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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第2節 霊気力

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鷹取シズク

学連本部の地下にある小さな防音室では、外のざわめきがほとんど届かない。


東都研究都市の夜は静かなようでいて、実際には絶えず何かが動いている。地上では搬送車が走り、研究棟では夜間稼働の設備が唸り、どこかの区画では人が言い争い、どこかでは誰かが力を試している。そういう雑多な街の呼吸を切り離してくれる場所が、この部屋だった。


鷹取シズクは椅子に浅く腰かけ、膝の上のベースに指を置いていた。


五弦の低い振動が、アンプを通さないまま細く室内を満たす。音量は抑えている。それでも指先から返ってくる張りと、弦の揺れが腹の底に触れる感覚は、気持ちを整えるには十分だった。


彼女は演奏が上手くなりたいから弾いているわけではない。


もちろん嫌いではないし、人並み以上には弾ける自負もある。けれどシズクにとってベースは、趣味である以前に、思考を均すためのものだった。低音は余計な感情を沈める。怒りも焦りも、弾いているあいだだけは輪郭が単純になる。


最後の音を消しかけた、そのときだった。


防音室の壁際に置いた端末が短く振動する。


学連専用の優先回線だ。


シズクは弦から手を離し、すぐに端末を取った。表示されたのは第三地区外周監視班からの簡易コードだった。緊急度は高い。報告要。


「鷹取です」


通話を繋ぐと、向こうの声は必要最低限の速さで告げた。


「第三地区東側境界付近にて不穏な集結を確認」


雑音の向こうで、風を切るような音がしている。現場に近いのだろう。


「紅叉、月砂、双方の構成員が流入しています」


シズクは立ち上がり、ベースを壁際のスタンドに戻した。


頭の中のスイッチが切り替わる。


「数は」


短く問い返す。


返答は即座だった。


「まだ散発的です。ただし、上位個体の反応あり」


その一言で十分だった。


雑魚同士のにらみ合いではない。幹部級が動いている。


シズクは防音室を出ると同時に、上着の襟を正した。地下通路の照明は白く、学連本部の内部はいつでも必要以上に清潔だった。古い大学施設を改修した建物だが、使う人間の気質のせいか、どこも整頓されている。物資、記録、経路、配置。秩序を維持する組織は、自分の中にも秩序を求める。


階段を上がりながら、シズクは次の回線を開く。


「第三地区監視班から緊急報告」


相手は指令卓の職員だった。


「紅叉と月砂、双方の上位反応が出てる。現場ログを総隊長室へ回して」


返事は短かった。


「了解」


それだけで、必要な処理はもう走り始めている。


学連は民間の自衛団組織だが、東都においては半端な自治会よりよほど機能していた。特に霊気力絡みの揉め事では、警察や研究所の正式系統より先に動かなければ人が死ぬ。だからこそ、本部の空気は学生組織のそれではない。制服こそ大学の意匠を残しているが、中でやっていることは完全に現場仕事だった。


総隊長室の前に着くと、扉は半開きになっていた。


ノックを一度だけ入れて、シズクは中へ入る。


吾妻は机に向かっていた。


二十八歳。


学連総隊長。


東都の噂の中では、絵札の一角――エースと呼ばれることもある男だった。


だがシズクにとっての吾妻は、そうした呼び名よりもまず、現場判断の速い上司だった。質実剛健という言葉が服を着て歩いているような男で、余計な虚勢も飾りもない。そのくせ時々、ありえないところで抜ける。大事な会議資料の上に昼食のパンを置いたまま忘れていたことも一度や二度ではなかった。


今日も机の端には、開いたままのファイルの横に、なぜか未開封の栄養ゼリーが一本転がっている。


シズクはそれを見て、内心でだけ小さく息をついた。


「総隊長」


呼びかけると、吾妻は顔を上げた。


その目はすでに、報告の半分を受け取っている顔だった。


「第三地区か」


先に言われて、シズクはわずかに眉を動かす。


「話が早くて助かります」


彼女は端的に続けた。


「紅叉と月砂、双方の構成員が境界線付近へ集まっています。監視班の感知では上位反応あり」


吾妻は椅子にもたれず、机の上の地図端末へ視線を落とした。


第三地区の簡易マップには、まだ正式な危険表示は上がっていない。だが監視網からの補助データがいくつか、淡い色で脈打ちはじめている。


「顔は」


問われて、シズクは即答する。


「確定ではありませんが、紅叉側が団長吉とチョウヤン」


彼女は一拍置いた。


「月砂側は宇都宮寿、千賀峰咲の可能性が高いです」


吾妻の指が、地図の上で止まる。


その反応は小さい。


だがシズクには、それで十分だった。総隊長もまた、同じ結論に達している。


「幹部同士ですね」


シズクは言った。


「ただの牽制では済まないかと」


吾妻は少しのあいだ黙っていた。


彼はすぐに大声を出す男ではない。考えるときほど静かになる。その沈黙のあいだに、部下は自分の言葉の足りない部分を勝手に補おうとする。そういう上司だった。


「第三の担当は」


ようやく吾妻が言う。


シズクは答えを知っている。


「師崎です」


その名を出した途端、吾妻の表情に迷いが消えた。


「なら、もう向かわせた」


シズクは一瞬だけ目を細める。


やはり先を打っていた。


「いつからです」


問いに、吾妻は机端の時刻表示を一瞥した。


「三分前」


まったく、この男はこういうときだけ妙に早い。


シズクは感心半分、呆れ半分で息を吐いた。


「報告に来る前に終わってましたか」


吾妻はわずかに肩をすくめる。


「お前が来ると思ったから、ちょうど話が噛み合っただけだ」


そういうところが、部下に信頼される理由でもある。


自分の先手を誇らない。


誰が何をしても、それが自然に組み合わさるように見せる。


シズクは腕を組み、地図端末へ視線を落とした。


「師崎一人で足りますか」


その問いは、不安というより確認だった。


第三地区担当長――師崎宇連がただ者ではないことは知っている。むしろ学連内部では、現場適性だけなら飛び抜けているとさえ言われる。だが、紅叉と月砂の幹部級が本当に揃っているなら話は別だ。


