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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第2節 霊気力

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眠れない朝

白塔から戻った翌朝、綾崎志乃は、ほとんど眠れないまま大学へ向かった。


眠れなかった、というより、眠ることを身体が拒んでいたに近い。目を閉じるたびに、白い通路の奥にあった重い扉が浮かんだ。その先の部屋。青白い照明。寝台に横たわる女。静かすぎる男の目。そして、自分の喉へ刻み込まれた見えない楔。


浅いまどろみへ落ちても、すぐに息苦しさで目が覚めた。


話した瞬間に死ぬ。


その言葉が、夢の中ですら現実味を失わない。


何度目かの覚醒のあと、志乃は諦めてベッドから起き上がった。時刻は六時を少し回ったところだった。東都の朝は早い。研究棟へ向かう職員も、物流ラインを監視する保守員も、大学の一限へ急ぐ学生も、皆がまだ涼しい空気の中を整然と動き始める。


カーテンを開ける。


曇ってはいない。


空は白く薄まり、今日も乾いた朝になりそうだった。


遠く、建物の隙間に白塔が見える。


志乃は反射的に視線を逸らした。


昨日までとは違う。


あれは街の景色ではない。もう、そういうふうには見られなかった。白い外壁の中に、古びた研究施設の通路があり、眠ったままの女がいて、自分を呼ぶ声がある。そのことを知ってしまった以上、塔はただのランドマークではなく、世界に空いた傷口のように思えた。


洗面所で顔を洗う。


鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。目の下には薄く影が落ち、唇の色も悪い。だが決定的に異常な箇所はない。喉にも胸にも、傷ひとつ見えない。


それでも、指先で首筋に触れると、皮膚の下へ冷たい輪が沈んでいる気がした。


朝食を取る気にもなれず、志乃は冷蔵庫の水だけ飲んだ。


喉を通るたびに、昨夜の痛みが思い出される。白塔、と口にしかけただけで、内側から一気に締め上げられた。あれは脅しではない。実際に起きる現象だ。思い込みで説明しようとしても、身体のほうが先に否定してくる。


端末を見ると、アリサから夜のうちに返事が来ていた。短く、怒っているようでいて、最後の一文だけが優しかった。


『今日は顔見たらちゃんと聞く。無理すんな』


美世からの返事は相変わらず簡潔で、しかし妙に引っかかった。


『無理に話さなくていいこともあるよ』


志乃はその文面をしばらく見つめた。


まるで、美世だけが何かを知っているみたいだった。もちろん、本当に知っているはずはない。ただ、彼女の言葉はたいてい、普通の会話の半歩先を歩いているように聞こえる。


大学へ向かう道すがら、東都は昨日と変わらぬ朝を始めていた。


歩道脇の植栽はきちんと刈り込まれ、搬送車は静かに交差点を抜け、講義棟のガラスは朝日を白く返している。霊気力だの武装勢力だの、噂ではいくらでも耳にする街だ。けれど表面だけ見れば、ここはどこまでも整理された研究都市だった。


