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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第3節 ロストテクノロジーは誰のためにあるの?

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題名だけの本

綾崎志乃の指先が触れたその本は、周囲の背表紙より少しだけ低い位置に沈んでいた。


棚の奥へ引っ込んでいたせいで、最初はただの影に見えた。けれど実際に触れてみると、紙とも革ともつかない乾いた手触りがあった。図書館の古い本らしい質感ではある。なのに、分類シールも管理ラベルも感じられない。


志乃は本をゆっくりと引き抜いた。


思っていたより軽い。


厚みは文庫より少し大きく、単行本よりは細い。けれど持った瞬間に、ただの私物ノートではないとわかる程度には、きちんと製本されていた。


表紙は黒に近い濃紺だった。


装飾はほとんどない。


ただ中央に、白とも銀ともつかない細い文字で題名だけが浮いている。


『ロストテクノロジーは誰のためにあるの?』


志乃は一度、まばたきをした。


題名としてはあまりにも露骨だった。


ロストテクノロジー。


東都では珍しい言葉ではない。考古科学やオーパーツ研究に少しでも触れれば、古代技術の断絶や継承については必ず耳にする。けれど、こんなにもまっすぐ問いかけの形で書かれると、急に不穏になる。


「……何これ」


思わず小さく呟く。


返事はもちろんない。


図書館の棚のあいだには、相変わらず乾いた静けさだけがある。


志乃は本をひっくり返した。


裏表紙には何もない。


普通の本ならあるはずのバーコードも、価格も、出版社のマークも見当たらなかった。背表紙にも題名以外の情報がない。表紙を開き、扉をめくる。そこにも著者名がない。奥付を探して後ろのページを確認する。


やはり、ない。


著者不明。


出版社不明。


発行年不明。


分類番号も、蔵書印も、図書館の貸出タグすらない。


「こんなの、棚に入ってていいの」


今度の独り言には、さっきよりはっきりした警戒が混じった。


誰かが置いたのだろうか。


学生のいたずらか、個人的に作った冊子を紛れ込ませたのか。そう考えるのが自然なはずだった。だが、さっきまでこの本が棚の奥へぴたりと収まっていた様子を思い出すと、それだけでは片づけづらい気もする。まるで最初からそこにあるべきものとして、周囲の本の列へ沈んでいた。


志乃は本を抱えたまま、もう一度だけ周囲を見回した。


近くの棚には誰もいない。


少し離れた閲覧席では、院生らしい男が端末に向かったまま動かない。さらに奥の窓際では、女子学生が参考書へ付箋を貼っている。誰もこちらを気にしている様子はなかった。


それでも志乃は、なぜかこの本だけが周囲の空気から少し浮いているように思えた。


持っていると温度が違う。


冷たいわけではない。


熱いわけでもない。


ただ、棚の中に並んでいた他の本よりも、妙に“手に乗る”感じがする。物の重さではなく、意識の重さみたいなものが、指先へ薄く沈んでくる。


志乃は結局、その場で立ち読みするのではなく、さっきの閲覧席へ戻ることにした。


机の上へ本を置く。


霊気力史の本や都市資料と並べると、それだけが極端に異物だった。分類も所属も持たないくせに、題名だけはやけに断定的で、まるで最初から志乃の目に入るためだけにそこへ置かれていたみたいに見える。


そんなはずない。


そう思っても、喉の奥が少しだけ冷えた。


白塔の地下以来、偶然を偶然のまま受け取ることが難しくなっている。女の声。開いた扉。静かな男。呪い。そして零という名前。あれらを知ってしまったあとでは、この本の“不自然さ”にも理由を探したくなってしまう。


志乃は慎重に一ページ目を開いた。


最初のページは空白だった。


次のページも、ほとんど余白だけで、中央に題名がもう一度印字されている。


『ロストテクノロジーは誰のためにあるの?』


扉の次のページに、ようやく本文らしき文字が現れた。


縦書き。


小説の体裁だった。


志乃は少しだけ肩の力を抜く。


論文でも報告書でもない。


少なくとも表面上は、物語のかたちをしているらしい。


「小説?」


そう呟いてから、自分で苦笑しかけた。


こんな場所に、こんな形で紛れている本なのだ。普通の小説であるはずがないと、半分くらいはもうわかっている。


それでも、最初の数行はひどく普通だった。


どこかの都市に関する描写。


整然と並ぶ研究棟。


白く磨かれた通り。


人々が再建の象徴として誇る街。


一読しただけなら、ありがちな近未来小説の冒頭にも見える。東都をモデルにした作品なら、学生が自主制作した本でもおかしくないかもしれない。


だが、読み進めた志乃の指先が、すぐに止まった。


白い塔、という語が出てきたからだ。


それも一度ではない。


街の中心にある、白い塔。


多くの市民はその本当の役割を知らず、ただ象徴として見上げている、白い塔。


志乃は顔を上げ、反射的に周囲を見た。


相変わらず、図書館は静かだ。


誰も立ち上がらない。


誰もこちらを見ていない。


なのに、今読んでいるページだけが、周囲の空気から切り離されているみたいだった。


東都という固有名詞は、まだ出ていない。


白塔、という言葉も書かれていない。


けれど、白い塔が街の象徴であり、多くの人間が中身を知らないままそれを受け入れているという記述は、あまりにも今いる街に似すぎていた。


「……まさか」


そこまで呟いて、志乃は口を閉じた。


まさか、何なのか。


誰かが東都をモデルに書いた創作小説かもしれない。


白い塔だって、単なる記号として置かれているだけかもしれない。


そう考えようとしたのに、ページをめくる指が止まらない。


次の段落。


さらに次の段落。


再建都市。


研究区画。


霊気力。


都市の裏側で増えていく抗争。


どの単語も、まだ曖昧だ。


だが曖昧なまま、こちらの現実へ寄りすぎている。


志乃は椅子へ深く座り直した。


これは、いたずらで置かれた本なんかではないのかもしれない。


少なくとも、ただの暇つぶしに読める類のものではない。


ページの向こうにある物語は、まだ名前を明かさないまま、確実に東都の輪郭へ触れ始めていた。

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