零探し
その夜から、綾崎志乃の“零探し”は本格的なものになった。
第三地区の抗争を見てしまったせいだった。
いや、正確には、最後に野次馬の中から聞こえた一言のせいかもしれない。
――零でもいなきゃ止まらねえよ。
あれは冗談ではなかった。
少なくとも、あの場にいた人間の口ぶりはそうだった。学連が介入し、師崎宇連が間へ割って入り、最悪を食い止めていた。それでもなお、「零なら」という言い方が出てくる。
つまり東都では、零という存在がただの怪談ではなく、危機の規模を測る基準としてすでに機能しているのだ。
部屋へ戻るなり、志乃は鞄も下ろしきらないまま端末を開いた。
検索履歴はもう“零”だらけだった。
東都 零。
東都 ジョーカー。
霊気力 零位。
絵札 ジョーカー。
昨夜までとは違う。
今日はもう、半信半疑ではいられなかった。第三地区でぶつかっていたあの四つの色を見たあとでは、東都の裏側に“説明のつかない例外”がいても不思議ではないと思えてしまう。
最初に見たのは、また匿名掲示板のまとめだった。
第三地区の件で新しい書き込みが増えている。
《学連入った》
《師崎が割った》
《総長はまだ出てない》
《いや、あれ零案件だろ》
《零ならそもそも始まる前に止める》
志乃は指を止めた。
始まる前に止める。
その表現が妙に引っかかる。
強い霊気力者なら、戦いを制する、圧倒する、勝つ、そういう書き方になりそうなものだ。なのに零に関しては、“起きたあとに勝つ”より“起きる前に終わらせる”という言い回しが多い。
「……止める側」
呟いてみる。
喉は締まらない。
やはり零の名は、呪いの外側にある。
次に志乃は、霊気力研究系のフォーラムへ移った。こちらは表向き真面目な議論が多いぶん、逆に断片的な噂の混じり方がいやに生々しい。
《零は対霊気力特化だって聞いた》
《違う。奪うんだよ》
《消すんじゃなくて、流れを断ち切る》
《見られただけで動けなくなったって証言あっただろ》
《それ別件》
証言はことごとく食い違う。
能力を消す。
奪う。
断ち切る。
視線だけで止める。
どれか一つなら誇張された都市伝説で済む。だが複数の場所で、少しずつ違う言い方をされるせいで、逆に輪郭が濃くなっていくのが不気味だった。
誰も正確には知らない。
けれど、何かを“無効化する側”だと多くの人間が認識している。
志乃は端末のメモ機能を開き、初めて自分なりに情報を整理し始めた。
零=ジョーカー?
絵札の外側?
存在は不確定。
能力は「消す」「奪う」「止める」系?
姿は一定しない。
その最後の一行で、志乃の手が止まる。
姿は一定しない。
今日までに読んだ目撃談は、年齢も性別も服装もまるで一致していなかった。若い男。女。学生。もっと年上。フードを被っていた。顔が見えなかった。目だけが印象に残った。細身。長身。逆に小柄だったという証言まである。
「こんなの、探せるわけ……」
思わず漏れた言葉は、途中で消えた。
探せるわけがない。
本来ならそう思う。
けれど自分は探さなければならない。白塔の地下の女を助けるために。喉に刻まれた呪いを解くために。あるいはそのどちらでもなく、もう“零を探せ”という命令を知ってしまったから。
端末が震えた。
アリサからのメッセージだった。
『今日はもう部屋いる?』
志乃は数秒迷ってから、短く返す。
『いる』
すぐに返事がくる。
『ならよかった』
それだけだった。
問い詰めるでもなく、説教するでもなく、ただ無事だけを確認して引く。その距離感が、今の志乃にはありがたかった。
白塔のことも、呪いのことも、第三地区で見たことも言えない。
それでもこうして繋がっていてくれる人がいると、まだ日常へ戻れる気がする。もっとも、その日常から自分がどんどんずれていることも、同時に痛いほどわかっていた。
翌日から、志乃は検索だけでは足りないと思うようになった。
講義の合間、学内の噂話にわざと混ざる。
食堂の隅で霊気力の話をしている上級生へ、何気ない顔で耳を傾ける。
サークル棟の前で、第三地区の件を得意げに語る男子学生に近づく。
聞き方は慎重だった。
