眠れない朝
白塔から戻った翌朝、綾崎志乃は、ほとんど眠れないまま大学へ向かった。
眠れなかった、というより、眠ることを身体が拒んでいたに近い。目を閉じるたびに、白い通路の奥にあった重い扉が浮かんだ。その先の部屋。青白い照明。寝台に横たわる女。静かすぎる男の目。そして、自分の喉へ刻み込まれた見えない楔。
浅いまどろみへ落ちても、すぐに息苦しさで目が覚めた。
話した瞬間に死ぬ。
その言葉が、夢の中ですら現実味を失わない。
何度目かの覚醒のあと、志乃は諦めてベッドから起き上がった。時刻は六時を少し回ったところだった。東都の朝は早い。研究棟へ向かう職員も、物流ラインを監視する保守員も、大学の一限へ急ぐ学生も、皆がまだ涼しい空気の中を整然と動き始める。
カーテンを開ける。
曇ってはいない。
空は白く薄まり、今日も乾いた朝になりそうだった。
遠く、建物の隙間に白塔が見える。
志乃は反射的に視線を逸らした。
昨日までとは違う。
あれは街の景色ではない。もう、そういうふうには見られなかった。白い外壁の中に、古びた研究施設の通路があり、眠ったままの女がいて、自分を呼ぶ声がある。そのことを知ってしまった以上、塔はただのランドマークではなく、世界に空いた傷口のように思えた。
洗面所で顔を洗う。
鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。目の下には薄く影が落ち、唇の色も悪い。だが決定的に異常な箇所はない。喉にも胸にも、傷ひとつ見えない。
それでも、指先で首筋に触れると、皮膚の下へ冷たい輪が沈んでいる気がした。
朝食を取る気にもなれず、志乃は冷蔵庫の水だけ飲んだ。
喉を通るたびに、昨夜の痛みが思い出される。白塔、と口にしかけただけで、内側から一気に締め上げられた。あれは脅しではない。実際に起きる現象だ。思い込みで説明しようとしても、身体のほうが先に否定してくる。
端末を見ると、アリサから夜のうちに返事が来ていた。短く、怒っているようでいて、最後の一文だけが優しかった。
『今日は顔見たらちゃんと聞く。無理すんな』
美世からの返事は相変わらず簡潔で、しかし妙に引っかかった。
『無理に話さなくていいこともあるよ』
志乃はその文面をしばらく見つめた。
まるで、美世だけが何かを知っているみたいだった。もちろん、本当に知っているはずはない。ただ、彼女の言葉はたいてい、普通の会話の半歩先を歩いているように聞こえる。
大学へ向かう道すがら、東都は昨日と変わらぬ朝を始めていた。
歩道脇の植栽はきちんと刈り込まれ、搬送車は静かに交差点を抜け、講義棟のガラスは朝日を白く返している。霊気力だの武装勢力だの、噂ではいくらでも耳にする街だ。けれど表面だけ見れば、ここはどこまでも整理された研究都市だった。
その整いすぎた風景の中で、志乃だけが昨夜から切り離されたまま歩いている気がした。
講義棟の入口に近づいたとき、背後から勢いよく名前を呼ばれる。
「志乃」
振り返ると、西野アリサが早足でこちらへ来るところだった。肩にかけたバッグが揺れ、きりっとした目元には案の定、心配と苛立ちが半々で浮かんでいる。
「やっぱり変な顔してる」
開口一番にそう言われて、志乃は苦笑するしかなかった。
「おはようの次がそれ?」
軽口のつもりで返したが、声は思ったより掠れていた。
アリサの表情が少しだけ引き締まる。
「その声どうしたの」
志乃は喉に手をやりかけて、やめた。
「たぶん乾燥」
自分でも苦しい言い訳だと思う。
だが他に説明のしようがない。
アリサは納得していない顔で、じっと志乃を見る。その視線から逃げるように、志乃は先に歩き出した。
教室へ入ると、古本美世はすでに席についていた。今日も不思議なくらい落ち着いた様子で、端末を開いたまま窓際の光をぼんやり見ている。
志乃たちが近づくと、美世は視線だけこちらへ寄越した。
「寝てないね」
その一言に、志乃は思わず立ち止まりそうになった。
アリサがすぐに腕を組む。
「でしょ」
志乃は自分の席へ鞄を置きながら、曖昧に笑った。
「ちょっとだけ」
美世は首を横に振った。
「ちょっとじゃない」
彼女の言い方には、責める色がない。事実をそのまま拾って差し出してくるだけだ。
その分、ごまかしがききにくい。
講義が始まってからも、志乃は内容がほとんど頭へ入らなかった。板書を写しているつもりで、実際には同じ箇所に何度も視線を滑らせているだけだった。
気を抜くと、“零”という二文字が勝手に浮かぶ。
零。
あの男が最後に残した言葉。
