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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第2節 霊気力

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霊気力の色

同じ頃、大学区画では、綾崎志乃が何の前触れもなく足を止めていた。


夕方の講義が終わり、学生たちが一斉に廊下へ流れ出す時間だった。端末をしまう音、椅子を引く音、友人同士の軽い会話。いつもなら雑多に混ざって聞こえるそれらが、その瞬間だけ志乃にはひどく遠くなった。


胸の奥で、何かが弾けた。


痛みではない。


音でもない。


けれど、たしかに“色”が流れ込んできたと、志乃にはわかった。


「志乃?」


すぐ横を歩いていたアリサが、足を止めてこちらを見る。


志乃は返事をしようとして、うまく息が吸えないことに気づいた。


視界の端が白く揺れている。


目の前の廊下はいつも通りのはずなのに、その上へ薄い膜みたいに別の景色が重なって見えた。遠く。もっと遠く。東都のどこか一角から、色の塊がこちらへぶつかってくる。


「……だいじょぶ」


どうにかそれだけ言ったが、声はかすれていた。


アリサの表情がすぐに険しくなる。


「全然大丈夫じゃない顔してる」


その言葉はもっともだった。


志乃自身、いま自分の顔色がどうなっているのか、鏡を見なくても想像がつく。耳鳴りみたいな感覚が頭の内側いっぱいに広がり、床の位置が少しずつずれていく。強い霊気力に触れたとき、たまにこうなることがある。


いや、正確には、こうなり始めたのは東都へ来てからだった。


千葉にいた頃から、志乃には変な感覚があった。


人混みの中で、なぜか探している相手の位置がわかることがある。会う前から、今日は機嫌が悪いとか、ひどく疲れているとか、そういうものが色や音の印象で先に伝わってくることがある。昔は勘がいいだけだと思っていた。けれど東都へ来て、霊気力という概念を日常の言葉として聞くようになってから、それが単なる直感では片づかないのだと知った。


人には、目に見える輪郭の外側に、もうひとつの輪郭がある。


志乃にはそれが、色だったり、圧だったり、耳鳴りに似たざらつきだったりして感じられる。


アリサは、きりっと澄んだ線の色をしている。


感情が動くと少しだけ温度が変わるが、芯の輪郭は崩れにくい。


美世は逆に、色そのものが薄い。


薄いのに、奥行きだけが深くて、見ようとすると霧の中へ目を突っ込んだみたいになる。


そして今、志乃の中へ流れ込んできているのは、そんな日常の延長にある色ではなかった。


「……来たね」


少し遅れて、美世がそう呟いた。


彼女は教室の出入口のところで立ち止まり、窓の向こうではなく、もっと遠いどこかを見ているようだった。


アリサが眉をひそめる。


「何が」


美世はすぐには答えなかった。


志乃は壁に手をつく。


冷たいはずの壁面の感触が、いまはやけに遠い。代わりに、身体の内側へ流れ込んでくる四つの色だけが、嫌になるほど鮮明だった。


一つは、焼けた鉄みたいな赤。


ただ赤いのではない。


油を含んだ火花が、膨張と収縮を繰り返しながら塊になっているような、重たい赤だ。


その隣を走るのは、細く鋭い銀白色。


まっすぐではない。


小刻みに跳ね、何度も角度を変えながら、切っ先だけが先へ先へと走っていく。


さらにその向こうには、濡れた深緑。


地面の裏を這う根のように広がり、見えないものまで絡め取ろうとする粘りがある。


最後のひとつは、青に近い冷たい紫。


一本の線ではなく、三つ又に分かれた稲妻みたいに、空間そのものへ刺さっていた。


どれも、人ひとりの気配としては濃すぎた。


そしてそれらが、同じ場所で触れ合おうとしている。


「志乃」


アリサが今度は本気で心配した声を出す。


志乃は返事の代わりに目を閉じた。


閉じたところで、色は消えない。


むしろ視界の情報が減るぶん、身体の内側の反応だけが大きくなる。方角も、距離も、なぜか少しわかる。東。やや北寄り。大学区画から離れた、生活圏と倉庫街の境目あたり。


第三地区。


頭の中で、その地名が勝手に浮かんだ。


さっきまで見ていた掲示板の文字や、今日一日耳にした噂が、色の位置とぴたりと重なる。


「……第三」


無意識に漏れたその一語に、アリサがすぐ反応した。


「え?」


志乃ははっとして口をつぐんだ。


白塔のことではない。


零のことでもない。


第三地区という単語そのものは、呪いに触れないらしい。けれど、いま自分の中で起きていることを説明しようとすれば、たぶんすぐに足を踏み外す。


「ちょっと、やっぱり保健室行こ」


アリサは志乃の腕を取ろうとした。


その手が近づいた瞬間、また色が跳ねる。


遠くの四つの塊が、今度ははっきりぶつかった。


赤が膨らむ。


銀が裂ける。


深緑が這い、青紫が貫く。


その衝突が、視覚ではなく身体の内側で起きたみたいに、志乃の腹の底がぐらりと揺れた。


「っ……!」


声にならない息が漏れる。


吐き気が一気にせり上がる。


床へ膝をつきかけたところを、アリサが慌てて支えた。


「志乃」


今度の呼び声には、はっきり焦りが混じっていた。


廊下を歩いていた何人かが、足を緩めてこちらを見る気配がする。志乃はそれが嫌だった。注目されたくない。倒れたくない。こんなふうに、自分の感覚へ振り回されるところを見られたくない。


