白塔のない棚
白塔に関する資料だけが、不自然なくらい見当たらない。
その違和感は、棚の前に立っているだけでは済まなかった。
綾崎志乃は、霊気力関連の本を数冊抱えたまま、いったん閲覧席へ戻った。窓際の端、他の学生の視線があまり届かない席を選ぶ。机へ本を置くと、紙の乾いた匂いがふわりと立った。
最初に開いたのは、古代ローマ期の霊気力発現説を扱った研究書だった。
内容は思った以上に真面目だった。儀式性を持つ集団心理と、局所的な霊気力発露の関連性。古代遺構の配置と感応能力者の出現率。専門用語ばかりで、志乃の頭では半分もついていけない。けれど少なくとも、霊気力というものが東都だけの特殊現象ではなく、もっと長い歴史のどこかにも痕跡を残しているらしいことだけはわかった。
次に、いかにも一般向けらしい表紙の本を開く。
『君の霊気力を開花させるには?』
タイトルの軽さに反して、中身は完全な与太話というほどでもなかった。呼吸法、集中法、適性診断、感覚の言語化。科学と自己啓発のあいだを危うく渡っているような本だったが、ところどころに、志乃自身がこれまで曖昧に抱えていた感覚に近い説明もある。
人の気配を色で感じる者。
位置を圧で掴む者。
強い霊気力に触れると感覚過敏を起こす者。
そこまで読んで、志乃はページをめくる手を止めた。
まるで自分のことみたいだと思ったからだ。
もちろん、完全に同じではない。こうした本は曖昧な言い回しでいくらでも当てはまるように書かれている。けれど、霊気力を色や圧として感じる人間が自分だけではないと知るだけでも、少しだけ救われる気がした。
もっとも、その救いは長く続かなかった。
霊気力については、こんなふうに本が山ほどある。
歴史も、適性も、研究の流れも、開発都市との関係も、掘ろうと思えばいくらでも掘れる。
なのに、白塔だけがない。
志乃はもう一度、検索端末の前へ戻った。
今度は語を変える。
白塔ではなく、白い塔。
東都象徴施設。
旧研究棟。
保存建築。
東都中央区画 塔。
結果は増える。
だが増えるのは、周辺情報ばかりだった。景観設計、再開発計画、居住区からの視認率、都市導線上のランドマーク機能。どれも白塔そのものではなく、“白塔がそこにある街”についての話にすり替わっている。
ようやくそれらしい書誌情報を見つけても、所在表示がおかしい。
館内限定。
別置。
移架中。
利用停止。
所蔵確認のみ。
一件や二件なら気にしなかったかもしれない。だが、白塔に触れそうな資料だけが揃って、微妙に手の届かない場所へ置かれているように見えると、さすがに偶然では済まない気がした。
志乃は画面へ身を寄せた。
目録の一件を開く。
タイトルは東都再開発関連の技術資料集だった。要旨は読めるのに、詳細は閉架扱い。別の資料は、所在が「旧市史参考架」となっているのに、現行棚では見つからない。さらに別の一冊は、検索には出るのに貸出区分が空欄のままだった。
「……何これ」
小さく呟く。
図書館の検索システムに詳しいわけではない。けれど、整理された大学図書館の目録としては、どれも中途半端すぎた。
志乃は思い切って、近くのカウンターにいた職員へ声をかけた。若い女性で、学生アルバイトか補助司書らしい名札をつけている。
「すみません」
志乃が端末画面を見せると、彼女は丁寧な笑顔を浮かべた。
「白塔に関する資料を探してるんですけど、この所在表示がよくわからなくて」
職員は画面を覗き込み、数秒だけ目を動かした。
「東都の景観資料でしたら、あちらの都市史コーナーにもありますよ」
返ってきたのは、当たり障りのない答えだった。
志乃は食い下がる。
「そうじゃなくて、白塔そのものの資料ってありますか」
職員の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。
「白塔、ですか」
彼女はもう一度画面を見た。
「一般向けですと、都市案内の写真資料が中心になると思います」
「研究施設としての記録とかは」
問いかけた瞬間、自分の声が少し硬くなったのがわかった。
職員は困ったように小さく首を傾げる。
「こちらで確認できる範囲だと、公開資料は限られますね」
その“公開資料”という言い方が引っかかった。
公開されていないものがある、と言っているのとほとんど同じだったからだ。
「詳しくは専門資料の担当に確認が必要かもしれません」
彼女はそう付け加えたが、語尾にはどこか逃げの気配があった。
志乃は礼を言ってカウンターを離れた。
怒っているわけではない。
職員が嘘をついているとも思わない。
ただ、この図書館で白塔は最初から“そういう扱い”なのだと、そんな感じだけが残った。
都市史コーナーへ移動し、志乃は東都再編前後の資料をさらに何冊か開いた。再開発特区指定の変遷。東都初期インフラ整備計画。研究棟群の設計理念。どれも街全体についてはかなり詳しい。
中央広場の造成時期も載っている。
大学区画の増築史もある。
物流線と居住線をどう分けたかまで書いてある。
それなのに、白塔だけが唐突に「既存象徴施設」とだけ表記されていた。
既存。
その二文字は便利すぎる。
いつ、誰が、何のために作ったのかを全部飲み込んでしまう、乱暴な言葉だった。
志乃はページをめくる手を止めた。
これは知られていないのではない。
隠されている、とまで断言できる証拠はまだない。けれど少なくとも、知ろうとしたときに核心へ届かないよう、いくつもの薄い膜が被せられている感じがする。
図書館の空気は相変わらず静かだった。
紙をめくる音。
遠くで椅子が引かれる音。
端末操作の軽いタッチ音。
それらに混じって、志乃の中だけが妙にざわついている。
もう一度、最初の棚へ戻る。
霊気力史の背表紙が並ぶ列。
考古科学の資料。
東都都市史。
開発特区研究。
白塔に繋がりそうな本ばかりがあるのに、その中心だけがきれいに抜け落ちている。
志乃はゆっくりしゃがみ込み、低い段の棚まで目線を下ろした。
上の段ばかり見ていたが、下のほうには大型本や別置扱いになりやすい資料が押し込まれていることもある。背表紙を順に追っていくと、途中で一列だけ、妙な詰まり方をしている棚があった。
分類番号の並びは合っている。
だが、一冊だけ奥へ引っ込んでいる。
周囲の本より背が低いのか、手前の列に半ば隠れる形で、黒とも紺ともつかない細い背表紙が沈んでいた。
分類ラベルが見えない。
著者名も見えない。
ただ、そこだけが妙に“入ってはいけない隙間”みたいに暗く見えた。
志乃は息をひそめる。
誰かに見られているわけでもないのに、なぜかそうしたくなった。
手を伸ばす。
指先が、奥に隠れたその本の背へ触れた。紙とも革ともつかない、古びて乾いた感触だった。




