空振り
北側高架でフードの若い男を見た。
その一文を見つけた夜、綾崎志乃はほとんど考えるより先に部屋を出ていた。
時間は遅かったが、東都ではそれほど不自然ではない。研究棟も物流線もまだ動いているし、遅い講義帰りの学生だって珍しくない。けれど、普段なら夜の一人歩きにそこまで積極的ではない志乃が、高架のほうへ足を向けるのは明らかに“いつも通り”ではなかった。
北側高架は、大学区画から少し離れた輸送線の縁にある。
昼間は搬送車両と保守ドローンの気配が強いが、夜になると急に人気が薄くなる場所だった。照明はある。道も整っている。けれど人の流れが少ないぶん、音が反響しやすく、足音ひとつでも妙に大きく聞こえる。
志乃は高架下の歩道へ入ったところで、無意識に足をゆるめた。
第三地区で感じたような激しい色はない。
赤も、深緑も、青紫も、銀も。
あの夜のような暴力的な圧は、この場所には残っていなかった。
その代わり、ごく薄いざらつきがある。
人が複数通ったあとの、感情の残り香みたいなもの。
恐怖、苛立ち、警戒。
どれも小さい。
だからこそ、本当にここで“何かがあった”のか、ただ誰かが勝手に盛った噂なのか、判別がつかなかった。
高架柱の影に、一人の男が座り込んでいた。
作業着姿の中年だった。脇には工具箱があり、缶コーヒーの空き缶が足元に転がっている。志乃が近づくと、男は少しだけ顔を上げた。
「何」
警戒というより、面倒くさそうな声だった。
志乃は一瞬だけ迷ってから、できるだけ自然に尋ねる。
「ここで昨日、何かありました?」
男は眉をひそめる。
「何かって」
「フードを被った若い男を見たって話を聞いて」
そこまで言うと、男はああ、とだけ短く息を吐いた。
「見たよ」
志乃の胸が小さく跳ねる。
だが次の一言で、その高まりはすぐにしぼんだ。
「保守班の新人だろ」
男は工具箱を足先で小さく寄せた。
「夜勤のやつ、みんなパーカー着てるし」
志乃は言葉を失う。
たしかに高架の保守班なら、フードつきの作業着を着ていてもおかしくない。
「でも、近くにいた霊気力者が急に黙ったって」
食い下がるように言うと、男は肩をすくめた。
「そりゃ黙るだろ」
彼は面倒そうに笑った。
「学連の巡回が来たんだから」
志乃はその場で完全に立ち止まった。
噂は、こうしてすぐ別の意味へ変わる。
若い男。
フード。
霊気力者が黙った。
その断片だけを繋げば、いかにも“零っぽい”話になる。けれど実際には、ただ保守班の新人が通って、そこへ学連が巡回に来ただけかもしれないのだ。
その夜は、それ以上何も掴めなかった。
翌日、志乃は別の書き込みを追った。
《中央地下モールで能力を消されたやつがいる》
講義の合間にその文を見つけたときには、もう自分でも嫌になるくらい反射的にメモを取っていた。
中央地下モールは、人が多い。
人が多いぶん、霊気力に鈍い者でもなんとなく疲れる場所だと志乃は思っている。生身の感情が絶えず行き交い、端末の通信と広告表示と、わずかな霊気力の名残が空気の中で混ざり合う。感知に敏感な志乃には、長居したい場所ではなかった。
それでも行った。
零が“能力を消す”という噂に、どうしても引っぱられたからだ。
地下モールへ下りた途端、頭の奥が少し重くなる。
雑多な色が多すぎる。
通行人一人ひとりの輪郭は弱いのに、数が多いせいで全体が濁流みたいになっていた。ここへ強い霊気力者が混じれば、たしかに何かを見落としても不思議ではない。
志乃は案内板の前で立ち止まり、辺りを見回す。
噂の出所らしい店名も時間帯も曖昧だった。こういう情報はいつもそうだ。肝心なところだけ、都合よくぼやけている。
やがて通路の向こうに、ひときわ強い色が見えた。
