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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第2節 霊気力

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零という名前

その日の午後から、綾崎志乃の行動は目に見えないところで少しだけ変わった。


講義を受け、ノートを取り、アリサに小言を言われ、美世の曖昧な一言に首を傾げる。表面上は昨日までと変わらない。けれど実際には、空いた時間のほとんどすべてを、志乃は“零”という二文字に費やしていた。


端末を開く。


検索欄へ、慎重に文字を入れる。


東都 零。


東都 零 霊気力。


東都 ジョーカー。


結果は、昨夜と同じく雑多だった。零点調整のプログラム、統計処理の論文、企業管理システムの略称、学生が作った意味不明な動画の題名。どれも関係があるようで、ない。


そのなかに時折、意図的に埋もれているみたいな断片が混じる。


匿名掲示板の古い書き込み。


削除済みのログをまとめた怪しげなサイト。


霊気力に関する都市伝説だけを扱う個人ブログ。


そこに現れる言葉は、決まって曖昧だった。


零。


ジョーカー。


絵札の外。


見た者によって姿が違う何か。


志乃は昼休みの残り時間を使って、講義棟の隅にある自習スペースに座っていた。ガラス張りの壁の向こうでは、学生たちが次の授業へ向かって絶えず行き来している。その流れからほんの少し外れた机で、志乃だけが違う方向を掘っている気がした。


検索結果のひとつを開く。


東都の裏事情を面白半分にまとめたような記事だった。


信憑性は低い。


それでも、“零”の項目だけは妙に執拗だった。


曰く、東都には絵札と呼ばれる強い霊気力者がいる。


曰く、その外側にいる例外を、誰かがジョーカーと呼び始めた。


曰く、零は存在するが、決して同じ顔では現れない。


最後の一文に、志乃は指を止めた。


同じ顔では現れない。


それはどういう意味なのだろう。


変装がうまい、というような話には見えない。むしろ目撃者ごとに証言が食い違う、そういう類の書かれ方だった。


「違う顔って、何」


小さく呟く。


喉は締まらない。


零という単語だけは、やはり呪いの外側にあるらしかった。


それが救いなのか、罠なのか、まだわからない。


次の講義が終わったあと、志乃は廊下を歩く学生たちの会話へ、必要以上に耳を澄ませるようになっていた。


ふだんなら聞き流す雑談の中にも、“霊気力”や“第三地区”といった単語が混じると反応してしまう。昨日から今日にかけて、東都のどこかで何かがざわついている。そのことは、噂の流れ方だけでもなんとなくわかった。


「昨日、また揉めたらしいよ」


前を歩く男子学生が、友人へそう言っているのが聞こえた。


「どこで」


連れのほうが気楽に返す。


「第三地区」


その三文字に、志乃の意識が一気に引っ張られた。


足は止めない。


だが耳だけが、その会話へ張りつく。


「霊気力者同士だって」


話している男は、詳しいというより聞きかじりを得意げに披露している調子だった。


「また紅叉か月砂じゃない」


連れは興味なさそうに笑う。


紅叉。


月砂。


昨夜の検索の中にも、その名は何度か現れていた。東都に巣食う武装勢力。研究所を母体にした、半ば公然と活動する危険な連中。どこまで本当でどこからが誇張なのかはわからないが、少なくとも学生たちが平然と名前を知っている程度には、街に浸透した存在らしい。


志乃は二人を追い越さないよう歩調をゆるめた。


だが次の瞬間、会話は別の授業の愚痴へ変わってしまう。欲しい情報ほど、狙うと遠ざかる。


教室へ戻る前、志乃は自販機の前で足を止めた。


冷たいお茶を買おうとして、端末が震えるのに気づく。アリサからのメッセージだった。


『今日ほんとに平気?』


その短文のあとに、珍しく絵文字がひとつだけついている。


心配しているのだ。


昨日から、ろくに説明もできないままごまかし続けているのだから当然だった。


志乃は少し迷ってから、同じように短く返す。


『平気。ちょっと寝不足なだけ』


送ってすぐに、既読がつく。


返事は来ない。


その沈黙に、アリサの「納得していない感じ」がそのまま滲んでいる気がして、志乃は苦笑した。


放課後、講義棟の一階にある学生ラウンジは、いつもより騒がしかった。


霊気力関係の学部生や、研究所と繋がりのあるゼミの学生が多いせいか、こういう場所にはたまに、学内とは思えない単語が混じる。今日も奥の丸テーブルで、年上の学生らしい三人組が、第三地区の件を話題にしているのが見えた。


志乃は少し離れた席へ座り、端末を開いたふりをしながら耳を傾けた。


「幹部同士がやったって話、本当かな」


一人がそう言った。


黒縁眼鏡の、理系然とした顔つきの男だった。


「本当なら学連が黙ってないでしょ」


隣の女子学生が、ストローつきの紙パックを弄びながら返す。


「もう動いてるって」


三人目が低い声で言う。


「あそこ、最近ぴりついてるから」


学連。


その単語は検索でも見た。


東都の私警団。大学や学生組織とも微妙に繋がっていて、治安維持のための民間組織として機能しているらしい。だが、ただの自警団では済まない規模と力を持っているとも書かれていた。