いきなり白塔や呪いの話へ触れる必要はない。
零という名前だけなら出せる。
「ねえ、零ってそんなに有名なの?」
志乃がそう訊くと、相手はたいてい少しだけ驚いた顔をした。
「有名っていうか」
ある先輩は苦笑した。
「名前だけ一人歩きしてる感じかな」
別の学生は肩をすくめた。
「実在するなら怖すぎるし、しないなら噂の育ち方が気持ち悪い」
また別の誰かは、もっと露骨だった。
「零の話するやつって、だいたい盛ってるから」
そこに笑いが混ざることもある。
だが完全に笑い話で終わらないのが、やはり東都らしかった。
「でも、能力を消されたって話は何件か聞いた」
霊気力工学科らしい男子学生が、真顔でそう言ったこともある。
「暴走寸前のやつが、一瞬で沈んだとか」
「沈んだ?」
志乃が訊き返すと、彼は少しだけ言葉を探した。
「切れたみたいに」
その表現に、志乃は寒気を覚えた。
切れた。
霊気力の流れが。
あるいは能力そのものが。
白塔で志乃へ呪いをかけたあの男とは真逆の性質に思える。あの男は“刻む”側だった。零はもし本当にそういう力を持つなら、“断つ”側なのかもしれない。
ただ、話を聞けば聞くほど、零は人というより現象めいていく。
同じ人物像へ収束しない。
同じ能力にも収束しない。
なのに誰もが、自分なりの“零像”を持っている。
志乃は講義ノートの裏へ、小さく噂を書き溜めていった。
フードの男。
視線だけで止める。
能力を消す。
能力を奪う。
絵札の外。
現れ方が不定。
戦場だけに出る?
そのうち、自分でも何を書いているのかわからなくなってくる。
断片ばかりで、芯がない。
あるいは、芯だけが見えないようにできているのかもしれなかった。
昼休み、珍しく美世がそのメモを覗き込んだ。
「増えたね」
彼女は静かに言った。
志乃は慌ててノートを閉じかける。
「見えるように置いてたあたしが悪い」
自嘲気味にそう返すと、美世は否定しなかった。
ただ、閉じきる前のページに残った“能力を消す”という文字を見て、少しだけ目を細めた。
「消す力って、怖いよね」
その一言が、志乃には妙に重く聞こえた。
「壊すより、静かだから」
志乃は何も返せなかった。
美世はそれ以上踏み込まず、いつもの調子で牛乳パックのストローを折り曲げている。けれど、今の発言だけで十分だった。彼女はやはり、こういう話の輪郭を直感的に掴むのがうまい。
その夜、志乃はさらに深い場所まで潜った。
検索結果の表面ではなく、削除済みログの保管庫、裏市場の監視板、半ば違法めいた投稿サイト。そこまで行くと、零の噂はもっと危うい熱を持ち始める。
《零を手に入れたやつが東都を取る》
《零そのものより、零の能力の複製が問題》
《零は一人じゃない説ある》
《零を見たやつは大体消える》
最後の一文で、志乃の指先が止まった。
消える。
単なる比喩かもしれない。
だが、白塔の地下の女を思い出すには十分だった。
あの人は、消えた人間の成れの果てなのだろうか。
あるいは、零と何か関係があるのだろうか。
問いは増えるばかりで、答えはひとつも近づいてこない。
夜更け、端末の画面を閉じたとき、志乃の目はひどく疲れていた。
だがそれでも、初日のような完全な暗闇ではなくなっている。
零という名前は、東都のそこかしこにある。
誰も正しく知らないのに、誰も完全には否定しない。
そして噂の芯には、どうやら一つの共通項がある。
零は“戦う者”というより、“奪う者”あるいは“終わらせる者”として語られている。
志乃はベッドに腰を下ろし、窓の外を見た。
東都の灯りは今夜も白い。
白塔はここから見えない。
それなのに、目を閉じると、あの地下の冷たい部屋と、静かな男の声が蘇る。
助けたければ、“零”を探せ。
「探してるよ」
誰に向かってでもなく、志乃は小さく呟いた。
「でも、どこにいるの」
答えはない。
ただ、端末の通知欄に、新しい書き込みがひとつだけ上がっていた。
《昨夜、北側高架でフードの若い男を見た。近くにいた霊気力者が急に黙った》
志乃は画面を見つめたまま、ゆっくりと息を止めた。




