絵札たち
零を知りたいなら、まず絵札を知れ。
その言葉は、綾崎志乃の頭の中に思った以上に強く残った。
学生ラウンジで話を聞いたあと、志乃はしばらくその場を離れられなかった。窓の外では、夕方へ傾き始めた光が研究棟の白い壁を撫でている。行き交う学生たちの足音や話し声は絶えないのに、自分だけがひとつ深いところへ沈み込んでいく気がした。
絵札。
キング、ジャック、クイーン、エース。
東都のどこかに実在するらしい、強力な霊気力者たち。
そして、そこへ割り込むように置かれた例外の一枚が、零――ジョーカー。
志乃は端末を開き、検索欄へ新しく文字を打ち込んだ。
東都 絵札。
結果は、昨夜の“零”よりいくらか絞られていた。だが、そのぶん内容は妙に生々しい。匿名掲示板、裏論壇めいた個人サイト、霊気力適性の噂を集めたページ、削除済みログの魚拓。どれも正式な資料ではない。けれど、完全な与太話として切り捨てるには、同じ単語が繰り返し現れすぎていた。
東都四天王。
絵札。
都市を四つに裂いても立っている者たち。
そんな、いかにも誰かが面白がって盛ったような文句の中に、一定の共通項がある。
四人いること。
呼び名がキング、ジャック、クイーン、エースであること。
そしてその四人は、単に喧嘩が強いとか霊気力が大きいとか、そういう程度ではないらしいこと。
志乃はひとつひとつの記事を開いては閉じた。
キングについては比較的記述が多かった。
支配する者。
東都の武装勢力の一角に君臨する王。
正面からぶつかって勝てる者はいない。
そんな物騒な言葉が並んでいる。
逆にジャックは断片的だった。処刑人、切り札、王の手足、戦場だけに現れる影。どの書き込みも印象がばらばらで、ひとつの人物像へ収束しない。
クイーンはさらに奇妙だった。女だという話もあれば、女ではないという話もある。戦う者というより、場を支配する者。直接手を下さずとも勝敗を決める者。そんな書かれ方が目立った。
エースは最もわかりやすく、最も曖昧だった。
純粋な最強。
そう書いてある場所もあれば、どの陣営にも属さない孤高の札とする記述もある。結局のところ、誰も正体を掴めていないのだとわかるだけだった。
「ただの噂、だよね……」
志乃はそう呟いてみる。
言葉にしたところで、まるで現実感がない。
けれど、あの白塔の地下を見たあとでは、“ただの噂”の一言で片づけることができない自分もいた。
講義棟を移動する途中、志乃は階段の踊り場で足を止めた。
前方の廊下で、数人の学生がまた似たような話をしていたからだ。今日の東都では、絵札や第三地区の話題がいつもより少しだけ浮いている。大きな事件の前後には、こうして街全体の空気がわずかに同じ方向を向くのかもしれない。
「絵札って結局、誰が決めたんだろうな」
そう言ったのは、背の高い男子学生だった。
連れのひとりが笑う。
「裏の連中でしょ。賭場とか掲示板とか」
もう一人が肩をすくめた。
「でも、あれ便利じゃん」
その軽い口調に、志乃は少しだけ眉を寄せた。
「便利って?」
背の高いほうが聞き返す。
「強い奴を四枚で呼べる」
言った本人は冗談のつもりらしかった。
だが別の学生は、少し真面目な顔になる。
「四枚、ってのが気持ち悪いんだよ」
その言葉に、志乃の足が止まる。
「なんで?」
軽口の空気が、ほんの少しだけ薄れた。
「トランプって、ちゃんと揃ってるときほど不気味だろ」
男はそう言って笑ったが、その笑いは少し硬かった。
「しかも、絵札の外にジョーカーがいるって話までつく」
志乃は胸の奥がひやりとするのを感じた。
ジョーカー。
零。
やはり、その呼び名は完全な都市伝説ではない。少なくとも、この街では何人もの人間が同じ札の話をしている。
廊下を抜け、講義のあとにアリサと合流したときも、志乃の頭の中はまだ絵札のことでいっぱいだった。
アリサは端末を鞄にしまいながら、横目で志乃を見る。
「今日は昨日よりはマシ」
それが挨拶代わりみたいな言い方だった。
志乃は苦笑する。
「ひどい基準」
アリサは肩をすくめた。
「昨日がひどすぎたの」
その言い方に少しだけ救われる。
アリサが普段通りに接してくれるだけで、自分もまだ“こちら側”にいられる気がした。
だが、志乃が考え込んでいたせいだろう。
数歩歩いたところで、アリサがまたこちらを見る。
「なんか調べてる?」
その問いに、志乃は一瞬だけ身構えた。
白塔のことは言えない。
けれど、零は言える。
絵札も、たぶん言える。
「ちょっと、東都の噂みたいなの」
慎重にそう答える。
アリサは露骨に嫌そうな顔をした。