灰青色。
人混みの中ではっきり輪郭を持つ、冷たい霊気力。
フードを被っている。
細身。
若い男にも見える。
志乃の心臓が跳ねた。
考えるより先に足が動く。
人の波を縫って、その背中を追う。相手は早歩きだ。だが慣れているのか、通行人にぶつかりそうでぶつからず、最短で人の少ない通路へ抜けていく。
志乃はその背を追って角を曲がった。
「待って」
思わず声が出る。
相手が振り返る。
フードの下から現れたのは、志乃より少し年上に見える男だった。整備会社のロゴが入ったジャケット。肩には工具ケース。目元には明らかな疲労。
「……何ですか」
不審者を見る顔だった。
志乃は立ち尽くす。
灰青色の正体は、強い霊気力者ではなかった。電磁設備の近くで長く働いている人間に時々ある、機械系のノイズを帯びた気配だったのだ。志乃が焦りすぎたせいで、輪郭を勝手に“零っぽく”見誤っただけだった。
「ごめんなさい」
それしか言えず、志乃は頭を下げた。
男は露骨に訝しみながらも、急いでいたらしく、そのまま去っていく。
残された志乃は、地下通路の隅でしばらく動けなかった。
恥ずかしかった。
そして何より、自分の感覚が当てにならないことが苦しかった。
探知できる。
位置もなんとなく掴める。
けれど、そこへ焦りが混じった瞬間、見たいものを見てしまう。そうなれば、能力は手がかりではなくただのノイズになる。
三つ目の空振りは、学内で起きた。
霊気力適性の高い学生同士が実習棟の裏で揉め、片方の能力が突然“落ちた”という噂が流れたのだ。
今度こそ何かあるかもしれない、と志乃は思った。
だが実際には、単に教員が簡易制圧用の減衰装置を使っただけだった。
「零?」
そう言って笑ったのは、実習棟前にいた上級生だった。
「いるわけないでしょ、こんなとこに」
その言い方には、妙な確信があった。
「零が出るなら、もっとやばいとこだよ」
志乃は何も言えなかった。
否定も、肯定も。
もっとやばいところ。
たぶん、その通りなのだろうと思ってしまったからだ。
数日のあいだに、志乃のメモは増えた。
そして同じくらい、×印も増えた。
北側高架――保守班の新人。
地下モール――設備整備員。
実習棟裏――教員の減衰装置。
その他にも、裏路地の目撃談、夜間バス停の噂、研究棟の非常階段で見たという書き込み、駅前の乱闘で能力が消えたという話。追えば追うほど、似た断片だけがいくつも現れ、そのたびに実体は指のあいだからすり抜けていった。
零は噂の中で、あまりにも便利に使われすぎていた。
人が急に黙れば零。
能力が不発なら零。
強い相手が一瞬ひるめば零。
姿が見えなければ零。
そうやって何もかもへ名前だけが貼られていく。
志乃はベッドの上でノートを開き、増えすぎたメモを見つめた。
断片。
断片。
断片。
どこにも芯がない。
あるいは芯だけが、意図的に見えなくされている。
喉の奥が、うっすらと冷えた。
白塔のことは話せない。
あの女のことも、静かな男のことも言えない。
なのに手元にあるのは、誰かが勝手に膨らませた噂ばかりだ。
「違う」
志乃は小さく呟いた。
端末の画面を閉じる。
都市伝説を集めたいわけじゃない。
自分が知りたいのは、零という単語がどこから来て、どうして白塔の地下と繋がっているのか、その根っこのほうだ。
噂を追えば追うほど、むしろ遠ざかっている気がする。
零の輪郭ではなく、東都の人間が零へ貼りつけた願望や恐怖ばかりが見えてくるのだ。
窓の外では、研究都市の灯りが今日も同じように点いている。
白く、整って、清潔な街。
その裏側を噂だけで掘ろうとしても、たぶん限界がある。
志乃は静かにノートを閉じた。
もう、追い方を変えなければならない。