けれど、身体がうまく自分のものにならない。


遠くの色が強すぎる。


ただ強いだけではない。位置がわかってしまう。動きの流れまで、半端に伝わってくる。右へ寄った。上を取った。下から這った。切った。避けた。圧した。そういう断片が、視界ではなく神経を通って流れ込んでくる。


志乃は荒い呼吸の中で、自分の能力が本質的には“見る”ものではないのだと、ぼんやり思った。


探知。


位置。


輪郭。


人の霊気力を色として感じ、その位置を掴む。


それが自分の持っているものなのだろう。


だからこそ、遠くで強い者同士がぶつかると、その余波だけで感覚が飽和する。


「強すぎる」


それは説明ではなく、ほとんど呻きだった。


美世が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


「見えてる?」


その問いは不思議と静かだった。


アリサがすぐに振り返る。


「何が」


美世はアリサを見ず、志乃だけを見ている。


「色」


短い一語だった。


志乃は目を見開いた。


知っているのか。


そこまで言われて、ようやく理解する。


美世は全部を知らなくても、少なくとも志乃の感覚が“普通じゃない”ことには、ずっと前から気づいていたのだ。


「……少しだけ」


嘘だった。


少しどころではない。


けれど、全部を言うと本当に自分が崩れそうだった。


美世は小さく頷く。


「今日は近づかないほうがいいよ」


その言い方は、忠告というより確認に近かった。


行く気なのか、と問われている気がした。


志乃は答えられない。


近づかないほうがいい。


そんなこと、わかっている。


いまの時点でこの有様なのだ。実際に現場へ近づけば、もっとひどくなるかもしれない。強い霊気力に晒されすぎると、感覚の境目が曖昧になる。自分がどこに立っているのか、どの方向を向いているのかさえ怪しくなることがある。その手前の感覚を、志乃はすでに知っていた。


それでも。


第三地区で何かが起きている。


紅叉と月砂が動いている。


絵札や零の噂と無関係ではないかもしれない。


そして何より、この四つの色は“そこにいる”と志乃へ告げ続けていた。


「帰る」


そう言ったのは、半分だけ本当だった。


アリサは疑わしそうな顔をする。


「ほんとに?」


志乃は頷く。


その動作だけで、視界が少し揺れた。


「ちょっと休めば平気」


また嘘を重ねる。


けれど、アリサをこれ以上巻き込むわけにはいかない。美世は何かを察しているようだったが、それでも止める以上のことはしないだろう。二人を日常の側へ置いたまま、自分だけが外れる。その感覚が、昨日の白塔以来ずっと強まっていた。


アリサは納得していない顔のまま、深く息をつく。


「無理そうだったら絶対連絡して」


志乃は頷いた。


言えることなら、もう少し何かを返したかった。


ありがとう、とか。


ごめん、とか。


けれど今は、そのどちらも軽く言える気がしなかった。


三人で校舎を出る。


外気へ触れた瞬間、第三地区の色はさらに鮮明になった。建物に遮られていたときより、空を挟んだぶんだけ遠くの圧がまっすぐ届くのかもしれない。東の空はまだ明るいのに、志乃にはその一角だけ、見えない染みが広がっているように感じられた。


赤。


銀。


深緑。


青紫。


それぞれが別の理屈で鋭く、別の理屈で危険だ。


そしてその外側で、もっと小さな色の粒がいくつも揺れている。末端の構成員か、野次馬か、巻き込まれかけた一般人か。位置だけが半端にわかるのが、余計に気持ち悪かった。


駅前との分岐に着いたところで、志乃は足を止めた。


アリサが振り返る。


「どうしたの」


志乃は東のほうを見た。


第三地区はここから直接見えない。


それでも、自分の感覚だけは、そこに向いたまま戻ってこない。


「ごめん」


先にそう言ってから、志乃は自分でも驚くほどはっきりした声で続けた。


「ちょっと寄るとこできた」


アリサの顔が一気に険しくなる。


「今の話聞いてた?」


その反応は当然だった。


ついさっきまでふらついていた人間が、今から一人で寄り道するなど正気とは思えない。


美世は何も言わない。


ただ、志乃の視線の先――東の空気を、静かに見ていた。


「やめといたほうがいい」


彼女は小さく言った。


その忠告には、押しつけがましさがない。


だからこそ、余計に効く。


志乃は自分の手を握った。


指先が冷たい。


怖いのだと、ちゃんとわかる。


自分がいまから向かおうとしている場所が、安全ではないことも。強すぎる霊気力の近くへ行けば、また感覚を持っていかれるかもしれないことも。全部、わかっている。


それでも、背を向けられなかった。


零を探すというのは、ただ噂を追うことではないのかもしれない。この街の裏側がどんなふうに動き、どんな力がぶつかり合っているのか、その現実へ近づかなければ、きっと何一つわからない。


遠くで、赤がもう一度、大きく膨らんだ。


志乃の胸の奥で何かが引かれる。


考えるより先に、足が一歩だけ東へ出た。

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