東都の裏側
第三地区、緊張高まる。
端末の画面に浮かんだその見出しを、綾崎志乃は何度も見返した。
大げさな煽り文句にも見える。だが、続けて表示された関連情報の断片は、どれも嫌になるほど具体的だった。交通規制。立入注意。民間警備機構の巡回強化。匿名掲示板ではさらに露骨で、紅叉、月砂、接触、幹部、という単語が並んでいた。
東都研究都市は、表から眺めるぶんには綺麗な街だ。
大学と研究棟と企業施設が整然と並び、区画ごとに植栽が管理され、夜でも歩道の照明は切れない。開発特区の成功例として紹介されるとき、映るのはいつもガラス壁面の白さや、物流網の効率、霊気力研究の最先端といった華やかな面ばかりだった。
けれど、少しだけ掘れば別の顔が見える。
再建の街であるということは、同時に、力を求める人間が集まる街でもあるということだ。仕事、技術、保護、食料、居場所、そして力。失われたものが多かった時代を通り抜けてきた土地では、それを取り戻す手段が綺麗なものだけで済むはずもない。
志乃は講義棟の廊下を歩きながら、周囲の会話へ自然と耳を向けていた。
今日の東都は、噂の流れ方がいつもと違う。
誰もが大声では話さない。けれど皆、同じ方向を薄く気にしている。第三地区。その区画名だけが、廊下のあちこちで小石みたいに転がっていた。
「また規制入るって」
すれ違った男子学生が、連れへ向かって言った。
その声には呆れと慣れが混じっている。
「どこ?」
隣の学生が訊き返す。
「第三」
返答は短かった。
「紅叉と月砂の線、濃いらしい」
志乃は足を止めないまま、その会話を背中で聞いた。
紅叉。
月砂。
昨夜から何度も検索結果の中で見かけた名前だ。だが、目にするたびに印象が揺れる。組織、武装勢力、研究所の私兵、半ば公然の犯罪集団。書く場所によって呼び方が違い、どれも完全には間違っていないように見える。
次の空き時間、志乃は図書検索ではなく、東都の過去記事アーカイブを漁っていた。表向きの学術データベースではなく、地域ニュースや行政発表、企業広報の魚拓が集められた古い公開ログだ。
そこには、紅叉も月砂も正式な意味では“武装組織”としては記されていなかった。
樋口研究所・外縁治安支援部門。
丹波研究所・区域安定運用部門。
そんな、ひどく整った肩書きが並ぶ。
いかにも東都らしい言い換えだと志乃は思う。危険なものを危険なまま置いておくのではなく、制度の棚へ仮置きし、綺麗な名称を貼って流通させる。そうして街は、自分の裏側まで機能の一部として抱え込んできたのだろう。
だが、広報文の外側では呼び名が違う。
紅叉。
月砂。
名前だけで、もう十分に刃物めいている。
放課後、学食で向かい合ったアリサは、志乃の端末に並ぶ検索履歴をちらりと見て、露骨に顔をしかめた。
「ほんとにそっち行くんだ」
彼女はトレイの紙コップを持ち上げながら言った。
志乃は端末を少しだけ伏せる。
「そっちって」
言い返したつもりだったが、声に力はなかった。
アリサはため息をつく。
「紅叉とか月砂とか、そういうやつ」
彼女は周囲を一度見回してから、少しだけ声を落とした。
「面白半分で触る話じゃないよ」
志乃は否定しようとした。
だが、面白半分ではないからこそ厄介なのだと、自分でもわかっている。
「何者なの」
そう訊くと、アリサは少しだけ言葉を選んだ。
「研究所の名前はついてるけど、研究だけしてる連中じゃない」
彼女はそう言ってから、紙コップの蓋を指先でいじる。
「外で揉め事が起きたとき、先に動くのがああいうところって話もあるし、逆に、揉め事を増やしてるのもあいつらだって話もある」
どちらにしても、まともではない。
その含みが、短い言葉の中にあった。