「またろくでもないやつだ」
その反応があまりにも予想通りで、志乃は少しだけ笑った。
「ろくでもないのは否定しない」
アリサは歩きながら前髪をかき上げる。
「で、何」
問われて、志乃はほんの少しだけ迷った。
何をどこまで言うか。
「絵札って知ってる?」
アリサの歩幅がわずかにゆるむ。
「……東都の?」
その返しに、志乃は目を瞬いた。
知っているのだ。
「知ってるんだ」
アリサはすぐに顔をしかめた。
「知ってるっていうか、聞いたことある程度」
彼女はそう前置きしてから、声を少しだけ落とす。
「強い霊気力者を勝手にそう呼んでるって話でしょ」
やはり同じだ。
呼び名だけが独り歩きしているわけではない。
「本当にいるのかな」
志乃がそう言うと、アリサは即答しなかった。
しばらく考えるように口を閉じ、それから曖昧に言う。
「“いる”の定義によるんじゃない」
その答え方は、アリサにしては珍しくぼかしていた。
「東都って、力がある人が集まる街じゃん」
彼女は視線を前へ向けたまま続ける。
「だから、何人か飛び抜けたやつがいてもおかしくはない」
そこで一度、志乃の顔を見る。
「でもそれを誰がどうやって四枚に分けたのかは、たぶん別の話」
なるほど、と思った。
実在する強者たちと、それを“絵札”として整理した誰かの視線は、同じものではないのだ。
「じゃあ、ジョーカーは」
その単語を口にした瞬間、アリサの眉がぴくりと動く。
「そこまで行くの?」
半ば呆れたような声だった。
それでも、完全に知らないわけではなさそうだった。
「それも噂」
アリサは短く言った。
「ただ」
言いかけて、彼女は少しだけ周囲を見る。廊下にはまだ学生が多い。誰かに聞かれて困る話でもないはずなのに、その仕草には妙な慎重さがあった。
「零って言うと、変に嫌がる人いるよ」
志乃は息を止めた。
「嫌がる?」
アリサは頷く。
「冗談にしたくない感じ」
彼女自身も、そこから先はよく知らないのだろう。
「うまく言えないけど、都市伝説として消費していい名前じゃない、みたいな空気」
その言葉は、志乃の胸へ重く落ちた。
まさに自分は今、その名前を掴みどころのない噂として追っている。
けれど白塔の地下であの男が口にしたとき、“零”は噂でも遊びでもなかった。
あれはもっと直接的で、切実で、現実的な命令だった。
夕方、帰宅してからも志乃は検索をやめなかった。
昨夜見た怪しげな掲示板とは別に、今日は霊気力研究の周辺で使われている論壇や学生フォーラムも漁ってみる。表向きは真面目な議論をしている場所でも、過去ログを遡ると時折、“絵札”や“零”への言及が紛れていた。
そのひとつに、こんな書き込みがあった。
――絵札は都市の均衡そのものだ。
なんだそれ、と思う。
けれど、少し下に続く文を読んだとき、志乃は無意識に姿勢を正した。
――キングは力で支配する。
――クイーンは配置で勝つ。
――ジャックは局地をひっくり返す。
――エースは単独で戦況を変える。
――零は、そのどれにも収まらない。
志乃は画面を見つめたまま動けなくなった。
零は、そのどれにも収まらない。
つまり絵札に並ぶのではなく、最初から別の理屈で存在している、ということになる。
「……何なの、それ」
答えのない問いが漏れる。
同時に、白塔の地下で見た男の目が脳裏に浮かんだ。
あの男は、絵札ではないのか。
それとも、その外にいるのか。
いや、そもそもあの男が零を探していたのは、自分では辿り着けないからだと言っていた。なら彼自身は零ではないのだろう。
考えれば考えるほど、輪郭は曖昧になる。
だが、ひとつだけ明らかになってきたことがある。
零は単なる強者ではない。
絵札という都市の強さの基準が先にあり、その外側に、説明のつかない例外として語られている。
そのことが、志乃には妙に怖かった。
強い人間ならまだわかる。
危ない人間でも、想像はつく。
けれど“分類の外”にいる存在は、何を基準に恐れればいいのかすらわからない。
端末の画面を閉じようとした、そのときだった。
通知欄に、新しく流れてきた地域掲示のタイトルが目に入る。
第三地区、緊張高まる。
その下にはさらに、見慣れない単語が並んでいた。
紅叉。
月砂。
幹部接触か。
志乃の指先が止まる。
絵札の外にいる零を知るには、まず絵札を知れ。
そしていま、東都の裏側で動いているのは、絵札に繋がるかもしれない連中だ。
志乃は静かに息を吸った。
この街は、自分が思っていたよりずっと深い。
白塔の地下だけが異常なのではない。
その異常を抱えたまま、東都という街そのものが動いているのだ。