昨夜のうちに調べた限りでは、東都の裏側で囁かれる噂の中に、確かにその名はあった。絵札の外にいる者。ジョーカー。能力を消す者。強すぎて実在すら曖昧な存在。
どれが本当で、どれが尾ひれなのかはわからない。
けれど、白塔の外へ持ち出せた手がかりがそれしかない以上、すがるしかなかった。
昼休みになり、三人はいつものように学食の窓際へ集まった。
トレイの上にはそれぞれ違う昼食が並んでいるのに、志乃だけはほとんど手をつけられない。味がしないというより、胃が食べ物を受けつけたがらないのだ。
しばらく無言が続いたあと、アリサが先に口を開く。
「昨日、何してたの」
その問いは、昨夜のメッセージよりもずっと真っ直ぐだった。
逃げ道を塞ぐようでいて、同時に、ちゃんと話せば受け止めるつもりだという意思も感じられる。
志乃は箸を持ったまま、少しだけ俯いた。
「寄り道」
それだけなら言える。
喉は反応しない。
アリサはすぐに追う。
「どこに」
志乃の指先が止まる。
言える範囲を探るように、頭の中で単語を並べる。駅前。通り道。広場。どれも違う。嘘を重ねればたぶん誤魔化せる。けれど、咄嗟の嘘で二人を納得させられる気がしなかった。
「ちょっと、あの」
そこで喉がひやりと冷えた。
まだ固有名詞は出していない。
なのに、記憶そのものへ近づいただけで、胸の裏に巻きついた輪が微かに軋む。
志乃は口を閉じた。
美世がその変化に気づいたように、静かに目を細める。
「言わなくていいよ」
その声は穏やかだった。
救われた気もしたし、見透かされた気もした。
アリサは納得のいかない顔をしたが、それでも志乃の顔色を見て、追及を飲み込んだらしい。代わりに紙ナプキンを一枚、志乃の前へ押しやる。
「せめて病院行くか保健室行くかして」
怒っているような口調なのに、やっぱり優しい。
志乃は小さく頷いた。
「大丈夫」
その言葉自体は、本当ではなかった。
けれど嘘だと断定するのもまた難しい。病気ではない。怪我でもない。何が起きているのか自分でも説明できない以上、大丈夫と言うしかなかった。
アリサがため息をつく。
「大丈夫な人はそんな顔しないの」
その指摘に返す言葉が見つからず、志乃は視線を落とした。
美世はスプーンを置いて、少しのあいだ窓の外を見ていた。秋の光の向こうに、講義棟と研究棟の白い壁面が重なっている。
「昨日から、空気が変わってる」
美世は独り言みたいに言った。
アリサが眉を寄せる。
「またそういうこと言う」
美世は否定も肯定もしなかった。
「志乃の周りだけ、ざらざらしてる」
その表現に、志乃の胸がひやりとした。
ざらざら。
まさに昨夜から自分が感じている感覚に近い言葉だった。
「何それ」
アリサは半ば呆れながらも、志乃のほうを見る。
「ほんとに熱あるんじゃない」
志乃は慌てて首を振る。
「ないって」
少し強めに否定したせいで、喉の奥がまたひりつく。
その痛みをごまかすため、水を一口飲む。冷たさが通っても、胸の裏側の異物感は消えなかった。
昼休みの喧騒の中、自分だけが薄い膜の向こうにいるようだった。
話せない。
助けを求められない。
けれど何もしなければ、昨夜の出来事は全部、自分の内側で腐っていく。
ふと、志乃は端末の画面を点けた。
昨夜開いた検索履歴が残っている。
東都 零。
東都 ジョーカー。
霊気力 絵札。
検索欄の文字を見るだけで、胸の奥にかすかな焦りが灯る。あの男が自分に残したのは、呪いだけではない。逃げ道のない宿題だった。零を探せ、と。
志乃は気づく。
誰にも話せない以上、自分で動くしかないのだと。
そして、今のところ白塔の外へ持ち出せる唯一の言葉が、“零”だということも。
学食を出たあと、二人と別れて廊下を歩きながら、志乃は小さくその二文字を心の中でなぞった。
零。
口に出しても死なない、たったひとつの名前。
白塔の秘密には触れられない。
あの女のことも、男のことも言えない。
ならせめて、この名前から辿るしかない。
午後の講義へ向かう学生たちの流れの中で、志乃はひとりだけ立ち止まり、講義棟の窓越しに遠い空を見た。白塔そのものはここから見えない。見えないはずなのに、その白い輪郭だけが視界の奥に貼りついて離れなかった。
綾崎志乃は、ゆっくりと息を吸う。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「零」
喉は締まらなかった。
代わりに、胸の奥で何かがわずかに軋んだ。
それは恐怖か、焦りか、あるいは始まりの音だったのかもしれない。




