図書館へ
翌朝、綾崎志乃はいつもより少し早く大学へ来ていた。
秋の朝の空気は薄く冷たく、吐いた息が白くなるほどではないにしても、頬の表面を軽く引き締める。キャンパスの歩道には、まだ一限前の余裕が残っていた。研究棟へ急ぐ職員、眠そうな顔の学生、端末を見ながらコーヒーを飲む院生。東都研究都市の朝は整っている。整いすぎていて、時々それが怖いと志乃は思う。
その整った街の中に、白塔だけが異物みたいに立っている。
今日も遠くに白い輪郭が見えた。
志乃は一瞬だけそちらを見て、すぐに視線を外した。
白塔のことを考えれば、喉の奥の冷たい感触まで思い出してしまう。あの地下で刻まれた呪いは、表面には何も残していないくせに、考えの筋道だけを選別するみたいに志乃の中へ居座り続けていた。
けれど、もう逃げるつもりもなかった。
噂を追っても、零の輪郭は見えない。
都市伝説をいくつ集めても、白塔の中で見たものの正体には届かない。
なら、記録を当たるしかない。
志乃は鞄の肩紐を握り直し、中央図書館のほうへ歩いた。
東都研究都市大学の中央図書館は、建物そのものがいかにもこの街らしかった。ガラス壁面を多く使った新しい外観なのに、内部には旧自治体時代の資料や、再編前の研究史、考古科学関連の原本保管室まで抱えている。未来の都市に見えて、その実、過去の残骸を大量に収めた箱でもあるのだ。
自動扉を抜けると、温度の均された空気が志乃を包んだ。
紙と機械の匂いが混ざっている。
新刊のインクではなく、長く棚に置かれた本の乾いた匂い。
端末の熱と、清掃された床のわずかな洗剤臭。
それらが混じるこの空間は、不思議と落ち着く一方で、少しだけ地下施設に似た静けさも持っていた。
志乃は受付を通り、まず検索端末の並ぶエリアへ向かった。
座席の半分ほどはもう埋まっている。課題の資料を探す学生、論文を開いたまま難しい顔をしている院生、新聞アーカイブを読んでいるらしい年配の研究員。誰もが自分の調べものに沈んでいて、他人にはほとんど関心を向けない。
その空気がありがたかった。
いまの志乃には、余計な会話をする余裕がない。
検索端末の前に座り、深く息をひとつ吸う。
持ってきたノートを開く。
昨夜書いた単語が並んでいる。
白塔。
霊気力。
東都初期研究。
考古科学。
零。
最後の二文字へ視線が行きかけて、志乃はそっとページを押さえた。
零は最後だ。
まずは白塔から。
端末へ文字を打ち込む。
白塔。
検索結果はすぐに表示された。
ゼロではない。
むしろそれが、少しだけ意外だった。
東都景観保存概説。
再整備区域における象徴建築一覧。
東都研究都市案内・初版。
そんなタイトルが数件並ぶ。だが件数は少ない。驚くほど少ない。大学のランドマークに近い建物のはずなのに、検索結果の量があまりにも薄かった。
志乃は最初の一冊の情報を開いた。
景観保存対象。
都市象徴施設。
由来には諸説あり。
現在は一般公開なし。
そこまでだった。
「……薄い」
思わず小さく呟く。
まるで、触れてはいるのに何も触れていない説明だ。東都に立つ白い塔であることは誰もが知っている。だが何のために建てられ、何に使われ、どういう経緯で保存対象になったのか、その肝心なところだけが綺麗に抜けている。
志乃は別の検索語を入れた。
東都研究都市 白塔。
件数は少し増える。
だが内容は同じだった。観光案内、都市設計の概観、景観資料。そこに写っているのは外側の白い姿だけで、中身に触れた資料は見当たらない。
次に霊気力と打ち込む。
画面が一気に埋まった。
件数表示の桁が違う。
入門書、研究史、適性論、古代文明との比較研究、考古科学との接続、医療応用、軍事転用史、霊気力制御工学。東都がどれだけこの分野へ膨大な情報を蓄積してきたのか、その一端だけでも十分に伝わってくる量だった。
志乃はその落差に、かえって息を呑んだ。
霊気力については、ここまで開かれている。
なのに白塔だけが、妙に薄い。
これでは、知られていないのではなく、そこだけ意図的に情報の層が削られているみたいだった。
志乃は端末から所在情報を控え、書架のほうへ向かった。
図書館の奥は静かだ。
新刊や学習参考書の並ぶエリアを抜けると、一気に空気が古くなる。専門書の背表紙がびっしりと並び、分類番号ごとに世界が細かく切り分けられている。紙の匂いもここでは少し重い。古い本ほど、その重さは増していく。
霊気力関連の棚は、思っていた以上に広かった。
志乃は何冊か背表紙を追う。
霊気力概論。
霊気力史入門。
霊気力発現の地域差。
古代ローマにおける霊気力様現象の再考。
君の霊気力を開花させるには?
最後の一冊だけ、明らかに一般向けの軽い本だった。そんなものまで混じっているあたりが、東都らしいと思う。最先端の研究史も、胡散臭い自己啓発も、同じ棚の近くへ押し込まれてしまう。
志乃は何冊か抜き取ってみた。
ぱらぱらとめくる。
古代文明との接続を論じるもの、感知系能力の分類、開発特区成立前後の研究移管をまとめたもの。拾える情報は多い。多いはずなのに、白塔へ直接繋がる記述だけがどうしても出てこない。
もっと奥だろうかと思い、考古科学の棚も見に行く。
こちらはさらに雑多だった。遺物保存、オーパーツ研究、古代技術論、文明断絶仮説。どれも白塔と無関係ではなさそうに見えるのに、肝心の名前がない。
志乃は棚の端から端まで視線を走らせた。
分類の途中に、妙な空きがあるようにも見える。
気のせいかもしれない。
けれど、背表紙が詰まっている列の中で、そこだけ不自然に隙間が空いていた。貸出中なのか、もともと欠番なのか、外からではわからない。だが、ひどく気にかかる。
少し離れた棚から、学生が本を抜く音がした。
誰かが咳払いをして、すぐに静けさが戻る。
その静かな図書館の奥で、志乃だけが妙に落ち着かなかった。
白塔は、この街のランドマークだ。
見知らぬ地下施設や呪いの話を抜きにしても、もっと資料があっていいはずなのだ。写真集でも、建築史でも、開発年表でも、何かしらのまとまった記述が残っていておかしくない。なのに、出てくるのは薄い紹介ばかり。
志乃は手に取った本を抱えたまま、もう一度棚を見上げた。
霊気力に関する本はいくらでもある。
東都開発史に関する資料もそれなりにある。
それなのに、白塔に関するものだけが、不自然なくらい見当たらなかった。