志乃は喉を鳴らした。


いまなら割り込めるかもしれない。


不自然だろうか。


だが黙って聞いているだけでは、たぶんいつまでも核心へ届かない。


少し躊躇ったあと、志乃は席を立った。


「あの」


三人の視線がこちらへ向く。


心臓が嫌な跳ね方をした。


「急にごめんなさい」


志乃は自分でも驚くほど平然とした顔を作った。


「今、第三地区の話してましたよね」


眼鏡の男が、警戒半分、興味半分といった顔をする。


「うん。まあ」


女子学生のほうが、志乃の顔を見て首を傾げた。


「一年?」


志乃は頷く。


「そうです。ちょっと聞きたいことがあって」


ここで白塔のことは言えない。


そんなこと、考えるまでもない。


だから最短距離で、本題だけへ触れる。


「“零”って、何ですか」


三人の空気が、わずかに変わった。


大げさな反応ではない。


だが、軽口を交わしていた雰囲気がほんの一瞬だけ薄く張る。


最初に笑ったのは、紙パックを持っていた女子学生だった。


「なにそれ。急に深いとこ行くね」


からかわれたのかと思ったが、その目は完全には笑っていない。


眼鏡の男が、志乃の顔を探るように見た。


「どこで聞いたの」


その問いに、志乃は反射的に言葉を選ぶ。


「ネットで、ちょっと」


嘘ではない。


それで十分かどうかはわからないが、今の自分に出せる範囲では最良の答えだった。


三人目の男が椅子に深く座り直す。


彼は三人の中でいちばん口数が少なそうだったが、そのぶん視線が鋭かった。


「ジョーカーのことか」


その言い方に、志乃の指先がぴくりと動く。


やはり繋がっている。


零とジョーカーは別物ではない。


「知ってるんですか」


身を乗り出しかけて、志乃は自分を抑えた。


焦りすぎると怪しまれる。


女子学生が肩をすくめる。


「知ってるっていうか、東都じゃたまに出る噂」


彼女はストローを指先で回しながら続けた。


「絵札の外にいるやつ、って言われてる」


その一言で、昨夜見たまとめ記事の断片が、少しだけ形を持った。


「絵札?」


志乃が聞き返す。


眼鏡の男が頷いた。


「強い霊気力者を勝手にトランプに例えてるだけ」


説明は素っ気ない。


だがその“勝手に”という言い回しは、逆にこの街で定着した俗称であることを感じさせた。


「で、その外にいる例外が零」


口数の少ない男がそう補った。


「でも本当にいるかは知らない」


志乃は思わず眉を寄せる。


「え」


女子学生が苦笑する。


「だって、会ったって言うやつが毎回違うこと言うんだもん」


彼女は指を折りながら数え始めた。


「若い男だったって話もあるし、女だったって話もあるし、学生みたいだったって証言もあれば、もっと年上だったって話もある」


そこで一度、彼女は志乃を見る。


「能力の話もばらばら」


眼鏡の男が言葉を継ぐ。


「霊気力を消すとか、奪うとか、見ただけで止まるとか」


どれも、噂の形をしたまま輪郭がない。


それでも志乃は、その曖昧さにむしろ寒気を覚えた。


実在しないから曖昧なのか。


実在するのに、同じ姿で語られないから曖昧なのか。


判断がつかない。


「じゃあ、名前じゃないんですか」


志乃の問いに、三人は少しだけ黙った。


最初に口を開いたのは、あまり喋らなかった男だった。


「名前っていうより」


彼は少しだけ考えるように視線を伏せた。


「席かもしれないな」


その表現に、志乃は息を止める。


席。


人ひとりの固有名ではなく、そこに座るものへ与えられる呼び名。


それなら姿の証言が食い違うのも、おかしくない。


女子学生が小さく笑う。


「でもその席、空席かもしれないしね」


冗談めかした口調だったが、軽くは聞こえなかった。


志乃は自分の手のひらを見た。


指先が少し冷えている。


零はたしかに存在する、と断言されるより、そのほうがまだ楽だったかもしれない。だが実際には、誰も見たとは言い切れず、それでも皆が完全には否定しない。そういう存在のほうが、よほど厄介だ。


「なんで急に、そんなの気にしてるの」


女子学生にそう問われて、志乃は一瞬だけ言葉に詰まる。


もちろん、本当の理由など話せない。


「……ちょっと興味があって」


ありきたりな返答だった。


だが三人は、それ以上深くは追及してこなかった。


東都では“変なことに興味を持つ学生”は、たぶんそこまで珍しくないのだろう。


ただ、眼鏡の男だけが最後に少しだけ真面目な顔になった。


「もし本気で調べたいなら」


彼は端末を閉じながら言った。


「零だけ追っても、たぶん見えないよ」


志乃は顔を上げる。


「じゃあ、何を」


男は一度、窓の外へ視線を向けた。


遠くに研究棟の白い壁面が見える。


「絵札」


その一語は、思った以上に重かった。


「零を知りたいなら、まず絵札を知れ」


志乃はその言葉を、胸の奥へそのまま落とした。

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