吾妻は短く頷いた。


「最初の収拾なら十分だ」


その言い方には、無理に楽観している感じがなかった。


「本格的に割れたら俺も出る」


さらりと告げられたその一言に、シズクは少しだけ顎を引く。


東都の絵札の一角とまで言われる男が、自分で出ると言うときは、本当に出る覚悟があるときだ。


彼は口先で部下を安心させるタイプではない。


「なら私も」


反射的に口をついた言葉だった。


吾妻はそこで初めて、少しだけ困ったような顔をした。


「お前は本部に残れ」


予想通りの返答だった。


シズクは視線を逸らさない。


「第三が囮で、別区画に飛び火する可能性もあります」


吾妻は頷く。


「だからだ」


その一言で、反論の半分は潰れる。


「外に出せる駒だけが戦力じゃない」


彼の声は低く、平坦だった。


「今夜は情報線のほうが重要になる」


シズクは小さく息を飲み込んだ。


言っていることはわかる。


紅叉と月砂が動くとき、表で見える人数だけを数えても意味がない。どこへ退路を作り、どこで観測し、どこで別働が動くのか。霊気力者同士の衝突は、見えない配置のほうが結果を左右することがある。


それでも、自分の足で現場へ行きたいと思ってしまうのは、彼女の気質だった。


吾妻はそんなシズクの内心を読んだように、少しだけ声をやわらげた。


「お前がここにいるほうが助かる」


それは慰めではない。


本気の評価だった。


だからこそ、シズクは引き下がるしかない。


「……了解です」


言葉にすると、腹の底の小さな不満まで自分で呑み込める気がした。


吾妻は頷き、机上の端末を切り替える。


「避難導線の再確認をしておけ」


その指示は的確だった。


「第三が荒れた場合、第二と中央に流れる。学生と一般居住者を混ぜるな」


シズクはすぐに頭の中で経路を引き直す。駅側へ流すルート、大学区画へ戻すルート、民間シェルターの開放条件、ドローン巡回の死角。やるべきことは山ほどあった。


「北側線の監視も増やします」


彼女は言う。


「月砂が裏を回すなら、あっちの抜けが一番綺麗です」


吾妻は「任せる」と短く返した。


そうして会話が途切れたとき、総隊長室の窓の向こうで、東都の夕方はすでに夜の色へ沈み始めていた。


白い研究棟の輪郭が少しずつ硬くなり、通りには自動照明が浮き上がる。遠目には平穏そのものだ。だがシズクには、この街全体が薄く息を潜めているように感じられた。


吾妻も同じものを見ているのだろう。


「妙ですね」


シズクは窓際へ歩きながら言った。


「紅叉も月砂も、最近は露骨すぎる」


吾妻は背後で椅子を引いた気配をさせた。


「同感だ」


彼は短く答える。


「誰かが煽ってる可能性もある」


シズクは窓ガラスへ映る自分の顔を見た。


細い目元はいつも通り冷静に見える。だが、胸の底では低い弦を弾いたあとのような振動がまだ残っていた。嫌な夜になる。そういう予感だけが、妙にはっきりしている。


「第三だけで終わればいいですけど」


彼女のその呟きに、吾妻はすぐには答えなかった。


少ししてから、静かに言う。


「終わらせるしかない」


その言葉は、強がりではなかった。


学連総隊長としての決意であり、東都のエースと呼ばれる男の、ひどく質実な覚悟だった。


シズクは小さく頷く。


それで十分だった。


本部を出る前、彼女は机の端に転がったままの栄養ゼリーを見つける。


「総隊長」


吾妻が顔を上げる。


「それ、また飲み忘れてます」


彼は一瞬だけ何のことかわからない顔をし、それから机上を見て小さく息をついた。


「……あとで飲む」


その返事に、シズクはかすかに口元を緩めた。


こういう抜けたところがあるから、部下たちはあの男を必要以上に心配する。


そして、そういう男だからこそ、最後には信じてついていくのだ。


本部の廊下へ出ると、すでに指令卓では第三地区関連の表示が増え始めていた。


シズクは歩きながら回線を開く。


「副隊長権限で通達」


声は自然と冷えていく。


「第三地区周辺の監視密度を一段上げる。北側線、中央接続路、居住区流入経路の三点を重点確認。師崎担当長の現場権限を優先」


返答が幾重にも返ってくる。


東都の夜は、これから少しずつ牙を見せる。


鷹取シズクは足を止めず、情報の海へ戻っていった。


その頃にはもう、第三地区担当長・師崎宇連は、夜の街を現場へ向けて走っているはずだった。

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