美世は向かいでスプーンを止めていた。
彼女はしばらく何も言わなかったが、やがて静かに口を開く。
「東都って、外から来た人には綺麗に見えるから」
その声はいつも通り穏やかだった。
「綺麗なものだけで回ってる街だと思いやすい」
志乃は思わず美世を見る。
まさに自分がそうだったからだ。
四月に東都へ来たばかりの頃、この街は整いすぎていて、ほとんど未来そのものに見えた。過去の混乱を乗り越えた場所。再建の象徴。努力すればどこまでも上へ行ける街。少なくとも、大学へ通う学生として眺めるぶんにはそうだった。
けれど実際には、その整然とした地表の下に、力と利害と縄張りが幾重にも走っている。
「裏側って、隠れてるわけじゃないのかもね」
美世はそう続けた。
「見ようとしなかったら見えないだけで」
アリサが「それはそう」とだけ返す。
珍しく、すぐに否定しなかった。
志乃は自分の味噌汁へ視線を落とした。
湯気は立っているのに、食欲はまだ完全には戻らない。昨夜から、自分の感覚はずっとどこか半歩ぶんずれていた。白塔の中で刻まれた呪いが、そのまま世界との距離感まで狂わせているようだった。
昼食のあと、志乃はひとりで中央通りのほうへ回った。第三地区へ行くつもりはない。ただ、その方向の空気がどんなふうに変わっているのか、見ておきたかった。
夕方前の街は、一見いつも通りだった。
だが注意して見ると、いつもより警備ドローンの巡回が多い。交差点脇の表示パネルには、第三地区周辺の一部歩道閉鎖が静かに告知されている。大学生や研究員たちは足早に通り過ぎるが、地元の者ほどその文面を見ても驚かないようだった。
慣れているのだ。
こういう種類の“いつも通り”に。
志乃は立ち止まり、遠くの高架道路の向こうを見た。
第三地区の輪郭そのものはここからは見えない。けれど、霊気力に敏感な彼女の感覚の奥では、街の一角だけ色が違うようなざわめきがあった。ごく薄いのに、無視しづらい。熱ではなく圧。色で言えば、赤に近い鈍い黒と、乾いた灰色が、遠くで擦れ合っているみたいな不快さだった。
人の気配を感じるときの感覚に似ている。
だが人数が多い。
しかも、質が揃っていない。
鋭いもの、重いもの、ざらついたものが、一箇所へ寄せ集められている。
志乃は無意識に眉をひそめた。
これが、街の裏側の“動き”なのかもしれない。
見えないのに、確かにある。
そして、普通に暮らしている人間のすぐ隣で、こういうものがぶつかり合っている。
端末が震えた。
新しい通知が上がっている。
地域掲示板の速報だった。
《第三地区にて紅叉・月砂双方の上位戦力接触の噂》
その下には、さらに断片的な書き込みが続く。
《団長吉が出たらしい》
《チョウヤン確認》
《いや月砂側も宇都宮と千賀峰が動いてる》
《学連も来るぞ》
固有名詞が一気に増えたせいで、かえって現実味が増す。
紅叉の団長吉。
チョウヤン。
月砂の宇都宮寿。
千賀峰咲。
どの名も志乃にはまだ人の顔として結びつかない。けれど、ただの構成員ではなく、“幹部”と呼ばれる連中なのだと文字の熱が伝えていた。
そして最後の一文だけが、妙に冷たく目へ残る。
《今夜、第三地区は荒れる》
志乃は端末を持つ手に、じわりと汗が滲むのを感じた。
東都の裏側は、もう噂の中にだけあるものではなかった。
いま、この瞬間にも、どこかで動いている。
そしてその動きは、零や絵札の噂とは無関係ではない。
そう思った途端、白塔の地下で聞いた声が、ひどく遠い場所からまた耳の奥に蘇る。
助けたければ、“零”を探せ。
志乃はゆっくりと顔を上げた。
夕方の東都は相変わらず白く、整って、美しかった。
その街の皮膚のすぐ下で、見えない牙が何本も擦れ合っている。




