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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第1節 白塔

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零を探せ

綾崎志乃がアパートへ戻り着いたときには、東都の夜はすっかり深くなっていた。


居住区の照明は規則正しく足元を照らし、エントランスホールには遅い時間特有の静けさが満ちている。自動ドアはいつも通りに開き、無人受付の表示パネルは淡い青を保っていた。何もかもが普段通りだった。


その“普段通り”が、かえって志乃には恐ろしかった。


数十分前まで、自分は白塔の中にいた。


古い研究施設みたいな通路を歩き、地下へ降り、眠っているのか死んでいるのかわからない女を見た。彼女の傍らには、あまりにも静かな男がいた。そして喉の奥へ、見えない呪いを刻まれた。


それなのに、アパートの廊下には誰かが干している洗濯物の匂いがして、隣室では小さく音楽が鳴っていた。日常は何ひとつ壊れていないように見える。


壊れたのは、自分だけだった。


部屋へ入るなり、志乃は靴もきちんと揃えないまま壁へ背を預けた。


玄関灯の白い明かりが、狭いワンルームをいつも通りに照らしている。


キッチン脇の流し。


投げ出したままの教科書。


ベッドの上に置きっぱなしのパーカー。


見慣れたはずのものばかりなのに、どこか自分の部屋ではないみたいに遠い。


喉が痛かった。


熱を持っているわけではない。


むしろ冷たい。


表面ではなく、喉の奥、胸骨の裏、心臓の周囲へ、細い金属の輪がいくつも巻きついているみたいな感覚がまだ残っていた。鏡を見れば何か痕があるのではないかと思って洗面所へ向かったが、映った自分の首筋には何の変化もない。


赤みも、痣も、傷ひとつない。


それが余計に現実味を奪う。


「……夢じゃないよね」


そう呟いた自分の声は、思った以上に弱かった。


鏡の中の志乃は顔色が悪い。


目元には疲れが滲み、髪は乱れ、唇も乾いている。だがそれは、怯えて走って帰ってきた女の顔でしかない。白塔の地下で何かに呪われた人間の顔には見えなかった。


端末がまた震えた。


画面を見ると、アリサからのメッセージがいくつも並んでいる。途中からは通話も何件か入っていた。美世からも短く一件だけ届いている。


『無事?』


それだけの文面だった。


志乃はしばらく画面を見つめたまま動かなかった。


本当のことを返したかった。


白塔で変なことがあった、と。


助けて、と。


何から説明すればいいのか自分でもわからないけれど、とにかく一人では抱えきれないと。


そう返せたらどれだけ楽だろうと思う。


だが、喉の奥にはさっきの激痛がまだ記憶として残っていた。


白塔、と口にしかけただけで、胸の内側まで一気に締め上げられた。あれは脅しではない。条件だ。境界線を越えた瞬間に身体が反応するよう、男は本当に自分へ何かを埋め込んだのだ。


志乃はソファ代わりのベッドの端へ腰を下ろし、長い時間をかけて短い返事を打つ。


『平気。ごめん、ちょっと体調悪かった。また明日』


送信してから、ひどい嘘だと思った。


だがこれ以上のことは書けない。


少なくとも今は。


しばらくしてアリサから既読がついたが、返事はすぐには来なかった。怒っているのか、呆れているのか、ただ様子を見ているだけなのか、画面越しではわからない。


美世には、同じ文を少しだけ短くして返した。


それで精一杯だった。


部屋の中は静かだった。


静かすぎて、白塔の地下で聞いた男の声が逆に鮮明になる。


見たこと、聞いたこと、知ったこと。


それを他人へ話した瞬間、お前は死ぬ。


志乃は無意識に自分の喉を押さえた。


皮膚の表面はただ温かいだけだ。


なのに、その下にはたしかに得体の知れないものが潜んでいる。


試すつもりはなかった。


だが、ふと、別の二文字が脳裏に浮かんだ。


零。


あの男が最後に言い残した言葉。


あれは、呪いに引っかからないのだろうか。


志乃はしばらくためらった。


これ以上、自分の身体で何かを試すのは愚かだと思う。けれど同時に、零という言葉だけが、この状況の中で唯一、あの男自身がこちらへ投げ渡してきた“外へ向いた出口”のようにも思えた。