その整いすぎた風景の中で、志乃だけが昨夜から切り離されたまま歩いている気がした。


講義棟の入口に近づいたとき、背後から勢いよく名前を呼ばれる。


「志乃」


振り返ると、西野アリサが早足でこちらへ来るところだった。肩にかけたバッグが揺れ、きりっとした目元には案の定、心配と苛立ちが半々で浮かんでいる。


「やっぱり変な顔してる」


開口一番にそう言われて、志乃は苦笑するしかなかった。


「おはようの次がそれ?」


軽口のつもりで返したが、声は思ったより掠れていた。


アリサの表情が少しだけ引き締まる。


「その声どうしたの」


志乃は喉に手をやりかけて、やめた。


「たぶん乾燥」


自分でも苦しい言い訳だと思う。


だが他に説明のしようがない。


アリサは納得していない顔で、じっと志乃を見る。その視線から逃げるように、志乃は先に歩き出した。


教室へ入ると、古本美世はすでに席についていた。今日も不思議なくらい落ち着いた様子で、端末を開いたまま窓際の光をぼんやり見ている。


志乃たちが近づくと、美世は視線だけこちらへ寄越した。


「寝てないね」


その一言に、志乃は思わず立ち止まりそうになった。


アリサがすぐに腕を組む。


「でしょ」


志乃は自分の席へ鞄を置きながら、曖昧に笑った。


「ちょっとだけ」


美世は首を横に振った。


「ちょっとじゃない」


彼女の言い方には、責める色がない。事実をそのまま拾って差し出してくるだけだ。


その分、ごまかしがききにくい。


講義が始まってからも、志乃は内容がほとんど頭へ入らなかった。板書を写しているつもりで、実際には同じ箇所に何度も視線を滑らせているだけだった。


気を抜くと、“零”という二文字が勝手に浮かぶ。


零。


あの男が最後に残した言葉。


昨夜のうちに調べた限りでは、東都の裏側で囁かれる噂の中に、確かにその名はあった。絵札の外にいる者。ジョーカー。能力を消す者。強すぎて実在すら曖昧な存在。


どれが本当で、どれが尾ひれなのかはわからない。


けれど、白塔の外へ持ち出せた手がかりがそれしかない以上、すがるしかなかった。


昼休みになり、三人はいつものように学食の窓際へ集まった。


トレイの上にはそれぞれ違う昼食が並んでいるのに、志乃だけはほとんど手をつけられない。味がしないというより、胃が食べ物を受けつけたがらないのだ。


しばらく無言が続いたあと、アリサが先に口を開く。


「昨日、何してたの」


その問いは、昨夜のメッセージよりもずっと真っ直ぐだった。


逃げ道を塞ぐようでいて、同時に、ちゃんと話せば受け止めるつもりだという意思も感じられる。


志乃は箸を持ったまま、少しだけ俯いた。


「寄り道」


それだけなら言える。


喉は反応しない。


アリサはすぐに追う。


「どこに」


志乃の指先が止まる。


言える範囲を探るように、頭の中で単語を並べる。駅前。通り道。広場。どれも違う。嘘を重ねればたぶん誤魔化せる。けれど、咄嗟の嘘で二人を納得させられる気がしなかった。


「ちょっと、あの」


そこで喉がひやりと冷えた。


まだ固有名詞は出していない。


なのに、記憶そのものへ近づいただけで、胸の裏に巻きついた輪が微かに軋む。


志乃は口を閉じた。


美世がその変化に気づいたように、静かに目を細める。


「言わなくていいよ」


その声は穏やかだった。


救われた気もしたし、見透かされた気もした。


アリサは納得のいかない顔をしたが、それでも志乃の顔色を見て、追及を飲み込んだらしい。代わりに紙ナプキンを一枚、志乃の前へ押しやる。


「せめて病院行くか保健室行くかして」


怒っているような口調なのに、やっぱり優しい。


志乃は小さく頷いた。


「大丈夫」


その言葉自体は、本当ではなかった。


けれど嘘だと断定するのもまた難しい。病気ではない。怪我でもない。何が起きているのか自分でも説明できない以上、大丈夫と言うしかなかった。


アリサがため息をつく。


「大丈夫な人はそんな顔しないの」


その指摘に返す言葉が見つからず、志乃は視線を落とした。


美世はスプーンを置いて、少しのあいだ窓の外を見ていた。秋の光の向こうに、講義棟と研究棟の白い壁面が重なっている。


「昨日から、空気が変わってる」


美世は独り言みたいに言った。


アリサが眉を寄せる。


「またそういうこと言う」


美世は否定も肯定もしなかった。


「志乃の周りだけ、ざらざらしてる」


その表現に、志乃の胸がひやりとした。


ざらざら。


まさに昨夜から自分が感じている感覚に近い言葉だった。


「何それ」


アリサは半ば呆れながらも、志乃のほうを見る。


「ほんとに熱あるんじゃない」


志乃は慌てて首を振る。


「ないって」


少し強めに否定したせいで、喉の奥がまたひりつく。


その痛みをごまかすため、水を一口飲む。冷たさが通っても、胸の裏側の異物感は消えなかった。


昼休みの喧騒の中、自分だけが薄い膜の向こうにいるようだった。


話せない。


助けを求められない。


けれど何もしなければ、昨夜の出来事は全部、自分の内側で腐っていく。


ふと、志乃は端末の画面を点けた。


昨夜開いた検索履歴が残っている。


東都 零。


東都 ジョーカー。


霊気力 絵札。


検索欄の文字を見るだけで、胸の奥にかすかな焦りが灯る。あの男が自分に残したのは、呪いだけではない。逃げ道のない宿題だった。零を探せ、と。


志乃は気づく。


誰にも話せない以上、自分で動くしかないのだと。


そして、今のところ白塔の外へ持ち出せる唯一の言葉が、“零”だということも。


学食を出たあと、二人と別れて廊下を歩きながら、志乃は小さくその二文字を心の中でなぞった。


零。


口に出しても死なない、たったひとつの名前。


白塔の秘密には触れられない。


あの女のことも、男のことも言えない。


ならせめて、この名前から辿るしかない。


午後の講義へ向かう学生たちの流れの中で、志乃はひとりだけ立ち止まり、講義棟の窓越しに遠い空を見た。白塔そのものはここから見えない。見えないはずなのに、その白い輪郭だけが視界の奥に貼りついて離れなかった。


綾崎志乃は、ゆっくりと息を吸う。


そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「零」


喉は締まらなかった。


代わりに、胸の奥で何かがわずかに軋んだ。


それは恐怖か、焦りか、あるいは始まりの音だったのかもしれない。

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