの端を強く持ちすぎてしまい、慌てて力を抜いた。
破ってしまうわけにはいかない。
この本はおそらく、いま自分が持っている中で一番危険で、一番価値のある手がかりだ。
次の章では、さらに奇妙な表現が現れた。
街には、札の名で呼ばれる者たちがいる、と。
札。
カード。
遊戯の比喩。
そこまで読んだ瞬間、志乃の心臓がはっきりと跳ねた。
絵札。
東都で囁かれている、あの呼び名だ。
物語の中では、まだキングともジャックともクイーンともエースとも明記されていない。だが、四人の異なる性質の強者が、街の均衡そのものとして語られている。さらに、その四人が互いに牽制し合い、時に激突することで街の表情が変わると書かれていた。
絵札に並ぶ四人。
東都四天王。
現実の噂と、本の中の比喩が、ほとんど同じ場所で重なる。
「……東都だ」
今度の呟きは、否定ではなく確認だった。
この本に書かれているのは、どこか架空の近未来都市なんかではない。名前を伏せたまま、明らかに東都研究都市を書いている。いや、東都だけではない。この街でこれから起きることを、すでに知っている者の文章に見える。
そう思った途端、ぞっとする。
誰がこんなものを書いたのか。
どうして図書館の棚の奥に紛れていたのか。
誰かが未来を予測して創作しただけだと言われれば、それで済むのかもしれない。だが、白塔の地下を知っている自分には、その“創作”という逃げ道がどんどん細くなっていく。
志乃は椅子へ座り直し、本をさらに机の中央へ寄せた。
読み落としがないように、ページの上へ指を添える。
文章は相変わらず静かだった。
だが、中身は確実に不穏の温度を上げていく。
白い塔を巡って争いが起きること。
均衡の札たちが正面から衝突し、その余波だけで街の一部が傷つくこと。
そして、その争いへ遅れて現れる、とある青年の存在。
ここで初めて、志乃は眉をひそめた。
青年。
それまでの記述は街と勢力と均衡の話だった。ところがこの段から、物語は急に“ひとりの誰か”へ焦点を寄せ始める。名前はまだ出ない。顔立ちもわからない。けれど、その青年が現れた瞬間に、絵札たちの戦いの意味そのものが変質する、と本は書いていた。
それは救世主の登場みたいな書き方ではない。
むしろ逆だ。
それまで各々の理屈で保たれていた均衡が、その青年をきっかけに壊れる。そんな予感をにじませる文章だった。
志乃は唇を引き結ぶ。
零だろうか、と考える。
だが、まだその名前は出ていない。
にもかかわらず、自分の中ではもう、そこへしか結びつかなかった。
絵札の外にいる者。
争いを終わらせるかもしれない者。
あるいは、争いそのものを次の段階へ進めてしまう者。
志乃はページをめくる指を止められない。
図書館の時計が、どこか遠くで控えめに時を告げた。
その音で我に返りそうになるのに、目だけは本文へ縫い止められたままだった。
読み進めるうちに、文章の端々へ見覚えのない不吉さが増していく。
白い塔はもはや景観の象徴ではなく、何かを集め、何かを待つ装置みたいに描かれていた。
絵札たちの戦いは、街の裏側で繰り返される小競り合いではなく、もっと大きな争奪の前触れに見えた。
そしてその全ての先で、とある青年が現れる。
その青年を巡って、人々の思惑が一斉に噛み合わなくなる。
志乃はそこで初めて、背中に冷たい汗が滲むのを感じた。
この本は、東都をモデルにした小説ではないのかもしれない。
東都を舞台にした予言書なのではないか。
そんな発想が、冗談にならないくらい自然に浮かんでしまったからだ。
ページの下段へ、短い一文が現れる。
そこだけ、前後の文脈より少しだけ硬い。
まるで物語の流れの中へ、作者がわざと釘を打ち込んだような文だった。
志乃は息を止める。
その一文の中に、ついにその文字が現れたからだ。
――そのとき、零が現れる。