「……零」


恐る恐る、声にする。


喉は痛まなかった。


胸の奥の冷たい輪も、わずかに身じろぎしただけで、それ以上は締まらない。


志乃は息を止めたまま、数秒待つ。


何も起きない。


そのことに安堵したのか、逆に追い詰められたのか、自分でもわからなかった。


零は言える。


白塔で見たことは言えない。


つまりあの男は、本当に自分へ“探せ”と命じたのだ。


志乃は端末を握り直した。


検索画面を開く。


最初は何を入れるべきか迷って、結局そのまま短く打ち込んだ。


東都 零


当然のように、結果はばらばらだった。数学科の講義資料、零点調整プログラム、企業名の断片、古い掲示板、無関係な記事。どれも求めているものではない。


次に、少しだけ条件を足す。


東都 零 霊気力


今度は件数が減った。


代わりに、奇妙な単語がいくつか混ざる。


絵札。


四天王。


ジョーカー。


志乃は眉をひそめ、検索結果のひとつを開いた。


匿名掲示板のまとめ記事だった。信憑性など、あってないようなものだ。だがそこには、東都で囁かれているらしい噂話が、断片的に並んでいた。


東都には強力な霊気力者がいる。


その中でも際立つ四人を、誰かが勝手にトランプの絵札になぞらえて呼んでいる。


そして、絵札にも収まらない例外がいるとすれば、それは零位の札、ジョーカーだ――。


記事そのものはくだらない噂の寄せ集めにしか見えなかった。


具体名もない。


証拠もない。


書いてあることはどれも都市伝説じみていて、大学の昼休みに誰かが面白半分で話しているのと大差ない。なのに志乃は、その曖昧な文字列から目を離せなかった。


ジョーカー。


零。


あの男が口にした言葉と、完全ではないにせよ繋がっている。


「……これ、なの」


答えはどこにもない。


だが、真っ暗闇に小さな針穴がひとつ空いたような感覚だけはあった。


志乃はさらに検索を続けた。


東都 ジョーカー。


東都 零位。


霊気力者 零。


結果はやはり散らばっている。噂ばかりだ。強すぎて存在が確認できない者、能力を消す者、絵札すら恐れる例外、そんな尾ひれのついた話ばかりが目につく。


どれが本当で、どれが作り話なのか、志乃にはまるでわからない。


それでも、まったくの空白ではなくなった。


“零”は少なくとも、自分だけが聞いた意味不明な単語ではない。この街のどこかで、誰かがその名を知っている。


問題は、どうやって辿り着くかだった。


白塔のことは話せない。


あの女のことも、男のことも言えない。


なのに零については知らなければならない。


ひどい無理難題だ、と志乃は思う。


誰かに相談することすら封じられたまま、得体の知れない噂の中から一人か、あるいは一つの存在を探し出せというのだから。


端末の画面を見つめたまま、志乃はその夜ほとんど眠れなかった。


ベッドへ入っても、まぶたの裏に浮かぶのは白塔の地下の冷たい光だ。寝台に横たわる女の青白い顔。彼女へ手を伸ばす男の静かな仕草。見たことを話そうとした瞬間に喉を内側から締め上げてきた呪いの痛み。


そして、そのすべての最後に落ちてくる二文字。


零。


東都の夜は長く、静かだった。


窓の外では研究都市の灯りが途切れずに点り続けている。ときおり遠くを走る車両の光がガラスへ流れ、天井へ淡く揺れる。いつもならその人工的な安心感の中で眠れていたのに、今夜ばかりは、街そのものが巨大な機械の上で呼吸しているように思えて落ち着かなかった。


明け方近く、志乃はようやくベッドの上で身を起こした。


諦めたのだ。


眠ることをではない。


何もしないままやり過ごすことを。


自分は本来、満たされないものを追い回す性格ではない。答えがないなら、なくても生きていけるものとして放っておくほうだ。そうやって軽やかに生きてきたつもりだった。


けれど今回は、放っておけない。


それは好奇心ではなく、責任でもない。


もっと質の悪い、逃げても追いついてくる類の何かだった。あの女の声が、自分を呼んだ。あの男は、それを利用するみたいに、零を探せと命じた。どちらも嫌だった。関わりたくない。できるなら今日の朝には全部忘れて、大学へ行って、アリサの小言を聞いて、美世の妙な話に笑っていたい。


それでも、もう無理だとわかっている。


知らなければ、あの白塔の中に残されたものはずっと自分の中へ棘のまま刺さり続ける。


カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し始める。


志乃は端末を手に取り、昨夜開いたままだった検索結果をもう一度見た。


断片的な噂。


曖昧な名。


実在するのかもわからない、零という存在。


それでも、いま自分が向かうべき先はもうひとつしかない。


助けるためなのか。


呪いを解くためなのか。


それともただ、あの声を無視できないからなのか。


答えはまだわからない。


ただ、綾崎志乃はその朝、生まれて初めて“自分から追わなければならないもの”を持った。


白塔の地下で男に刻まれた言葉が、また耳の奥で静かに蘇る。


「助かりたければ、“零”を探せ」

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